ゴミの王国

セクストゥス・クサリウス・フェリクス

第1話「人の世の影」

東京・下北沢のゴミ集積所。

真夜中、ビニール袋の山が月明かりに照らされていた。


「今日も豊作だな」


私、ラスクは前足でビニール袋の結び目をほどき、中身を確認する。コンビニ弁当の残りと、半分だけ食べられたおにぎり。人間たちの食い散らかした跡が、私たちアライグマの晩餐となる。


「分別もできないのか。プラスチックが混ざってるじゃないか」


私は鼻を鳴らしながら、プラスチックのスプーンを脇によける。東京の人間は分別が適当だ。だがそれが私たちにとっては都合がいい。混沌こそがゴミあさりの醍醐味だ。


父は常々言っていた。「俺たちは人間の影だ。その痕跡からすべてを学ぶんだ」と。

父は珍しい経歴の持ち主だった。ペットショップから逃げ出し、野生の母と出会い、私を儲けた。だから私は半分が飼育下、もう半分が野生のハイブリッドというわけだ。人間の言葉を理解する能力も、その特殊な血筋のおかげだろう。


集積所の向かいにあるコンビニが深夜営業を終える音がした。看板の明かりが落ち、シャッターが下りる。タイミングを見計らい、私は別の袋に手を伸ばした。


「おっと、これは上物だ」


レストランから出されたと思われる袋。中には高級そうな刺身の切れ端が。私の分類では間違いなく「S級ゴミ」だ。東京のゴミは実に格付けが難しい。燃えるゴミの日にはS級が多いが、ビンカンの日は大したものがない。人間たちの生活リズムを読み解き、最適なゴミあさりをするのが私の流儀だ。


「ラスク、もう行くぞ」


暗闇から仲間の声がした。いつまでも同じ場所に留まるのは危険だ。私は最後に一瞥してから、袋の口を結び直した。人間に気づかれないためのささやかな気遣いだ。


「了解、今行く」


私は獲物を口にくわえ、暗がりへと身を隠した。


---


翌日。私は古びたアパートの裏手で横になっていた。下北沢の喧騒が遠くに聞こえる。昼間は基本的に身を潜めるのがルールだ。


「何こいつ、アライグマじゃね?」


突然、人間の声がした。ゴミ捨て場に来た若い男だ。私はすぐに身構えたが、逃げる間もなく、不意に何かが私の上に落ちてきた。大きな布のようなもの。網だ。


「獲ったぜ!ペットショップで高く売れるって聞いたんだよな」


暴れる私を男は手袋をした手で乱暴に掴み、金属のケージに押し込んだ。扉が閉まる音と共に、私の自由も閉ざされた。


「くそっ!開けろ!」


私は必死にケージを揺さぶったが、がっしりと造られた檻はびくともしない。男は私の入った檻を車に積み込むと、エンジンをかけた。


これが、私がかつて父から聞いていた「密輸」という奴か。野生動物を捕まえて売り飛ばす人間たちの所業。まさか自分がそのターゲットになるとは。


車は長い時間走り続けた。窓の外を見ると、見慣れた下北沢の街並みはとっくに消え、高速道路を北へ向かっているようだった。


「北へ…どこへ連れていくつもりだ」


私は呟きながら、チャンスを窺っていた。檻を開ける方法はないか。人間たちの隙はないか。生まれてこの方、東京の外に出たことのない私にとって、この状況は最悪だった。


やがて車は大きな建物の前に停まった。男は私の檻を車から降ろすと、中に入っていった。そこは薄暗い倉庫のような場所で、同じように檻に入れられた動物たちが並べられていた。


「新入りか」


隣の檻から声がした。見ると、白いキツネがこちらを見ていた。


「ああ。下北沢から連れてこられた」


「ここは函館港だ。おそらく私たちは船で運ばれる」


「函館?北海道か?」


私は驚いた。東京と北海道。日本列島の両極だ。なんでそんな遠くへ?


「珍しい動物は高く売れるんだ。特に北海道ではアライグマは外来種。ペットとして人気がある」


キツネは少し遠くを見つめるように目を細めた。


「函館には昔から密輸のネットワークがあるんだよ。戦前から続く地下通路や倉庫がね。船と陸をつなぐ秘密の経路さ。今も動物だけじゃなく、様々なものが流れている」


「君はよく知ってるんだな」


「私はここで生まれた」キツネは小さく微笑んだ。「三度捕まり、三度逃げた。今回は四度目だ。でもね、年をとると諦めも覚えるものさ」


キツネの説明を聞きながら、私は周囲を観察していた。人間たちは荷物の積み込みに忙しく、私たちの檻には鍵がかけられている。が、よく見ると鍵穴はとても単純な構造だった。


私は前足の爪をそっと伸ばし、鍵穴に差し込んだ。父から教わった技術だ。


「ゴミ箱の鍵、自転車の鍵、倉庫の鍵。人間の作ったものには必ず弱点がある」


父はゴミ集積所に捨てられた様々な鍵で私を訓練した。爪の角度、力の入れ具合、内部機構の感触。何百回と失敗を繰り返し、やっと身についた技術だ。それが今、命を救う。


細かい作業を繰り返すうちに、カチリと小さな音がして、檻の鍵が外れた。


「抜け出すつもりか?」キツネが小声で言った。


「ああ。チャンスがあれば他の檻も開けてやる」


しかし、その約束を果たす前に、人間たちが戻ってきた。私は檻の扉をほんの少しだけ開けておき、目を閉じて寝たふりをした。


夜が更け、倉庫内の明かりが落とされた。私はその瞬間を待っていた。静かに檻から抜け出し、床に降り立つ。


「約束通り、開けてやるよ」


私はキツネの檻に近づき、同じ要領で鍵を開けた。しかし、キツネは静かに首を振った。


「私はもう年だ。逃げても生きていけない。お前一人で行くんだ」


キツネは周囲を見回してから、小声で付け加えた。


「それに、私はここに残る必要がある。いつか...迎えが来るんだ」


「迎え?」


「説明している時間はない」キツネは急かすように言った。「ただ覚えておいてくれ。函館の地下には、人間の知らない世界がある。もし君が生き延びて、再びここに戻ることがあれば...その時は古い灯台の影を探すといい」


その言葉に私は立ち止まった。キツネの瞳に映る諦めは、かつて父の目にも見たものだった。父が最後に私に告げた言葉が蘇る。


「お前は生きろ。どんな環境でも適応できる。それがアライグマの強さだ」


父は密猟者に捕まった時、私だけを逃がした。今、目の前でキツネが同じ選択をしている。捨て駒になることで、次の世代に命を繋ぐ。それは諦めではなく、ある種の覚悟なのかもしれない。


「でも...」


「行くんだ」キツネは穏やかに微笑んだ。「自由とは、選択する権利だ。私は残ることを選んだ。お前の選択は何だ?」


外からエンジン音が聞こえ始めた。躊躇している時間はない。しかし、この瞬間だけは忘れまいと心に刻んだ。


「すまない...そして、ありがとう。あなたの選択を無駄にはしない」


私は倉庫の隙間から外へ滑り出た。冷たい風が毛並みを撫でる。見上げれば星空が広がっていた。東京では見たことのないほど明るい星々。


函館の港は静まり返っていた。遠くに船の明かりが見え、波の音が響く。私は暗がりに身を隠しながら、港を離れた。


「北海道か…」


見知らぬ土地で、私はこれからどう生きていけばいいのか。答えはまだ見つからなかったが、とりあえず生き延びることだけを考えた。


「これが北の流儀ってやつかどうか、見てやるさ」


私は息を吐き、前を向いた。寒風が頬を撫でる。ここから私の新しい物語が始まるのだと、その時はまだ知る由もなかった。


---


函館の街を歩き始めて数時間。東京との違いに戸惑いを隠せなかった。


まず、空気が違う。透き通るような冷たさ。東京の排気ガスや人混みの匂いが混ざった空気とは全く異なっていた。そして、ゴミの匂いも違う。


「ここのゴミ、冷たすぎないか?」


私は思わず呟いた。ある住宅のゴミ箱をあさってみると、中身はきちんと分別され、食べ物の残りもきれいに包まれていた。東京のような乱雑さがない。


「こんなに几帳面じゃ、食い物にありつくのも一苦労だな」


そして何より、寒い。まだ秋だというのに、朝方の空気は冷たく、私の吐く息は白い靄となった。これから冬を迎えるとなると…想像するだけで身震いがした。


私は港から少しずつ離れ、街の中心部へと向かっていた。どこかに隠れ家を見つけなければ。そして、札幌を目指す方法も。何も考えずに逃げ出してしまったが、この先どうするか。


「とりあえず、生き延びるしかないか」


私は肩をすくめ、朝靄の立ち込める函館の街を、影のように歩き続けた。

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