第9話「春の息吹」
三月も終わりに近づき、雪解けが本格化していた。「王国」の周りの雪は日に日に減り、長い間雪に閉ざされていた地面が顔を出し始めた。こうして現れた地面からは、小さな芽が頭を出し、命の息吹を感じさせる。
「見て、ラスク」ミウが嬉しそうに指さした。「フクジュソウが咲いているわ」
小さな黄の花が、雪解け水の脇で揺れていた。北海道の春の訪れを告げる最初の花だ。
「美しいな」私は感嘆した。「東京じゃ見られない光景だ」
「王国」の至る所で冬の氷が解け、新しい命の兆しが見え始めていた。雪の下に眠っていた施設の部分も次々と姿を現し、私たちの生活スペースは広がっていった。
私とミウは「温泉王国」からも多くの仲間を地上に呼び戻し始めた。厳冬期を地下で過ごした彼らは、久しぶりの太陽光に歓喜した。
「あったかい!」クルミが顔を上げ、春の日差しを浴びながら言った。「やっと外に出られる」
「冬の間は本当に大変だったな」チロも満足げに言った。「だが、皆で乗り越えた。これぞ北の流儀だ」
春の訪れは、私たちの活動も活発にした。食料調達のための探索範囲が広がり、新たな資源が次々と見つかった。雪解け水で満たされた小川には魚が遡上し始め、若い草木は新鮮な食料となった。
「これからの季節は豊かだ」ヤマトが報告した。「街中でも春の祭りの準備が始まっている。人間たちも活気づいている」
カラスたちも活動を再開していた。巣作りのために材料を集め、つがいで飛び交う姿が見られるようになった。
「お前たちも、そろそろだな」ヤマトが意味深に私とミウを見た。
ミウは少し照れた様子で毛づくろいを始めた。彼女との約束――春になったらつがいになる――が現実味を帯びてきていた。
「ああ」私は少し緊張気味に答えた。「準備を始めているところだ」
実際、私は「王国」の中に私たちの巣となる場所を探し始めていた。事務所棟の隅に、日当たりのいい小部屋がある。窓からは朝日が差し込み、床は乾いている。ここを整えれば、子育てにも適した場所になるだろう。
チロも私の活動を見守りながら、時折アドバイスをくれた。
「子育ては大変だぞ」彼は経験者のように言った。「北海道の春は短い。夏までに子供たちを十分成長させないと、次の冬を越せないかもしれない」
「北の子育ては厳しいんだな」私は真剣に聞き入った。
「だが、その分だけ子供たちは強く育つ」チロは誇らしげに言った。「厳しい環境で育つからこそ、生き抜く力が身につくんだ」
私はミウと共に巣作りを進めた。柔らかい布や紙を集め、乾いた草や枯葉も使って、暖かく快適な空間を作っていく。作業をしながら、私たちは将来について語り合った。
「子供たちには何を教えたい?」ミウが尋ねた。
「東京の知恵と北海道の強さかな」私は考えながら答えた。「都市での生存術と、厳しい自然での忍耐力。両方が必要だ」
「それと、種を超えた友情の大切さも」ミウが付け加えた。「私たちが生き残れたのは、チロやヤマトたち、そしてカズナリのような人間との絆があったからよ」
その通りだった。ここでの生活は、様々な種を超えた協力の賜物なのだ。
四月に入り、雪解けの勢いはさらに増した。昼間の気温は10度を超えることもあり、雪は急速に解けていった。それに伴い、「王国」の様子も大きく変わっていった。
雪の下に埋もれていた廃棄物が次々と姿を現し、かつての産業廃棄物処理施設の全容が見えてきた。建物や機械の残骸、コンクリートの基礎、そして様々な廃材。それらは長い冬の間、雪の毛布に覆われて見えなかったものだ。
「すごいな」私は思わず言った。「これが本当の『王国』の姿か」
雪がなくなった「王国」は、想像以上に広大だった。敷地いっぱいに広がる様々な建物や構造物は、私たちにとって新しい生活空間を提供してくれる。
一方で、雪解けは新たな問題ももたらした。雪解け水が地下に流れ込み、場所によっては浸水が起きていた。特に「温泉王国」への通路が水没の危機に直面した。
「このままでは通路が使えなくなる」チロが心配そうに言った。「温泉は大切な資源だぞ」
私たちは急いで対策を講じた。角材や板を使って即席の堤防を作り、水の流れを変える。さらに、新たな通路も確保した。
「こうして環境が変わると、新たな課題も生まれるんだな」私は感じた。
春の光は、冬の間に見えなかった「王国」の危険な面も照らし出した。錆びた金属の突起、不安定な構造物、そして地面に埋まっていた鋭利な物体。これらは特に子供たちにとって危険だ。
「危険な場所の地図を作ろう」私は提案した。「安全に過ごせるエリアと、立ち入り禁止区域を明確にする必要がある」
チロとクルミ、そしてカラスたちの協力を得て、「王国」全体の安全マップを作成した。危険箇所には目印を置き、安全な通路には道しるべを設置した。
この作業を進める中で、私たちは「王国」の面白い発見もした。かつての事務所の壁には古い写真が貼られていた。そこには建設当時の施設の様子が写っており、人間たちが誇らしげに立っている姿も。
「ここで働いていた人間たちも、この場所に誇りを持っていたのかもしれないな」私は写真を見つめながら言った。
「それが今では廃墟か」チロが感慨深げに言った。「人間の作り出すものは、いつか必ず廃れるんだな」
「でも、その廃墟が私たちの家になった」ミウが指摘した。「人間が去った後も、命は続いていくのね」
人間が去った場所に新たな命が芽吹く。それは「王国」の春を象徴する光景だった。
四月中旬、「王国」に思いがけない来客があった。
「ラスク!大変だ!」
カラスのシンが慌てて飛んできた。
「どうした?」
「『仲間』が見つかった。しかも大勢だ」
シンの案内で、私たちは「王国」の北側へと向かった。そこには、十匹以上のアライグマの群れがいた。大人だけでなく、子供も混じっている。彼らは疲れた様子で、警戒心も強かった。
「誰だ?」群れのリーダーらしき大きなオスが前に出て、低い声で警告した。
「私はラスク」私は冷静に答えた。「ここは私たちの『王国』だ。あなたたちはどこから?」
「オレはガン」オスのアライグマは名乗った。「俺たちは札幌の南区から来た。人間に追い立てられてな」
ガンの説明によれば、彼らの住処だった公園が再開発されることになり、突然の工事で住処を失ったという。行き場を失った彼らは、カラスから「王国」の噂を聞き、ここを目指してきたのだった。
「受け入れてくれるか?」ガンは率直に尋ねた。「子供たちも疲れ切っている」
私はミウとチロを見た。新たな仲間を迎えることは、資源の分配や生活空間の調整が必要だ。しかし、同じ境遇の仲間を拒むことはできない。
「歓迎する」私は決断した。「ここには十分なスペースがある。共に暮らそう」
ガンは安堵した様子で頷いた。「恩に着る」
新たな仲間たちを「王国」に案内し、まずは休息と食事を提供した。彼らは数日間の逃避行で疲れ切っていた。特に子供たちは衰弱しており、すぐに栄養と安全な睡眠が必要だった。
「温泉王国」も彼らに開放した。温かい湯気に包まれた空間で、彼らの疲労は徐々に和らいでいった。
「信じられない場所だ」ガンは感嘆した。「ここは本当に『王国』だな」
夜になり、新しい仲間たちが休んだ後、私たちは今後について話し合った。
「彼らの到着で、『王国』の状況が変わる」チロが指摘した。「食料の消費も増えるし、縄張り問題も出てくるだろう」
「でも、彼らを受け入れないわけにはいかないわ」ミウが言った。「私たちも同じ境遇だったのだから」
「その通りだ」私も同意した。「ただ、ルールは必要だな。『王国』を守るためのルールと役割分担を」
私たちは「王国」の新しい統治形態について議論した。これまでは少人数だったため、特別なルールや組織は必要なかった。しかし、人数が増えれば、より明確な取り決めが必要になる。
「『王国会議』はどうだろう」私は提案した。「定期的に集まり、重要事項を皆で決める場だ」
「いいね」ミウが賛成した。「でも、緊急時の決断はどうする?」
「それは『王国評議会』だ」チロが言った。「少数の代表者で構成され、迅速な決断ができる」
基本的な統治形態が決まったところで、役割分担も考えた。食料調達隊、見張り隊、巣作り隊など、各自の得意分野を活かせる組織だ。
「明日、ガンたちにも説明しよう」私は言った。「彼らの意見も取り入れながら、共に暮らしていこう」
翌朝、私たちは全ての住人を集めて最初の「王国会議」を開いた。アライグマ、タヌキ、カラス、そして様々な小動物たち。種を超えた共同体の輪が広がっていた。
「皆さん、おはよう」私は会議を始めた。「今日から私たちは、より大きな共同体として生きていくことになります。その第一歩として、『王国』のルールと役割について話し合いましょう」
昨夜考えた統治形態と役割分担を説明すると、多くの賛同の声が上がった。ガンたちも積極的に意見を述べ、建設的な議論が続いた。
「俺たちも協力する」ガンは力強く言った。「食料調達は任せてくれ。南区の知識も役立てられるはずだ」
会議の結果、「王国評議会」には私、ミウ、チロ、ヤマト、そしてガンが選ばれた。種族や出身地の異なるメンバーで構成されることで、多様な視点からの判断が可能になる。
役割分担も決まった。ガンのグループは主に食料調達を担当し、チロとクルミは安全管理、カラスたちは偵察と連絡を担う。私とミウは全体の調整と、新たな家族の準備という特別な役割も。
会議の終わりに、私は皆に語りかけた。
「『王国』はただの場所ではありません。私たちが共に創り上げる共同体です。種を超え、出身を超えて、ここに集まった全ての命が尊重される場所です」
私の言葉に、全ての動物たちが賛同の意を示した。
こうして、「王国」は新たな段階へと歩みを進めた。
四月下旬、春の陽気がさらに強まる中、ミウが私を呼んだ。
「ラスク、あなたに見せたいものがあるの」
彼女は私を巣に案内した。そこには柔らかな寝床が整えられ、ミウはやや息を切らしている様子だった。
「どうしたんだ?」私は心配して尋ねた。
「感じるの...」ミウはそっと腹部に触れた。「もうすぐ子供たちが生まれるわ」
「生まれる?もう?」私は驚き、少し慌てた。「準備は大丈夫か?必要なものは?」
「大丈夫よ」ミウは優しく微笑んだ。「巣も整ったし、私の身体も準備ができてるわ。あとは時を待つだけ」
「父親になるのか...」実感が込み上げてきた。「何を手伝えばいい?」
「そばにいてくれるだけでいいわ」ミウは答えた。「そして、安全を確保して」
その日から、私は巣の周囲を頻繁に巡回し、ミウに新鮮な食べ物を運んだ。「王国」の仲間たちも状況を知り、協力してくれた。
「初めての『王国生まれ』の子供たちだな」チロが興奮した様子で言った。「これは重要な瞬間だ」
「おめでとう、Indeed!」ヤマトは翼を広げて祝福した。「『王国』の未来を担う命の誕生だ」
数日後、ついにその瞬間が訪れた。私が食料を運んで巣に戻ると、ミウが産みの苦しみの最中だった。
「ラスク...」彼女は苦しそうに呼びかけた。
「ここにいるよ」私は彼女の傍らに座り、前足を握った。「大丈夫、君は強い」
長い時間の苦労の末、最初の子供が生まれた。小さな、しわくちゃの、生まれたての命だ。ミウは本能的に子供を舐め、毛並みを整えた。すぐに二匹目、そして三匹目も続いた。三匹の小さなアライグマの赤ちゃんが、この世に誕生したのだ。
「三匹...」私は感動のあまり言葉が出なかった。「三匹の子供たち」
「私たちの子供よ」ミウは疲れながらも幸せそうに言った。「二匹のオスと一匹のメスよ」
生まれたばかりの子供たちは目も開いておらず、ピンク色の小さな体は薄い産毛に覆われている。彼らは盲目のまま、本能的にミウの腹部に近づき、母乳を求めた。
「名前をつけないとね」しばらくして、ミウが言った。
私たちは三匹の子供たちを見つめながら、名前を考えた。
「長女はハルにしよう」私は提案した。「春に生まれた子だから」
「素敵な名前ね」ミウは微笑んだ。「長男は...キタはどう?北の大地で生まれた強い子という意味で」
「いいね」私も同意した。「そして次男は...」
「ユキ」ミウが言った。「厳しい雪の季節を乗り越えた私たちの証として」
こうして、私たちの子供たち—ハル、キタ、ユキ—が正式に「王国」の一員となった。彼らの誕生は「王国」中に祝福され、多くの仲間たちが祝いの言葉を届けてくれた。
ガンも一族を引き連れてやってきた。「これは吉報だ。子供たちは『王国』の宝だ。皆で守り育てよう」
私にとって、父親になるという現実はまだ実感が湧かないところもあった。しかし、小さな命が私を頼りにしているという事実は、新たな使命感を芽生えさせた。
「東京での生き方とは全く違うな」私は子供たちを見つめながら思った。「一匹で生き抜くのではなく、家族と共同体のために生きる」
五月初旬、「王国」は完全に春の装いとなった。雪は完全に消え、地面からは新緑が芽吹き、鳥のさえずりが朝から響くようになった。冬の厳しさを乗り越えた「王国」は、生命力に満ちていた。
しかし、春の訪れは同時に新たな問題ももたらした。「王国」の北側を流れる小川が雪解け水で増水し、一部の地域が浸水したのだ。
「これは想定外だった」チロが浸水した地域を見て言った。「冬の雪の量が例年より多かったからな」
「どのくらい続くんだろう?」私は心配した。
「数週間は覚悟しておいた方がいいだろう」チロは経験から答えた。「雪解けが落ち着けば、水位も下がる」
浸水対策として、「王国」の低地に住んでいた動物たちは高台に避難した。また、土嚢の代わりになる袋や布を集め、重要な場所の周りに積み上げた。
「自然の力には逆らえないな」私は対策を進めながら感じた。「適応するしかない」
その夜、「王国評議会」が緊急会議を開いた。浸水対策だけでなく、今後の「王国」の拡張と整備についても話し合った。
「浸水した地域は、水が引いた後も使いにくいだろう」ヤマトが指摘した。「新たな生活空間を考える必要がある」
ガンは「王国」の西側にある丘を提案した。「あそこは高台だから安全だ。新たな住処として整備できるんじゃないか」
私たちは「王国地図」を広げ、今後の発展計画を話し合った。「王国」は単なる避難所から、恒久的な共同体へと変わりつつあった。長期的な視点で設計し、より安全で豊かな生活を目指す必要がある。
「温泉王国」も恒久的な設備として整備し、地下への新たな通路も作る計画が立てられた。さらに、雨季や雪解け時期の避難場所も確保したい。
「『王国』も成長しているんだな」私は感慨深く思った。
会議の後、私はミウのいる巣に戻った。彼女は子供たちを授乳しながら眠っていた。その穏やかな寝顔を見ていると、私たちが守っているのは単なる場所ではなく、未来そのものなのだと実感した。
そっとミウの隣に横たわり、私も目を閉じた。東京から始まった私の旅は、ここで新たな章を迎えようとしていた。一匹の「害獣」として生きるのではなく、家族と共同体の一員として、全く新しい生き方へと。
五月中旬のある晴れた日、カズナリが「王国」を訪れた。彼は久しぶりにスケッチブックを手に、じっくりと周囲を観察していた。
私とミウは安全な距離から彼を見守った。ミウは子供たちから離れることに少し不安があったが、カズナリというかけがえのない理解者の様子を確認したかったのだ。
「元気そうね」ミウが安堵した様子で言った。
「ああ」私も頷いた。「引っ越しの話は本当に延期になったみたいだな」
カズナリは「王国」の中心部に座り込み、熱心にスケッチを始めた。春の「王国」の様子を描いているようだ。時折、微笑みを浮かべる彼の表情は、前向きで明るかった。
「彼も成長したな」私は感じた。「あの家出事件から、何かが変わったのかもしれない」
スケッチを終えたカズナリは、いつものように紙を置いていった。私たちが確認すると、そこには美しい春の「王国」の絵と、短いメッセージがあった。
「みんな元気?僕は学校で絵の展示会に選ばれたよ。『ぼくが見た動物たち』という作品で。これからも友達でいてね」
「彼は本当に特別な子ね」ミウが感動した様子で言った。
「ああ」私も心から同意した。「人間の子供が、私たちを『友達』と呼んでくれる。信じられないことだ」
カズナリが去った後も、私たちはしばらくその場に残り、彼のメッセージをかみしめていた。種を超えた友情は、本当に可能なのだという希望が胸に広がった。
春の終わりが近づく頃、「王国」に驚くべき訪問者があった。
「ラスク!急いで!」
シンが慌てて飛んできた。
「どうした?」
「人間が来ている。しかも...」シンは言葉を選ぶように一瞬躊躇った。「小田切と遠藤だ」
「なんだって?」
急いで確認に向かうと、確かに小田切と遠藤が「王国」の入口付近に立っていた。小田切は手帳とタブレットを持ち、周囲を観察している。遠藤はカメラを構えていた。
「どうする?」チロが緊張した面持ちで尋ねた。
私たちは安全な距離から様子を窺った。二人の人間は特に捕獲道具などは持っていない。何か調査でもしているのだろうか。
「彼らの会話が聞こえるかな」
私たちは少し近づき、茂みの陰から耳を澄ました。
「ここでの調査結果はどうだったんですか?」遠藤が小田切に尋ねていた。
「予想外の結果でした」小田切は意外にも率直に答えた。「この廃棄物処理場跡地には、想像以上に多様な生態系が存在しています。外来種と在来種が共存している珍しい例です」
「つまり、あなたの言う『害獣』は、ここでは生態系の一部になっているということですね?」
小田切は少し言葉に詰まったが、やがて頷いた。「...そうとも言えますね。彼らがここで独自の役割を果たしている可能性は否定できません」
「これは『共存モデル』の可能性ではないですか?」遠藤は熱心に言った。「外来種を一方的に排除するのではなく、特定の環境で共生させる方法の研究に」
「急ぎすぎですよ、遠藤さん」小田切は冷静に答えた。「まだ長期的な影響は分かりません。ただ...」彼は周囲を見回した。「確かに興味深い事例であることは認めます」
彼らの会話から、小田切の態度に変化の兆しが見えた。完全に考えを改めたわけではないが、以前のような「徹底駆除」の姿勢ではなくなっているようだった。
「おい」チロが小声で言った。「彼らが向かっているのは...」
二人は「王国」の中心部に向かっていた。そこには多くの動物たちがいる。特に、最近到着したガンの群れは、人間への警戒心が強い。衝突が起きる可能性があった。
「急いで知らせないと」
私たちは別ルートで先回りし、仲間たちに人間の接近を警告した。多くの動物たちはすぐに隠れ場所に退避した。特に子供たちは地下へと避難させた。
ガンは最初、対決する構えを見せたが、私たちの説得で思いとどまった。
「彼らが直接危害を加えなければ、静観しよう」私は言った。「今は衝突を避けるべきだ」
小田切と遠藤が中心部に到着したとき、かつての賑わいは消え、静寂だけが残っていた。彼らは周囲を見回し、写真を撮ったり、メモを取ったりしていた。
「ここには明らかに動物たちの生活の痕跡がありますね」遠藤が指摘した。「見てください、これは巣ではないですか?」
小田切もうなずいた。「確かに。様々な種類の動物が共存している証拠ですね。興味深い...」
彼らは約30分間、「王国」を調査した後、去っていった。その間、直接的な捕獲行為はなかった。
「何だったんだろう?」彼らが去った後、皆が集まった。
「調査の続きか」チロが推測した。「でも、以前ほど敵意は感じなかったな」
「遠藤さんの影響かもしれないわ」ミウが言った。「彼女が小田切さんの考えを少しずつ変えているのかも」
何にせよ、この訪問で一つの事実が明らかになった。「王国」は人間にも認識される存在になりつつあるということだ。良くも悪くも、私たちの隠れ家は完全に隠れているわけではない。
「これからは、人間との関係も考えないといけないな」私は思った。
六月初め、春から初夏への移り変わりを感じる季節となった。「王国」の木々は緑の葉で覆われ、小川の水位も落ち着いてきた。浸水していた地域も徐々に乾き、新たな植物が生え始めていた。
この日、私は「王国」の高台に登り、一人で周囲を見渡していた。東京から始まった旅、函館からの長い道のり、そして札幌での新しい生活。思えば長い道のりだった。
「あなた、ここにいたのね」
背後からミウの声がした。彼女は子供たちを安全な巣に残し、私を探しに来たようだった。
「ああ、少し考え事をしていた」
「何を?」彼女は隣に座った。
「たくさんのことさ」私は遠くを見つめた。「東京での生活、ここまでの道のり、そして...これからのこと」
「心配事?」
「いや」私は首を振った。「感謝の気持ちかな。ここまで来られたこと、仲間たちと出会えたこと、そして君と家族になれることに」
ミウは優しく微笑み、私に寄り添った。「私も感謝しているわ。あなたと出会えて、この『王国』で生きられることに」
私たちは静かに景色を眺めていた。「王国」の下では、様々な動物たちが活動している。それぞれが役割を持ち、共に生きる姿は、美しい調和を感じさせた。
「子供たちはすごく成長してるわね」ミウが静かに言った。
「ああ」私は誇らしく答えた。「目も開いて、毛も生え揃ってきた。もうすぐ巣の外に出られるだろう」
「良い親になれてるかしら?」ミウが少し不安げに尋ねた。
「君は素晴らしい母親だ」私は確信を持って言った。「子供たちは幸せだよ」
彼女の表情が明るくなり、「あなたも素晴らしい父親よ」と返してくれた。
「王国」の責任と父親としての責任。二つの重みを感じつつも、それは私を押しつぶすものではなく、前に進む力となっていた。
「さあ、巣に戻りましょう」ミウが立ち上がった。「子供たちの世話をしないと」
私たちが巣に戻ると、子供たちは元気に動き回っていた。生後約一ヶ月のハル、キタ、ユキはすでに毛も生え揃い、目も完全に開いていた。好奇心旺盛に巣の中を探索している。
「パパ、帰った!」ハルが最初に私に気づき、駆け寄ってきた。
彼女は三匹の中で最も活発で好奇心が強く、常に周囲を観察している。キタは体格が良く、既に筋肉質な体つきになりつつある。ユキは最も小柄だが、注意深く慎重な性格だ。
「ただいま」私は微笑み、三匹を前足で優しく抱きしめた。「今日は何をして遊んだ?」
「チロおじさんが、タヌキの話をしてくれたよ!」キタが興奮した様子で言った。
「ヤマトおじさんは、空の話をしてくれた」ユキも小さな声で付け加えた。
子供たちは日に日に言葉を覚え、周囲の世界への興味を広げていった。「王国」の仲間たちも、彼らの成長を温かく見守ってくれている。
「そろそろ彼らに『王国』を見せる時期かもしれないわね」ミウが私に向かって言った。
「ああ、『王国全体会議』に連れて行こう」私は提案した。「彼らも『王国』の一員として、皆に紹介したい」
六月中旬、「王国全体会議」が開催された。全ての住人が一堂に会し、子供たちの紹介も兼ねていた。
ハル、キタ、ユキは初めて巣の外の広い世界を目にして、目を輝かせていた。
「すごーい!」ハルは驚きの声を上げた。「こんなに広いんだ!」
「あれは何?」キタは遠くの建物を指さした。
「あれは事務所棟だよ」私は説明した。「昔、人間が働いていた場所だ」
「人間って何?」ユキが小さな声で尋ねた。
「それはね...」
説明する間もなく、会議が始まった。チロが議長を務め、最近の出来事と今後の計画について話し合われた。食料確保の状況、安全対策、そして他の動物グループとの関係など、様々な議題が取り上げられた。
会議の後半、私は子供たちを紹介した。
「皆さん、こちらが私とミウの子供たち—ハル、キタ、ユキです」私は誇らしげに言った。「彼らは『王国生まれ』の最初の世代です」
会場からは歓声と祝福の声が上がった。様々な種類の動物たちが、それぞれの方法で祝福を示した。カラスたちは羽音を立て、小動物たちは可愛らしい声で鳴き、ガンたちは前足で地面を叩いた。
子供たちは最初、大勢の見知らぬ動物たちに圧倒された様子だったが、すぐに興味を示し始めた。特にハルは大胆にも前に出て、チロに質問を始めた。
「タヌキのおじさん?パパがいつも話してくれるチロおじさん?」
チロは少し恥ずかしそうに、しかし優しく答えた。「ああ、そうだ。お前がハルか。しっかりした子だな」
キタもすぐに他の子アライグマたちと打ち解け、一緒に走り回り始めた。ユキだけはミウの傍を離れず、慎重に周囲を観察していた。
「素晴らしい子供たちだ」ヤマトが私の横に降り立ち、言った。「彼らは『王国』の未来を担う存在だ」
「ありがとう」私は感謝した。「彼らが安心して暮らせる場所を作るために、これからも力を尽くさなければ」
会議の後、ミウと私は子供たちを連れて「王国」を案内した。彼らにとって初めての大冒険だ。
「ここが事務所棟」
「ここは温泉王国への入口」
「あそこには川があって、魚が住んでいるんだよ」
子供たちは目を輝かせて、あらゆるものに興味を示した。彼らの純粋な好奇心と喜びは、私たち大人にも新鮮な感動をもたらした。
「パパ、私たちはずっとここで暮らすの?」散策の途中、ハルが尋ねた。
「そうだよ」私は答えた。「ここが私たちの家だ」
「いいところだね」彼女は満足そうに言った。「みんなが優しい」
その言葉に、胸が温かくなるのを感じた。子供の素直な感想こそ、私たちが築いてきたものの証だったから。
夕暮れ時、私たちは巣に戻った。興奮で疲れ切った子供たちはすぐに眠りについた。三匹が寄り添って眠る姿を見ながら、私とミウは静かに話し合った。
「彼らは幸せそうだったわね」ミウが微笑んだ。
「ああ」私も頷いた。「『王国』が彼らにとって良い場所になっているようだ」
「でも、まだ人間のことは話していないわね」ミウが少し心配そうに言った。
「そうだな」私も真剣な顔になった。「いつか話さなければならないが、まだ彼らには複雑すぎる」
「特にカズナリのような友好的な人間と、小田切のような敵対的な人間の違いは...」
「そうだね」私は同意した。「単純に『人間は敵』とも言えないし、かといって信頼しすぎるのも危険だ」
「時期が来たら、正直に話しましょう」ミウは決意を示した。「良い面も悪い面も含めて、現実を教えるべきよ」
私たちの会話は、眠る子供たちの小さな寝息によって中断された。彼らの無邪気な寝顔を見ていると、どんな困難も乗り越える力が湧いてくるようだった。
「彼らのためにも、『王国』をもっと良い場所にしたいな」私は静かに言った。
「きっとできるわ」ミウは確信を持って答えた。「私たちには仲間がいるもの」
窓の外では満月が輝き、「王国」を銀色の光で照らしていた。春の息吹が、初夏の活力へと変わりつつある季節。私たちの新しい生活も、確かな一歩を踏み出していた。
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