第21話 決断できない人
清美は人生の重大な選択から、いつも距離を置いてきた。
進学先を選ぶとき、親や先生が勧めるまま「薬剤師なら安定しているから」という理由で薬学部を選んだ。
就職のときも、自分で調べるのが怖くて、大学の就職課に紹介された薬局にそのまま決めた。
誰かと交際を始めたこともあったが、「このまま結婚してもいいのかな」「後悔しないかな」と悩み続け、答えを出せぬまま自然消滅した。
人生の交差点で立ち止まり、誰かが手を引いてくれるのを、いつもただ待っていた。
いま清美は薬剤師として、小さな調剤薬局で働いている。任された仕事はきちんとこなすが「判断」が求められる場面では決まって手が止まった。
⸻
その日は土曜日の午後だった。
薬局に、幼い女の子を抱いた母親が駆け込んできた。女の子の呼吸は荒く、頬はこけ、唇は青紫になっている。
母親は泣きそうな声で訴えた。
「すみません、この子の薬……処方されたんですが、忙しくて今日になってしまって……」
清美は処方箋を受け取り、固まった。日付は「昨日」。つまり今日が期限切れ。
「申し訳ありません……処方箋の有効期限が切れていまして……」
「でも病院はもう閉まってるんです。電話もつながらなくて……」
母親の言葉に、清美の頭は真っ白になった。
処方箋の期限が切れた薬を出すことは、法的には“違反”だ。
だが、目の前の少女は苦しんでいる。吸入薬があれば確実に落ち着く。
「……確認いたしますので、少々お待ちください」
清美はバックヤードへと逃げ込むように下がり、分厚い薬事法規集をめくる。その目は活字を追っているようで、思考は回っていない。
これまでに学んだ知識、過去に受けた研修、同僚の判断……様々な記憶が頭を駆け巡るが、結論にはたどり着かない。
「私が判断して間違っていたら……責任、取れるのかな……」
その時、入り口のベルが鳴って、社長が帰ってきた。社長は一代で地域最大の薬局を築いた傑物だ。
「……清美、あっちで女の子を抱えた母親が深刻な顔をしていたんだが、どうした?」
彼女はおずおずと答える。
「あの……女の子には薬が必要なんですが、処方箋が……その……期限が切れていて……」
それを聞いた社長はムッとして、清美を怒鳴りつけた。
「なんですぐに出してやらないんだ!可哀想だろ!目の前の女の子が苦しんでるんだぞ!」
清美は驚いて顔を上げた。
「でも……規則が……」
社長の顔は怒りに震え、しかし一点の迷いもなかった。
「もういい。俺が出す。大丈夫、責任は俺が取る。処方箋なんて後から受付日を改竄すれば良い!」
清美は言葉が出なかった。
ルールを無視する社長の豪胆さを、清美は理解できなかったのだ。
(なんで……このことがバレたら免許剥奪されるかもしれないのに……)
清美は清美なりに悩んでいた。
「私だって悩んでいたのに、どうして社長はそんな早く答えを出せるの……?」
少女は社長の素早い対応で薬を手にし、母親の腕の中で少しずつ呼吸を整えていった。
母親は安堵の涙を流しながら何度も頭を下げた。その時の社長の顔はまるで仏のように穏やかだった。
遠くからその様子を見ていた清美。
足は動かず、視線を上げることもできなかった。
⸻
その夜。
清美は、薬局の事務所に1人で座っていた。
パソコンには、政府から届いた「選択」の案内が表示されている。
A:人類全体に富を均等分配する
B:選んだ者に10倍の富を与える。ただしAの投票が79%を下回れば人類は大量消滅する
画面に表示された2つの選択肢を前に、清美はまた動けなかった。
(どっちが答え?どっちが“正解”?)
決断すれば後悔するかもしれない。選ばなければ責任はない。
その思考が、また彼女の心を締め付けていく。
「……誰か、教えてください」
その呟きは、誰の耳にも届かない。
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