Ⅰ 社長の死
第3話
通勤電車には、スーツに着られている新入社員や真新しい制服姿の高校生がいて、普段と異なる緊張感があった。彼らの表情に新生活への希望と不安を見た
法子が勤める株式会社システム・ヤマツミも、この春には三十名ほどの新入社員を迎えていた。そこはビジネスソフトを開発するIT企業だけれど、十三年ほど前からふるさと納税サイト〝
世間にふるさと納税制度が浸透し、返礼品をもらわなければ損だといった風潮が定着している。おかげでシステム・ヤマツミの業績は今後も右肩上がりが続くだろう。そうした会社成長の功労者が、十三年前にふるさと納税制度のサイトの運営権を取得した今の社長、
宝田は、企業としてステップアップするために株式上場を目指し、二年前に監査部を設けた。上場企業の監査部門から五十代のベテラン監査人、
法子が事務所についたのは始業時刻の二十分ほど前だった。
「エッ……?」
事務所に入るとすぐ、その異様な空気に驚いた。出社している社員はまだ半数にも満たないけれど、人事部や総務部の社員はみな受話器片手に大声で話し、他の社員はあちらこちらに集まって議論していた。
「部長、おはようございます。何かあったのですか?」
都留はインターネットで何やら情報を検索していた。その顔には緊迫感が張り付いている。
「おう、剣さん。驚くなよ。社長が殺されたそうだ」
「まさかぁ……」
冗談だと思った。都留は日ごろからオヤジギャグを連発する上司だから。しかし、笑うことはできなかった。心の奥底で、笑ってはいけないと別の自分が言っていた。
「冗談じゃないぞ。
「まさか……」他の言葉が見つからなかった。
自分の席に腰を下ろし、無意識にパソコンの電源を入れた。部長のようにネットで情報を探そうというわけではなかった。日常のルーティンだ。
頭の中に広がったのは、優秀な経営者を失った会社の先行きと漠然とした不安だった。
ほどなく亀田と真子が出社し、彼らも「まさか」と反応した。
「どうして殺されたのでしょう?」
「仕事はできるけど、女性関係はルーズだからな」
「そうなの?」
社長の女性関係については初耳だった。
「社内の女性に手を出すようなことはないけど、愛人がいるというのは有名な話だよ。なんでも外に子供までいるようだ」
「そうですね。会社に電話がかかってくると、噂は聞いたことがあるわ」
亀田と真子の話は意外だった。法子は、宝田は人当たりの良い紳士だと思っていた。
「痴情のもつれ、ということですか?」
「そうとは限らないさ。仕事上の怨恨ということもあれば、通り魔殺人の可能性だってある」
都留が離れた場所から割って入った。
「怨恨って……、社長は人たらしで有名なのに」
亀田は納得できないようだ。
「人たらしだからって、恨まれないということにはならないんだよ。信じていたからこそ、裏切られた時の恨みは強くなるというものだ」
言いながら彼は席を立ち、部下たちのもとにやって来る。気づくことがあった時、そうして教えるのが彼のやり方だった。
「さすが部長。博識ですね」
真子がおもねるように応じた。
「我々だってそうだ。人間関係が出来ている相手でも、一度の監査でそれが壊れてしまうことがある。人間関係ができていると、手心を加えてもらえる、と期待する社員がいる。だから普段の付き合いから気をつけておいた方がいい」
都留は法子の背後に立って静かに語った。その目線は亀田に向いている。
「犯人は社長の知りあい、ということですか?」
「いや、人当たりのいい人物が恨まれないとは限らない、というだけだ。社長の事件とは関係ない」
都留は首を振り、自分の席に戻っていった。
「社長、どこで殺されたのでしょう?」
「さあ?」
法子の質問に真子が首をかしげて見せた。
「いずれにしても、社長が殺されたとなると会社の評判は下がるだろうな」
亀田が腕を組む。
「つぶれたりしませんか?」
「それはないと思うけど、上場は先送りだな」
「監査部はどうなります? 上場しないとなると、お荷物になりませんか?」
「経営陣がどう判断するか……」
「無責任な会話はやめておけよ」
都留に注意されても、法子たちの話が終わることはなかった。ことは自分たちの未来を左右する一大事だ。
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