第2話

「見えてる」

 女はそう言った。和泉は何も答えられなかった。見えるとか、見えないとか……そういうの冗談じゃない。女はぎょろりと目を向いて和泉を睨んだ。だが、和泉も負けないくらいに大きく目玉を開いていたに違いない。

 女の体はまだ井上の椅子に座ったままだったのだ。

 がしゃんと音がしたのは、和泉が立ち上がった瞬間に椅子が倒れたからだ。だが、そんな事はどうでもいい。まだ手をつけていない弁当も、和泉を不審げに見る社員達の視線もどうでもいい。和泉はぱっと女に背中を向けて逃げ出したのだ。

 営業二課の部屋を飛び出し、廊下を走った。

「何……あれ、何、あれ」

 とつぶやきながら走った。エレベーターの前まで走って、息苦しさに足を止めた。

 人はいる。お昼休みだといえ、あそこにもここにも、人は大勢いる。

「何やってんだろう。さっきのは何だったんだ? 夢でも見たのか?」

 チンと電子音がしてエレベーターが来た。最上階の休憩所にはジュースの自動販売機がある。熱いコーヒーでも飲もう……ポケットにはいつでも小銭が入ってるはずだ。そう思いながら開いたエレベーターに乗り込もうとして、

「ね え った ら」

 女の首から上がエレベーターの鏡にはりついていた。女は和泉を見た。その青白い生気のない顔を和泉は知っていたが、すぐには思い出す事が出来なかった。

「ぎゃーーーー」

 と和泉は大きな悲鳴を上げて文字通りにその場で飛び上がった。 

「ね え 見えて る」

 と女は再びそう言った。

「どうしたのよ?」

 と通りすがった先輩に声をかけられたが、先輩は和泉の指さす方向を見て首をかしげた。

「しゃきしゃき 見えね 他 人は」

 と女が笑った。やけに口が大きく開き、ぎざぎざの歯が見えた。

 ぴょんと女の首が飛んで和泉の目の前に着地した。床から女の首だけが生えている。女はにたりとうれしそうに笑った。

 逃げるとか逃げないとかそういう問題ですらない。まるで部屋の隅に見つけたゴキブリだ。目が離せない。目を離すとどこへ行ってしまうか分からなくなる。そして再び心臓が飛び出すほどに驚かされるくらいなら、じっと見つめていたほうがましなのだ。

 動き出したエレベーターが再び同じ階へ戻るまで、和泉は微動だにせずにその首を見つめていた。女はにたりにたりと笑いながら和泉の方へ少しずつ距離を詰める。

 チンと音がしてエレベーターが開いた。その瞬間、

「ギギイ」

 と女が苦しそうな声を出した。そして背後を振り返り、エレベーターから降りてきた人間を見て怯えた顔になった。

「はじ 飛ば」

 とつぶやいてから、しゅっと一瞬で和泉の目の前から消えた。

「珍しいな。こんな昼間っから」

 コンビニの袋を下げてそこに立っていたのは土御門賢だった。

「まさるちゃん……」 

 和泉はへとへととその場に座り込んでしまった。

「何やってんだ?」

 と賢が言った。

「何やってたも何も……」

 賢の顔を見てほっとしてしまった。

 和泉は立ち上がり、制服のスカートをぱんぱんと払った。

「今の、見たよね?」

「ああ」

「何、あれ」

「さあ、地縛霊じゃね」

「じ、地縛霊って」

「今の、この間自殺した島田さんだろ」

 と賢が言ったので、和泉は立ち止まった。

「そう……確かにそうだった! あ、ちょっと待ってよ!」

 興味なさそうにすたすたと歩いて行く賢を和泉は慌てて追いかけた。

 島田先輩は先月、会社の屋上から飛び降り自殺をした。遺書も何もなかった。昼まで普通に仕事していたのに、お昼休みを過ぎて姿が見えなくなり、すぐにビルの裏で倒れて死んでいるのを発見された。島田先輩は四十五才で独身だった。厳しいお局様で怠け者には女子も男子も関係なく叱った。課長にも意見を堂々と言っては煙たがられる存在だったのだが、どちらかと言うと和泉は彼女が好きだった。さばさばした性格も飲み会ではビールや焼酎をがぶがぶ飲むおっさん的な所も好きだったのだ。

 何故自殺したのかは分からない。島田先輩の同期は結婚退職してしまいほとんどいなかった。悩みを打ち明けるような親しい友人は会社にはいなかったんだろうと思う。

 自殺の理由は謎のまま、特別な捜査が行われることもなかった。先輩の葬式を終えてそして皆の記憶からも忘れ去られようとしていた。

「どうして島田先輩の霊が出るのよ!」

「さあ」

 賢はすたすたと庶務課の部屋へ入って行った。自分の椅子に座り、コンビニで買ってきた弁当を広げる。

「しかもどうして私のとこへ出るのよ~~」

「見えるからだろ」

 もぎゅもぎゅと弁当を食べながら賢が言った。

「じょ、冗談じゃないわ」

「地縛霊は淋しいからな、見える人間のとこに出るんだ。構ってもらいたいんだよ。だから見えないふりをするのが一番」

 と賢が言った。

「そんな事言ったって……急に視界に入ったらびっくりして声がでるでしょ!」

「そうか?」

「賢ちゃんは見えないふりが出来るの?」

「慣れてるし」

 と賢が平気そうな顔で言った。

「どうすればいい?」

 賢は箸を置いて、ペットボトルの茶を一口飲んだ。そして、

「会社、やめれば?」

 と言った。

「ええ?」

「地縛霊ってのは、その地に留まっているから地縛なわけ。会社からは離れられないだろうよ。デブネズミ……いや、デブ和泉が会社やめればそれまで」

 と事もなく言ったのだ。

「そんな事できないわよ! 地縛霊の為に!」

「じゃ、あきらめろ」

「冷たいじゃないの」

「しょうがないだろ。自分で対処出来ないんなら逃げるしかない」

「ぐ……嫌よ。会社やめるのは。この不況に再就職なんて!」

「なら、見て見ぬふりでもすれば」

「だって追いかけてきたのよ?」

「なんか、言いたいことでもあるんじゃないの?」

「え?」

 賢は弁当を平らげ茶を飲み干した。腕時計を見てから、

「昼休み終わってるけど?」

 と言った。

「え、うわ! まだお弁当食べてないのにぃ!」

 冷たい賢を少し睨んでから、和泉は庶務課を出た。 


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