第11話「探るものと探られるもの」
七月初旬、「王国」は活気に満ちていた。様々な種族が共存する共同体は、日々発展を続けていた。森の区域にはエゾリスたちが木の上から監視を行い、水辺区域ではチロが指揮を執り、中央区域ではガンが食料の管理を行っていた。そして何より、エゾナキウサギたちの加入により、「王国」の多様性はさらに高まっていた。
この日の朝、私はミウと子供たちと共に、中央広場で朝食を取っていた。森で採れた木の実や、水辺で捕れた小魚が並ぶ豊かな食卓だ。
「これは何?」ハルが不思議そうに見つめていたのは、赤い小さな実だった。
「アケビだよ」ミウが答えた。「エゾリスのキツさんが見つけてきてくれたの。甘くて美味しいわよ」
ハルは恐る恐る一口かじり、すぐに目を輝かせた。「おいしい!」
「僕にも!」キタも手を伸ばし、ユキもじっと見つめている。
私はそんな子供たちの様子を微笑ましく見守りながら、チロからの報告を聞いていた。
「水辺の工事は順調だ」チロが言った。「ガンの仲間たちの協力で、水位が上がった時の避難路も確保できた」
「良い知らせだな」私も満足した。「これで長雨や雪解けの時期も安心だ」
食事の後、「評議会」の定例会議が開かれることになっていた。最近は週に一度の定例会議に加え、必要に応じて臨時会議が開かれる形で運営されていた。
しかし、会議が始まる直前、予想外の報告がカラスのシンからもたらされた。
「ラスク!遠藤の小屋に変わった機械が設置されたぞ!」シンは息を切らせながら飛んできた。
「変わった機械?」
「ああ。屋根の上に取り付けられたんだ。回転する部分があって、時々光るんだ」
「それは…カメラかもしれない」チロが緊張した面持ちで言った。「監視カメラだ」
その言葉を聞いて、私の背筋に冷たいものが走った。「監視」という言葉は、過去の記憶を呼び覚ます。東京での日々、常に監視され、「害獣」として排除される恐怖。小田切の「GPSタグ付き首輪」による追跡作戦。人間の「管理」はいつも私たちの自由を奪ってきた。
「遠藤は私たちに友好的だと思っていたのに」ミウの目に不安の色が浮かんだ。
「すぐに調査に行こう」私は決断した。「シン、案内してくれ」
「評議会」は一時延期され、私とチロ、そしてヤマトの3匹が遠藤の小屋を調査することになった。ミウは子供たちと「王国」に残り、他のメンバーと共に状況を見守ることになった。
私たちが遠藤の小屋に近づくと、確かに屋根の上に新しい装置が設置されていた。それは細長い棒の先端に取り付けられた小さな箱で、360度回転するレンズのようなものが付いていた。
「あれは間違いなくカメラだ」ヤマトが低い声で言った。「人間の監視装置だ」
「しかし、なぜ遠藤がこんなものを?」私は困惑した。「彼女は環境保護を訴えているはずだが…」
私たちは茂みに隠れながら、小屋の周囲を慎重に調査した。遠藤自身は小屋にはいないようだった。カメラ以外にも、小屋の周囲には複数の小さな装置が設置されていることに気づいた。
「あれは何だろう?」私は地面に埋め込まれた小さな棒状の物体を指差した。
「センサーかもしれん」チロが警戒心を強めた。「動きを感知する装置だ」
さらに調査を続けると、小屋の裏側には小さなパラボラアンテナのようなものも設置されていた。これは明らかに、何かを送受信するための設備だろう。
「彼女は本格的な観測施設を作っているようだな」ヤマトは眉をひそめた。「単なる調査小屋ではない」
私たちが観察を続けていると、突然、カメラが私たちの方向へと向きを変えた。レンズが私たちに向けられ、小さな赤いランプが点灯した。
「見つかった!」チロが警告した。「動きを感知したようだ」
私たちはすぐに身を低くし、茂みの影に隠れた。カメラはしばらく私たちの方向を向いていたが、やがて元の位置に戻った。
「危なかった」私はため息をついた。「このカメラは『王国』全体を監視できる位置にあるな」
私たちは小屋の周囲にある機器の配置と種類を記録し、「王国」に戻ることにした。この情報を「評議会」で共有し、対応を決める必要があった。
「王国」に戻った私たちは、すぐに「評議会」を開いた。全メンバーが集まり、緊張した面持ちで私たちの報告を聞いた。
「遠藤の小屋は完全な野生動物観測施設になっている」私は説明した。「カメラ、センサー、通信設備…恐らく『王国』の様子を詳細に記録しているはずだ」
「信頼していたのに…」ミウが落胆した様子で言った。「彼女は私たちをただの研究対象として見ているのね」
「まだ断定はできないわ」エゾナキウサギのコマユが静かに発言した。「彼女の目的はわかりません。単に自然を記録したいだけかもしれません」
「しかし、彼女が集めた情報が小田切たちの手に渡る可能性もある」エゾリスのキツが指摘した。「それは私たちにとって危険だ」
議論は白熱した。遠藤を敵とみなし、彼女の機器を破壊すべきだという意見から、彼女の真意を確かめるために接触を試みるべきだという意見まで、様々な立場が示された。
「まずは、カズナリを通じて情報を得られないだろうか」私は提案した。「彼は遠藤と接触がある。彼女の研究について何か知っているかもしれない」
「それが最も安全な方法だろう」チロも同意した。
私たちは行動計画を立てた。まず、カズナリに伝言を残し、遠藤の活動について情報を求める。同時に、カラスたちに遠藤の小屋を定期的に偵察してもらい、彼女の活動パターンを掴む。そして、「王国」内では警戒体制を強化し、特に森と中央区域の間の移動は慎重に行うようにする。
翌日、カズナリからの返事があった。彼の窓辺にスケッチブックが置かれ、そこには興味深い情報が書かれていた。
「遠藤さんは『動物の知性と社会性』について研究しています。特に、種を超えた協力関係に興味があるそうです。彼女は動物たちが人間の想像以上に知的で、複雑な社会を形成していることを証明しようとしているんです。心配しないで。彼女は絶対に動物を傷つけません」
「彼女は本当に私たちの味方かもしれない」ミウは希望を見出した。
カズナリはさらに続きを書いていた。「彼女は『種の壁を超えた共存モデル』という論文を書いています。あなたたちの王国が、その証拠になるそうです。彼女のカメラは、あなたたちの協力の様子を記録しているだけです。情報は厳重に管理され、悪用されることはありません」
「評議会」で共有すると、メンバーたちの反応はさまざまだった。
「それでも問題は残る」チロが冷静に指摘した。「彼女が集めたデータが、意図せず他の人間の手に渡る可能性もある」
「でも、彼女の研究は私たちにとって有益かもしれない」ミウは考えた。「外来種と在来種の共存が可能だという証拠になれば、小田切のような人間の考えも変わるかもしれない」
議論の末、私たちは遠藤の研究を直接妨害はしないという方針で合意した。同時に、彼女の研究の進展を積極的に把握し、私たちからも「素材」を提供することにした。
「彼女の研究に協力するふりをしながら、実は私たちが彼女を利用するというわけだ」キツが指摘し、皆が同意した。
「監視されるのと、自ら見せるのとでは、大きな違いがある」私は付け加えた。「一方は強制であり、もう一方は選択だ。私たちは選択する側に立つべきだ」
そうして始まった「遠藤研究協力計画」。私たちはカメラの視界内で、あえて知的な行動や種間協力を見せることにした。
最初に行ったのは、中央広場での食料分配の儀式だ。各種族の代表が公平に食料を分け合う様子を演出した。次に、増水した川からの救出作戦。エゾリスが木の枝を操り、カラスが飛んで状況を確認し、アライグマとタヌキが救出作業を行う連携だった。さらに、子供たちへの教育場面も見せた。
一週間後、カラスたちの報告で、遠藤の小屋に変化があったことがわかった。新たな機器が設置され、記録媒体が頻繁に交換されていた。彼女の研究は着実に進んでいるようだった。
カズナリからのメッセージには、さらに興味深い情報があった。「遠藤さんがとても興奮しています!『信じられないほど高度な社会性を示している』と言っていました。特に、食料分配の儀式と救出作業の連携に感動していたようです」
しかし、続いて「あまりにも計画的で意図的な行動に見える」とも感じていると。私たちの「演技」が見抜かれていたのだ。
「次の段階に進む必要があるな」私は考え込んだ。「より自然に、しかし彼女の研究に有益なデータを提供する方法を考えないと」
私たちは作戦を修正した。あからさまな「演技」ではなく、日常の中の知的行動や協力関係を自然に見せる方向へと転換した。
約二週間後、遠藤の研究にさらなる進展があった。彼女の小屋には時折、他の研究者らしき人物が訪れるようになったのだ。これは新たな懸念を引き起こした。
「カズナリに確認しよう」私は決意し、直接彼に会いに行った。
彼が学校から帰ってくる時間に合わせて、自宅の裏庭で待っていると、彼はすぐに気づいてくれた。「ラスク!待っててね」
彼は裏庭に降りてきて、私たちは身振り手振りで意思を通わせた。「遠藤さんのこと?」彼は確認するように言った。「彼女の研究に協力してくれてありがとう。大学の先生たちが来てるんだよ。遠藤さんの研究を応援してくれてるんだ。彼女の論文が学会で発表されることになったんだって」
私はさらに質問するように首を傾げた。
「心配しないで」カズナリは理解したように言った。「遠藤さんは場所や詳細は明かさないって。あなたたちを守るために、データは加工してるんだ」
これは安心できる情報だった。そしてカズナリはポケットから小さな紙を取り出した。遠藤からのメッセージだった。
「知性ある友人たちへ。あなたたちの協力に感謝します。もし可能なら、より直接的な対話を希望します。9月10日、午後3時、私の小屋で待っています。カズナリも同席します。」
これは重大な決断を要する申し出だった。遠藤と直接対面することは、私たちの存在を完全に明かすことを意味する。しかし同時に、人間との新たな関係を築く可能性も秘めていた。
「評議会」での議論の末、私とチロの二匹が遠藤との対話に向かうことになった。ヤマトたちが上空から警戒する体制も整えた。
9月10日、私たちは遠藤の小屋を訪れた。カズナリが窓から顔を出し、「入って、大丈夫だよ」と招き入れてくれた。
小屋の中には遠藤がいた。「来てくれてありがとう」彼女は静かな声で言った。「驚かせないように、ゆっくり動くわね」
「彼らは言葉を理解するんだよ」カズナリが説明した。「特にラスク—アライグマの方—は、人間の言葉をよく理解するみたい」
遠藤は威圧感を与えないよう床に座った。「私は遠藤美雪。環境ジャーナリストで研究者です。あなたたちの共同体について研究させてもらっています」
彼女はパソコンの画面を私たちに向けた。そこには「王国」での様々な場面が映っていた。私たちの日常が細かく記録されていたのだ。
画面を見ながら、私の中に複雑な感情が湧き上がった。かつて東京では、監視カメラは私たちを捕獲するための道具だった。そして札幌でも、小田切の作戦では「有害駆除リスト」に基づいた「強制捕獲」が行われ、仲間たちが「GPS監視首輪」を付けられたことがある。あの時の無力感と恐怖は今でも忘れられない。
だが、遠藤のカメラは違った目的を持っているのかもしれない。
「これは科学的に前例のない発見よ」遠藤は熱心に言った。「種を超えた協力関係、計画的な社会活動、次世代への知識伝達…これらは『単なる本能』では説明できない」
「目的は何ですか?」カズナリが私の代わりに質問した。
「目的?」遠藤は少し考え込んだ。「最初は純粋な学術的興味だったわ。でも今は…」
彼女は深く息を吸った。
「動物たちの権利を守りたいの。特に、『害獣』や『外来種』というレッテルを貼られた動物たち。彼らが生態系の中で価値ある役割を果たしていることを証明したい」
これは私たちにとって重要な言葉だった。遠藤は単に研究するだけでなく、私たちの存在意義を認めようとしていたのだ。
「その研究が、私たちを危険にさらすことはありませんか?」カズナリが私の意図を汲んで質問した。
「それが一番心配していたことなの」遠藤は真剣に言った。「だから、論文では具体的な場所や詳細は伏せるつもり。映像も加工して、場所が特定できないようにする」
「実は」遠藤はやや躊躇いながら話を続けた。「もう一つお願いがあるの。もし可能なら、もう少し直接的な交流をさせてもらえないかしら。例えば、簡単なコミュニケーションテストや問題解決課題など…」
「実験ってこと?」カズナリが眉をひそめた。
「実験というより、対話のようなものよ」遠藤は急いで説明した。「彼らの知性をより明確に示すことができれば、学術的な価値が高まる。そして、動物保護の法的根拠にもなりうる」
その時、ヤマトの警告の鳴き声が聞こえた。誰かが近づいているのだ。
「誰か来たみたい」カズナリが窓から外を見た。
「まずい、今日は誰も来るはずがないのに」遠藤も立ち上がり、外を確認した。
私とチロは即座に身を低くし、隠れる場所を探した。
「あそこ」遠藤が小屋の隅にある収納スペースを指差した。「隠れて」
ドアをノックする音が聞こえた。
「どなたですか?」遠藤の声には緊張が滲んでいた。
「小田切です」
その声に、私とチロは身を固くした。まさか小田切守がここに来るとは。
「あ、小田切さん」遠藤の声は冷静さを取り戻していた。「どうしたんですか、突然」
「すみません、お邪魔します」小田切の声が近づいてきた。「実は、あなたの研究について話があって」
「私の研究?」
「ええ。先日の環境評価委員会で、あなたの『共存モデル』理論が議題に上がりました」小田切の声には疲れが混じっていた。「議会から、私たちの『外来種対策』を見直すよう圧力がかかっています」
「それは…良いことではないですか?」遠藤の声は慎重だった。
「正直、複雑です」小田切は溜息をついた。「確かに、『駆除一辺倒』では問題の根本解決にならないかもしれない。しかし、外来種の増加が在来種にもたらす影響も無視できない」
「そのために研究があるんです」遠藤は冷静に返した。「全ての外来種が環境に悪影響をもたらすわけではない。新たな生態系の均衡が生まれる可能性もあります」
「具体的なデータはありますか?」小田切が鋭く質問した。
「あります。近日中に学会で発表する予定です」
小田切はしばらく沈黙した後、意外な言葉を口にした。「実は私も…最近は考えを改めつつあるんです。現場で様々な状況を見てきて、単純に『害獣』と一括りにはできないと感じ始めています」
そして彼は小屋の装置に気づき、「この小屋、観測機器がかなり充実していますね。何を観察しているんですか?」と質問した。
遠藤はきっぱりと「未発表の研究データなので、公開できません」と断った。
ドアが閉まる音がし、小田切が去った後、遠藤が私たちを隠れ場所から出してくれた。
「大丈夫、行ったわ」彼女の表情は緊張が解けたものになっていた。
「小田切さん、来るって言ってなかったよね?」カズナリが不安そうに尋ねた。
「ええ、全く予想していなかったわ」遠藤も困惑した様子だった。「もしかして、私の研究に気づいているのかも。でも、彼の態度が変わりつつあるのは確かね。単なる『駆除』一辺倒ではなくなっている」
私とチロは視線を交わした。状況は複雑だが、一筋の光も見えている。
「王国」に戻り、「評議会」で報告すると、この経験から私たちは二つの方向で動くことにした。一つは遠藤との協力を深め、彼女の研究に積極的に参加すること。もう一つは、「王国」自体の防衛を強化し、緊急時の避難計画を整えることだ。
「信頼は必要だが、自衛も忘れてはならない」チロが言った。「人間の言うことが変わるのは、風向きが変わるのと同じくらい早いからな」
9月中旬、遠藤との新たな協力関係が始まった。中立地帯で、問題解決能力や協力関係を測る「知能テスト」が実施された。私たちは自然に、しかし確実に知性を示した。
「これは単なる偶然や本能ではありません」遠藤は確信を持って言った。「明確な意図と計画性がある」
テストの最終日、遠藤は重要な報告をした。「学会発表の準備が整いました。『種の壁を超えた知性と協力—北海道の森における新たな共存モデル』というタイトルです。約束通り、具体的な場所は明かしません」
9月末、遠藤の学会発表が行われた。カズナリからの報告によれば、発表は大成功を収めたという。特に驚いたのは、小田切が積極的に質問を行い、発表後も遠藤と話し込んでいたことだった。
「彼は明らかに考え込んでいた」カズナリは伝えた。「完全に同意はしていなかったけど、関心を持っていたよ」
続いて10月、遠藤の本の出版準備も進み、カズナリの絵が表紙を飾ることになった。『森の会議—種を超えた知性と共存の物語』と題されたその本は、私たちの「王国」の真実を伝える希望の光となるはずだ。
しかし同時に、小田切も市議会で「科学的な根拠に基づく外来種管理の新指針」を提案していると聞いた。彼なりの対応策だろう。完全に考えを変えたわけではないが、少なくとも単純な「駆除」ではない道を模索し始めているようだった。
「人間たちは『管理』という言葉を好むな」ガンが冷ややかに言った。「共に生きるとは言わず、『管理』と言う。まるで私たちを檻の中の動物のように扱うつもりだ」
「それでも、完全な敵意よりはましだろう」私は答えた。「変化は少しずつだ」
そして10月初旬、私たちが予想もしなかった展開が起きた。小田切が単独で「王国」に近づいてきたのだ。カラスたちがすぐに報告してくれたおかげで、私たちは警戒体制を敷くことができた。
小田切は「王国」の境界付近で立ち止まり、写真を撮りながらノートに何かを書き込んでいた。30分ほど観察した後、彼はさらに内側へと足を踏み入れた。
そこへ、思いがけなく遠藤が現れた。「小田切さん!こんなところで何をしているんですか?」
「遠藤さん?なぜここに…」
「あなたがジップファイルをもらったでしょう?市の地図システムで検索していたのも見ました」遠藤は非難の色を滲ませた。「私の研究場所を特定したんですね」
小田切は率直に認め、「あなたの研究は本物なのか、自分の目で確かめたかった」と言った。
「無断で入ってくるなんて」遠藤は怒りを隠さなかった。「これは私の研究フィールドです」
彼らは激しく議論し、最終的に小田切は引き下がった。「今回は退きましょう。ただし、あなたの研究結果には具体的な証拠が必要です。感情的な主張では、政策は変わりません」
「もちろんです」遠藤は自信を持って言った。「私の論文は厳密な科学的手法に基づいています。それを読めば、あなたも考えを改めるでしょう」
小田切が去った後、カラスのシンが遠藤の注意を私たちがいる茂みに向けた。「ラスク?チロ?そこにいるの?」
私たちは姿を現し、彼女は安堵の表情を浮かべた。「良かった、無事だったのね。小田切さんがここに来ると知って、急いできたの」
「カズナリも!」遠藤は驚いた。彼もカラスから知らせを受けて駆けつけていたのだ。
「これからどうなるの?」カズナリが心配そうに尋ねた。
「小田切さんは諦めないでしょうね」遠藤は現実的だった。「でも、時間は稼げたわ。論文が正式に発表され、本も出版されれば、公に反対しづらくなる」
「でも、一つ注意が必要ね」遠藤は真剣な表情になった。「小田切さんは頭がいい。彼が目的を達成するために別の手段を講じる可能性もある」
「何かできることある?」カズナリが熱心に尋ねた。
「市民の支持が重要よ」遠藤は答えた。「私の本が出版されたら、多くの人に読んでもらい、共感を広げる必要がある。カズナリ、あなたの学校でも広めてくれる?」
「もちろん!」カズナリは目を輝かせた。「先生にも見せる!」
「それと、もう一つお願いがあるわ」遠藤は続けた。「私の本の表紙に、カズナリ君の絵を使いたいの。あなたが描いた動物たちの絵。あれは科学的な観察と芸術的な感性が見事に融合していて、多くの人の心を動かすと思うの」
カズナリは感激した様子で答えた。「うん!喜んで!」
その後、「王国全体会議」が開かれ、私とチロは遠藤と小田切のやり取りについて詳細に報告した。
「遠藤は本当に私たちの味方だ」私は強調した。「彼女は小田切を押し返し、この区域の保護手続きも進めている」
「彼女の本と論文が出版されれば、状況は更に有利になる可能性がある」チロも補足した。
住人たちからは安堵の声が上がった。特に、子供たちを持つ親たちは安心した様子だった。
「しかし」ガンが現実的な視点を示した。「小田切はまだ諦めていない。別の手段で『王国』に迫ってくる可能性もある」
「人間との付き合いは難しい」エゾナキウサギのコマユが静かに言った。「彼らは言葉では『共存』を口にしても、行動は『管理』を示す。『保護』という名の支配かもしれない」
彼女の言葉に、場の空気が重くなった。確かに、人間の「管理」は時に強制力を伴う。私も東京で、そして札幌でも、その現実を目の当たりにしてきた。
「でも、すべての人間が同じではない」私は言った。「カズナリや遠藤のように、本当に理解しようとする人間もいる。私たちが彼らに心を開くことで、初めて真の共存への道が開けるのではないか」
議論の結果、私たちは自らも発信者となることを決めた。カズナリを通じて学校に情報を広げ、遠藤の本の出版を支援する。そして何より、私たち自身が種を超えた共存の価値を日々の生活で示していく。「王国」は単なる隠れ家ではなく、新しい共生の形を実証する場となるのだ。
「探るものと探られるもの」という関係は、いつの間にか双方向のものになっていた。最初は私たちが遠藤に観察される立場だったが、今や私たちも人間世界の変化を観察し、働きかける側になっていた。
10月中旬、遠藤の論文が学術誌に掲載され、同時に彼女の本『森の会議』も書店に並んだ。カズナリによれば、本はすぐに話題になり、地元の書店では品切れになるほどの人気だという。カズナリの描いた表紙は、多くの人の目を引き、彼自身も学校で注目されるようになっていた。
「先生が授業で紹介してくれたんだ!」彼は誇らしげに報告した。「それから、僕の絵を見たいって言う人も増えた」
同じ頃、小田切が提案した「科学的根拠に基づく外来種管理」の新指針も市議会で議論されていた。ヤマトとカラスたちが市役所の窓から情報を集めてきたところによると、彼の提案は従来の「一律駆除」とは一線を画すものだったという。
「彼は『選択的保全』という考え方を提案しているらしい」ヤマトが報告した。「すべての外来種を同じように扱うのではなく、生態系への影響を個別に評価した上で対策を決めるというものだ」
これは大きな変化だった。遠藤の研究と本の影響が、早くも政策レベルで現れ始めていたのだ。
「王国」では、冬への準備も本格化していた。食料の備蓄、避難経路の確保、そして「温泉王国」の整備。厳しい北の冬を前に、すべての住人が協力して準備を進めていた。
私とミウの子供たち—ハル、キタ、ユキ—も日々成長していた。特にハルは、私たちと遠藤の関係に強い興味を示していた。
「パパ、人間と一緒に暮らすことはあるの?」ある日、彼女が尋ねてきた。
「すぐにはないと思うよ」私は正直に答えた。「でも、お互いを理解し、尊重することは始まっている。カズナリや遠藤さんのような人間もいるんだから」
「でも、小田切さんみたいな人もいるんでしょ?」キタが鋭く質問した。
「そうだね」私は肯定した。「だからこそ、私たちは強くなければならない。知恵と団結力で自分たちを守りながら、同時に共存の可能性も探っていくんだ」
そして、秋も深まる10月下旬、カズナリがさらなる朗報をもたらした。「小田切さんが遠藤さんとテレビ出演することになったんだ!」
「何だって?」私たちは驚いた。
「北海道テレビの特別番組『人と野生動物の共存を考える』ってやつ。二人が対談するんだって」
これは予想外の展開だった。敵対関係にあったはずの二人が、公の場で対談するとは。
番組の日、「王国」では皆が固唾を飲んで結果を待った。当然、私たちは直接テレビを見ることはできないが、カラスたちが街中の電器店の窓から番組を観察し、内容を報告してくれることになっていた。
その夜、シンとヤマトが興奮した様子で戻ってきた。「素晴らしい番組だった!」
彼らの報告によると、遠藤は自身の研究成果を冷静かつ科学的に説明し、小田切も感情的な反論はせず、むしろ「新たな知見として検討に値する」と評価したという。もちろん、彼は依然として「生態系保全」の重要性を強調していたが、「共存」という言葉を何度も口にしていたのだ。
「最も驚いたのは最後だ」ヤマトが興奮して言った。「小田切が『遠藤さんの研究を踏まえ、札幌市は新たな野生動物との共存モデルを構築したい』と宣言したんだ!」
これは大きな進展だった。小田切の考えが確実に変わりつつあるのだ。
翌日、カズナリも同じ報告をもたらし、さらに遠藤からのメッセージも届けてくれた。「小田切さんが『研究保護区』の設定を検討していると。外来種と在来種の共存状況を長期的に観察するための特別区域だって」
「まさか、『王国』を保護区にするつもりなのか?」チロは半信半疑だった。
「そうかもしれないわね」ミウは希望を見出した。「それなら、私たちは追い出される心配がなくなる」
確かに、それは私たちにとって理想的な結末かもしれない。しかし、完全に信頼するには時期尚早だと感じた。
「まだ様子を見よう」私は慎重に言った。「小田切の本当の意図がはっきりするまでは、警戒を解くべきではない」
11月に入り、北海道には冬の気配が濃くなっていた。木々の葉は落ち、朝には霜が降りるようになった。そんな中、遠藤から直接の接触を求めるメッセージが届いた。
「重要な話があります。できればラスクとチロに会いたい」
私たちは再び「評議会」で議論し、会うことに決めた。約束の日、私とチロは遠藤の小屋を訪れた。そこにはカズナリだけでなく、驚くべきことに小田切の姿もあった。
「心配しないで」遠藤がすぐに言った。「小田切さんは敵ではありません。彼には私の研究を正しく理解してもらう必要があったのです」
小田切は私たちを見て、明らかに驚いていた。「本当だったんだな…」彼は小声で言った。
彼は床に座り、私たちの高さに合わせてくれた。「最初は信じられなかった」彼は率直に言った。「動物たちがこれほど高度な社会性と知性を持つなんて。特に、異なる種が協力し合うなんて…」
「でも、映像を見て、そして遠藤さんの研究を読んで」彼は言葉を選びながら続けた。「考え直さざるを得なかった。私の『害獣対策』は、あまりにも単純化されていたのかもしれない」
遠藤が話を引き継いだ。「小田切さんと私は、新しい提案を準備しています。『生物多様性共生特区』という考え方です。特定の区域を指定し、そこでは外来種も含めた生態系の自然な発展を保護し、研究するというものです」
「つまり、『王国』を公式に認めるということか?」チロが身振りで尋ねた。カズナリが通訳した。
「そうです」小田切が真剣な表情で答えた。「もちろん、他の区域では従来の対策も必要です。しかし、あなたたちの共同体は…特別だ。科学的にも価値があります」
「何より」遠藤が付け加えた。「この取り組みは全国的なモデルケースになる可能性があります。『札幌モデル』として、他の自治体にも広がるかもしれません」
これは私たちが想像もしなかった展開だった。かつての「敵」が、今や私たちの存在を認め、保護しようとしているのだ。
「どうすればいいんだ?」私はカズナリを通じて尋ねた。
「そのままでいてください」小田切は意外にも柔らかい声で答えた。「あなたたちの自然な生活こそが重要なのです。特区が正式に決まれば、この区域は立ち入り制限がかかり、あなたたちはより安全に暮らせるようになります」
その言葉を聞いて、私は過去の記憶がよみがえった。東京での逃亡生活、札幌に来て最初に経験した「有害駆除作戦」、仲間たちに付けられたGPS監視首輪、そして凍てつく冬を乗り越えた団結。私たちはずっと、管理され、追われる側だった。今、初めて「そのままでいて」と言われている。
「でも、特区になれば市の管理下に置かれるということですか?」カズナリが私たちの懸念を代弁した。
小田切は少し考えた後、「特区は保護のための枠組みです。あなたたちの生活を制限するものではありません」と答えた。
「約束します」遠藤も加えた。「これはあなたたちを実験対象にするためではありません。共存の可能性を示すためなのです」
私とチロは視線を交わした。この提案を「評議会」に持ち帰り、全員で検討する必要がある。
「考えさせてほしい」私はカズナリに伝えた。
「もちろんです」小田切は頷いた。「焦る必要はありません。来週、市議会で提案する予定ですが、決定までには時間がかかります」
帰り道、私とチロは沈黙していた。あまりにも大きな転換に、言葉が見つからなかったのだ。
「信じられるか?」ようやくチロが口を開いた。「小田切が…私たちを保護すると言うなんて」
「人は変わるんだな」私も感慨深く言った。「最初に会った時には想像もできなかった」
「でも、完全に信じていいのか?」チロは懸念を示した。「人間の『保護』は、時に檻を意味することもある」
「そこが難しいところだ」私も認めた。「私たちはずっと管理される側だった。今度は対等なパートナーとして認められるのか、それとも…」
「王国」に戻り、私たちは「評議会」と「全体会議」で状況を報告した。反応はさまざまだった。
「罠かもしれない」ガンは依然として警戒心を示した。「俺たちは南区の公園からも『自然に帰れ』と言われて追い出されたんだ。『保護』と言っておきながら、結局は人間の都合で動かされるだけだ。信用できるのか?」
彼は前足を組み、目を細めた。「人間の約束は風向きで変わる。今日の保護区は、明日の開発区画かもしれないぞ」
「でも、チャンスでもある」ミウは希望を見出した。「初めて、人間との共存が現実になるかもしれない」
「人間たちは『共生』を条例で決めようとしている」エゾリスのキツが疑問を呈した。「でも、共に生きるってそんなに単純なものか?法律で定められるようなものなのか?」
キツは木の枝にしがみつきながら、高い位置から皆を見下ろした。「私たち森の者は何世代にもわたって北の自然と共に生きてきた。人間はその繊細なバランスを理解しているのだろうか?」彼はしっぽを振りながら続けた。「遠藤という人間は確かに観察眼が鋭い。彼女は見ている。でも、『見る』ことと『理解する』ことは違う。人間が本当に私たちの生き方を尊重するのなら、彼らの『保護』という名の介入は最小限であるべきだ」
「ガンの懸念もわかる」エゾナキウサギのコマユが静かに言った。「私たちの一族も開発で住処を追われた経験がある。人間の言葉は信頼できないと」
「それでも」ガンは少し態度を軟化させた。「選択肢がないわけではない。条件をこちらから提示するんだ。『王国』の自治は絶対に譲れない一線だ。その上で、彼らの『特区』に組み込まれることも検討できる」
彼は立ち上がり、中央に出てきた。「俺たちも交渉の余地がある。一方的に決められるのではなく、対等な立場で話し合いたいと伝えるべきだ。遠藤はわかってくれるかもしれない」
「確かに」キツも頷いた。「特区の境界線や、人間の出入りの頻度、私たちの情報がどう使われるかなど、明確にしてもらう必要がある。それが『共生』の第一歩ではないだろうか」
「本当の共生は、法律よりも、信頼と時間で育つものだ」チロが深い洞察を示した。「人間の正義は時代とともに移り変わるものだ。誰かの色眼鏡を通して定義された言葉が法律になっても、その実態は変わらない。ただの紙切れより、日々の関わりの中で育まれる信頼こそが、真の共存の礎になる」
議論の末、私たちは慎重に、しかし前向きに小田切と遠藤の提案を受け入れることにした。ただし、「王国」の自治権は維持し、私たちのやり方で暮らし続けることを条件とした。
そして11月末、札幌市議会は「生物多様性共生特区」の設立を正式に決定した。「廃棄物処理場跡地とその周辺森林」が第一号の特区に指定され、研究目的以外の立ち入りが禁止されることになった。
「王国」は法的な保護を受ける存在となったのだ。
「札幌モデル」と呼ばれるこの試みは、全国的にも注目を集め始めた。行政による共生の形を示す一方で、私たちにとってはまだ複雑な感情が残る。
「これで安全になったのかな」夕食時、ハルが純粋な目で尋ねた。
「法律上は守られることになったよ」私は子供たちに説明した。「でも、本当の安全は、相互理解から生まれるんだ」
「それってどういう意味?」キタが首を傾げた。
「法律は紙に書かれた約束にすぎない」チロが静かな声で補足した。「時に恣意的に解釈され、悪用されることさえある。だが心と心が通い合う理解と尊重は、決して歪められない真実の絆を育む。カズナリや遠藤さんが私たちに見せてくれたように、真の共存は信頼という揺るぎない土台の上に築かれるものなのだ」
冬の訪れとともに、私たちの生活は新たな段階へと入った。人間との関係は「敵対」から「共存」へと変わりつつある。まだ完全な信頼関係とは言えないが、確かな一歩を踏み出したことは間違いない。
雪が静かに降り始める夕暮れ、私は「王国」の高台に立ち、広がる風景を見渡していた。かつての産業廃棄物処理場は、今や様々な生き物が共存する豊かな生態系になっていた。そして、それを人間も認め始めている。
「探るものと探られるもの」。私たちはただ観察される対象ではなく、人間世界に新たな視点を提供する存在になった。そして、その変化は私たち自身にも及んでいる。閉ざされた「王国」から、世界と繋がる「王国」へ。
ミウが私の横に来て、寄り添った。「これからどうなるのかしら」
「わからない」私は正直に答えた。「でも、今日という日が、将来、歴史の転換点として語られるようになるかもしれないな」
そして、心の中でこう思った。
「共生とは、檻の中で守られることではない。互いの違いを知ったうえで、干渉せず、必要な時だけ助け合える距離感を築くことだ。それは、条例や制度では定義できない"関係"そのものだ。私たち動物と人間の間に、真の共生が芽生えるまでには、まだ長い道のりがある。でも、その第一歩を踏み出したことは間違いない」
雪は静かに降り続け、「王国」を白い毛布で優しく包み込んでいた。ここから始まる新しい物語は、まだ誰にも分からない。ただ、私たちはもう独りではない。種を超えた絆が、この厳しい北の大地でも、確かに育まれているのだから。
ゴミの王国 セクストゥス・クサリウス・フェリクス @creliadragon
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