八尺様vs東洋の巨人
加藤よしき
八尺様vs東洋の巨人
1
夜風にすすきが揺れる。鈴虫が鳴く。黒い雲が流れる。
男は空を見上げる。そこに在るはずの満月は、雲の隙間からわずかに覗くだけだ。それはまるで、こちらを観察する無表情な視線に見えた。男は思い出す。こういう視線にずっと晒されてきたこと。こういう視線を熱狂と興奮に変えてきたこと。
ふっと男は笑う。彼は時代小説を愛していた。だから、まるっきり今の自分の立ち姿が――。
「まるで剣豪同士の果たし合いだな。我ながら、こんなバカをやるとは」
これから男は殺し合いを行う。使うのは鍛えた肉体と、身に着けた技術のみ。ルールはない。テンカウントも、ギブアップも、止めるレフェリーもいない。
何故そんなことをするのか? それには、この男を取り巻く現状が関係していた。
男はプロレスラーだった。しかも国内最大の団体のエースだ。すでに日本中で知られる存在であり、国民的なスターと言ってよい立場にある。「日本一のプロレスラー」あるいは「最強」。こういった肩書きが、彼の背には乗っている。ほとんどの人々は、その事実に納得していた。
しかし、たった一人だけ、この現状に断固として納得していない男がいた。他ならぬ、この男自身だ。
男には宿敵がいた。その宿敵は同時代にプロレスラーを志し、同じ師のもとで地獄を見た。誰よりも長く、濃密な時間を共に過ごした親友だ。だからこそ、宿敵でもあった。何故なら彼には、圧倒的な才能があったからだ。そして彼は、自分と全く違う世界を見ていた。彼はプロレスラーでありながら、その心を真剣勝負の世界に置いていたのだ。
真剣勝負。プロレスのように筋書きはなく、相手を一方的に破壊し、再起不能にする。当然その逆もあり得る。勝つか負けるか誰にも分からない、スリリングな世界。宿敵はプロレスラーでありながら、そんな世界の頂点を目指していた。彼は傲慢で、危険で、次に何が起こすか分からない。それゆえに圧倒的に魅力的だった。
宿敵の存在は、男の哲学とは相容れないものだった。男にとってプロレスとは、自分の強さをひけらかす場所ではない。相手と自分の魅力を引き出し合い、観客を盛り上げる空間だ。リングとは舞台であり、自分たちは肉体を使って物語る俳優であり、観客を熱狂させる演出家だ。そのためには、いかなる時も冷静でなければならない。筋書きを忘れてはならない。ましてや「何が起きるか分からない」なんて、あってはらない。それが男の哲学だった。この確固たる哲学を胸に、男は成功を収めてきた。
しかし男は、誰よりも宿敵に魅せられ、惹きつけられていた。同じプロレスの世界に生きる人間として、強烈に嫉妬し、恐れてもいた。最強の肩書きは、宿敵にこそ相応しいとすら思えた。男が自分こそが最強だと思えない理由は、彼の存在にあった。自分は宿敵のように非情になれない。宿敵のように熱くなれない。自分は常に一歩引き、周りのことを考えている。演出家としての目を決して忘れない。主演にも、主人公にも、決してなれないのだ。この自覚が男を不安にさせた。いずれ必ず来るであろう、彼の創る「プロレス」の空間に、自分は対抗できないのではないか。彼の真剣勝負のプロレスに、俺の舞台のようなプロレスは劣るのではないか。俺は彼よりも弱いのではないか。
こうした疑問を払拭するために、男は殺し合うのだ。自分の強さを証明したい。宿敵が見ている景色を見てやろう。まだ俺が見た事のない、真剣勝負の果てにある景色を見て、自分が何を思うかを知りたい。
その時、ひときわ冷たい風が吹いた。途端に鈴虫が一斉に鳴きやんだ。
「ポッ」
奇妙な声がした。
男は声の主を見る。そこ立っていたのは、女だった。2メートルほどの長身で、長い荒れ放題の黒髪を胸まで伸ばし、それでいて目が覚めるほど白いワンピースを着ている。
男は恐怖せず、感心した。
「ほほう、噂通りのデカさだ。他人と目線が合うのは、久しぶりだよ」
男は刺繍の入ったガウンを脱ぎ、黒いパンツ一丁の姿になった。鍛えられた2メートル、145キロの肉体が露わになる。
「ゴングは要らんよ」
男は拳は握らず、両手を掲げる。まるで相手を抱き留めるかのような構えだった。
その姿を見るや、女は裂けそうなほど口を大きく広げ、再び咆哮する。
「ポポポポポポッ!」
女は男へ向かって突進した。相撲のぶちかましの如く、男はそれを受けとめる。女は人間離れした力をしている。しかし男もまた普通の人間ではなかった。男の足が地面をえぐる。土煙が上がる。女は押し続ける。しかし、1メートルほど押し進んだところで、ふたりは止まった。
「ポ?」
女が、男を見上げた。すると、
「いいぞ。噂通りの怪物だな」
男は満足そうに微笑んだ。なんともジャイアントな、ほがらかな笑顔だった。
2
男は真剣勝負をしたかったが、戦うに足る相手がいなかった。そもそも殺し合いを受けてくれる者など、滅多にいない。
プロレスラーたちの中にはいるかもしれないが、それはできなかった。彼らは自分と同じ同業者であり、ビジネスパートナーだ。仲間を危険な戦いに巻き込むことはできない。この真剣勝負は、自分の我がままだ。そんなものに業界を付き合わせる気はない。これも男の哲学だった。
同じ理屈で、他の格闘家も相手にとって相応しくないと思った。もしも自分が負けたなら、その格闘家は「自分は最強のプロレスラーを倒した。プロレスなどその程度のものだ」と喧伝するだろう。これも決して許されない。熊や虎と戦うことも考えたが、これも無理だと考えた。戦えば勝てるとは思ったし、負けたあとに食われるのも構わない。しかし、最強のプロレスラーが負けて食われたでは、これもまたプロレス業界全体のイメージダウンになるだろう。
勝っても負けても、その結果を人知れずに終わる相手。男が求めたのは、そういう相手だった。男は条件に合う相手を求め続け、遂に山陰地方の田舎に伝わる伝説を知った。「八尺様」と呼ばれる妖怪だ。名前の通り八尺(2メートル)の身の丈を持ち、子どもを襲い、どこかへ連れて行ってしまう。その力は強く、誰にも邪魔をすることはできない。何人もの人間が八尺様に襲われて行方不明になっているという。
男は「これだ」と思った。負ければ自分が生死不明になるだけだ。これならば業界は混乱はするだろうが、プロレスの名誉に傷はつかない。ひとりのプロレスラーが失踪しただけで終わる。もちろん勝っても問題はない。化け物が相手なら、殺しても罪には問われないだろう。
男は極秘でこの地に入った。葉巻を片手に山で寝泊まりすること数日、遂にそいつと――八尺様と出会ったのである。
「ポポポポ……!」
「むむむ……!」
男と八尺様は、組み合ったまま微動だにしない。体格は同じ。腕力も互角。単純な力比べでは決着がつかない。男が次の展開を考え始めた、その時だった。
「ポッ!」
八尺様が、男の首筋に噛みついた。
「ぐあっ!」
男は苦悶の声をあげる。噛みつき。それも命に関わる太い血管の通る首を狙ったひと噛み。プロレスでも許されないし、一般の喧嘩でもまず出てこない行動だが、これは「殺すか、殺されるか」の戦いである。
――これが真剣勝負か。これがアイツの見ている景色か。
男の背中に冷たいものが走り、宿敵の顔が浮かぶ。手段を選ばず“潰し”に徹する、キラーになった時の、あの男の顔が……。
「ポッ~~!」
八尺様は叫び、跳んだ。男の胴体に腕と足を絡め、抱き着き、さらに強く首を噛む。ミリミリと肉が食いちぎられる音がした。
激痛の中、男は恐れた。
――倒れたら、終わる。
しかし男は倒れなかった。体重150キロ前後の怪物に抱き着かれながらも、立ったままだった。プロレスラーとして培った足腰が、八尺様の死の抱擁を支えていたのだ。だが、このまま支え続けることは不可能だった。さらにもしも倒れたなら、八尺様が自分に馬乗りになる。そうなったら絶望的に不利だ。子どもの喧嘩と同じく、馬乗りなられてからの逆転は非常に難しい。
――くそ、このままでは。
敗北の予感が男の脳裏によぎった。その瞬間、八尺様の力が増した。体勢が変わったのでもない。両者のあいだに何も変化は見てとれない。それにも関わらず、八尺様の力が別人のように増したのだ。
――なんだっ!?
男は困惑する。彼は多くのプロレスラーと戦ってきた。その経験があるから、組み合えば相手の実力が分かる。先ほど組んだ時に、八尺様の腕力は見切った。自分と同程度だったはずだ。しかし今、八尺様の腕力は露骨に強さを増している。絶対値が現在進行形で増大しているのだ。
「ポッ、ポッポポポポ!」
八尺様が噛みついていた口を離し、勝ち誇ったような笑い声をあげた。困惑する男の顔を見下ろしながら、両手で拳を握り、それを振り下ろしてきた。
ぐちゃっ。
鉄拳が、男の顔面を捉える。八尺様の連撃が始まった。硬く冷たい拳で、男の鼻が、目が、頬が、口が、所かまわず打たれ続ける。降り注ぐ鉄拳を受けながら、男は考えていた。
――なぜだ、なぜ強くなった? いや、考えている場合じゃない!
男は己の癖を憎んだ。どんな時でも考えてしまう。何も考えない獣のように、戦いに夢中になれない。闘士としての悪癖が出てしまった。弱さが出てしまった。
次の瞬間、さらに威力を増した八尺様の拳が、男の鼻を叩き潰した。そして男の意識が彼方へ飛んだ。
3
男は意識を失い、崩れかけた。意識が戻って来れたのは、崩れるより前に八尺様の次なる鉄拳が振って来たからだ。その一撃の痛みが、男を失神より連れ戻した。
しかし状況は依然として最悪だった。抱き着かれ、一方的に殴られまくる。おまけに八尺様の力は、一撃ごとに強くなる。両手で防ごうとするが、このままでは再び致命の一撃を食らって倒れるのは時間の問題だ。
限りなく詰みに近い状況で、男はまたしても考えていた。顔が変形するほど打たれながら、考える。それは男の生まれつき持っていたもので、プロレスラーとして経験を積むほどに強くなった癖だった。いつも男は考えてきた。自分のこと、会場に集まった観客のこと、自分の試合だけではなく、興行全体のこと。その天性の冷静さが、今まさに彼の頭を夢中で回していた。
――どうして八尺様の力が増したんだ?
打たれながら、男は考える。この問いかけの応えは、つまるところ最初に組んだ時と、今の違いだ。先ほど組んだときは、こんなに強くなかった。しかし今は、さっきより格段に力が強い。つまりこのわずかなあいだに、何かが変わったのだ。
――組んだ時は加減していて、これが本気だったのか? いいや、それはない。だったら最初から今の力で来るはずだ。力を出し惜しみする理由がないし、力を出し惜しみするタイプとも思えなかった。
男はロジカルに考える。これはアメリカに武者修行に出たときの経験でもあった。アメリカのプロレスは日本よりも遥かにビジネスであり、特に契約には情が入り込む隙間はない。プロモーターたちと向き合う時は、ビジネスマンとして人並外れて冷静になる力が問われた。生まれた時から持っていた大局的視点と、アメリカで鍛えられたビジネスマンとしての姿勢が、今まさに答えを弾き出そうとしていた。
――相手が変わっていないなら、俺の方に理由がある。俺がさっきから変わったといえば、そうだ、不利な状況に陥っていることだ。負けるかもしれないと考え、負けることに怯えていることだ。それが唯一、変わったことだ。
漠然とした理由だった。しかし、
――だとしたら、俺は一歩前に出る!
男は弾き出した結論を信じた。どれだけ抽象的でも、論理的に考えた末の答えなら信じることができるのだ。
そして男は、降り注ぐ八尺様の鉄拳のひとつに狙いを定める。高く振りかぶって、こちらに向かって飛んで来る拳に、自分から当たりに行ったのだ。
男の額と、八尺様の拳が激突した。
「ポウッ!」
悲鳴を上げたのは、八尺様の方だった。
すると万力のように男を締め上げていた八尺様の手足から、露骨に力が抜けて行った。しかもそれは拳へのダメージで緩んだのではなく、力の絶対値が下がったと伝わるものだった。男は確信する。八尺様の力は、こちらの心の在り方に合わせて上下するのだ。こちらが恐怖を覚えれば力を増す。一方で恐れなければ、その力は一定のものでしかない。つまりは、ビビらなければいいのだ。それだけならできる。プロレスラーとして、自分は常にそうして生きてきた。どんな打撃も、どんな投げ技も、死ぬほど恐ろしい技の数々を、ビビらずに受けてきた。だから――。
「ポポウ!」
八尺様は拳を再び拳を振り落とす。しかし男は、顔面に何発も打撃を食らいながらも、今やすっかり冷静に次の戦略を練っていた。
――倒れることはできん。支え続けることもできん。ならばッ!
男は、八尺様を力の限り抱いた。
「ポッ!?」
八尺様が驚きの声を上げると同時に、男は全力で反り返った。八尺様を抱いたまま。それは古典的なプロレス技――ジャーマンスープレックスだった。
4
「ポウアッ!」
八尺様の脳天が地面に突き刺さる。死の抱擁を解いた男は、素早く立ち上がり、バックステップで距離をとる。己のダメージを確認する。殴られ続けた顔面が痛み、噛みつかれた首筋からの出血はある。この程度は慣れたものだ。
一方、八尺様も立ち上がる。その呼吸は荒々しく、顔は憤怒に歪んでいた。
男は呟き、拳を握る。
「ここからだぞ、かかって来い」
その言葉に答えるように、八尺様が再びぶちかましを仕掛ける。男はこれを避け、代わりに鉄拳をブチ込んだ。一発、二発、三発。握り拳は的確に顔面を捉える。負けじと八尺様も手足を振り回す。巨躯から繰り出されるそれは、獰猛で力強いが、いずれも粗雑な打撃だ。男は巧みに避け、パンチを八尺様の顔面に集中させる。
その一発が、八尺様の顎を捉えた。八尺様が揺らぐ、その瞬間を男は見逃さない。男は肩を掴み、引き寄せ、同時に手刀を八尺様の脳天に叩き込んだ。「脳天唐竹割り」これはリング上での男の代名詞でもあった。
次に狙ったのは、ふらつく八尺様の腰だ。突っ込み、崩し、倒す。レスリングの基本技術、タックルだった。地面に押し倒した八尺様に対して、男は技を仕掛ける。シンプルだが危険な技、男の得意技だが、自分の真似をする子どもが事故を起こす可能性を考え、封印を考えている技――「逆エビ固め」だ。
うつ伏せになった相手の背中に陣取り、相手の足を両脇に挟んで、背骨を反対方向に反らす。
男がこの技を選んだのには理由があった。それは先ほどのジャーマンのあと、八尺様が息を荒げていたことだ。つまり八尺様は呼吸をしている。呼吸をしているということは、息を吸えなくなれば、何らかの障害が生じるはずだ。
そして逆エビ固めは、腰と背骨を極めながら、相手の胸部を大地に押し当てることで肺の空気を全て放出させ、窒息させる技でもある。呼吸をしている相手ならば確実に効くはずだと、男は考えたのだ。
「ポッ……! ポッ……! ポワァ!」
案の定だった。八尺様が大地を叩き続ける。和太鼓のような音が響く。それが降参の意であることは、男にも十分に伝わった。
やがて八尺様の背骨が軋み出し、その声が消え入りそうになったとき、
「もういいだろう」
男は続けて、
「悪さをしているらしいが、もうやめるんだな」
そして男は逆エビ固めを解いた。
「ポ~ウッ、ポ~ウッ!」
激しく息を吸う八尺様を背に、男は歩き出した。もはやその胸に迷いはなかった。この一戦を持って、男のすべてが逆転したのだ。
殺すか殺されるかの勝負に身を置いてもなお、自分は宿敵のように振る舞えなかった。冷静に、自分を含む全体を俯瞰して見ていた。だが、そのおかげで八尺様の力が増大した理由を掴めた。八尺様が呼吸をしていることにも気が付けた。相手を分析し、対策を立て、最適な技を選び、勝利した。プロレスラーとしての能力で、真剣勝負を制したのである。自分は宿敵のように、我を忘れて相手を潰すキラーにはなれない。だが宿敵は、きっと自分のように殺し合いの最中に冷静ではいられないだろう。俺には俺の強さがある。俺の弱点は、俺の強さだ。
男は、己の大きな拳骨に視線を落とす。
「なぁ、カンちゃん。俺は見たよ。真剣勝負の先に、プロレスがあったんだ」
男は宿敵に向けてそう呟いた。迷いは消え、進むべき道が見えた。全身の血が湧き、一方で心は研ぎ澄まされていた。ゆえに気が付けた。八尺様が立ち上がり、鬼のような形相で背後から襲いかかってきていることに――。
「アポォ!」
男が吠え、飛んだ。その十六文(38.4㎝)の足が、八尺様の顔面にブチ当たる。十六文の空中回転回し蹴りは、八尺様の2メートルの巨躯を数メートル先まで吹き飛ばした。
闇の中へ吹き飛んだ八尺様の気配が消えると、男はガウンを着て、お気に入りの葉巻に火を点けた。
「俺は、最強のプロレスラーだ」
不意に雲が晴れ、満月が顔を出す。月光が万雷の拍手のごとく、男を照らした。
八尺様vs東洋の巨人 加藤よしき @DAITOTETSUGEN
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