遠い間奏曲
@Siaru-
第1楽章 響かない音
――音は、形を持たないのに、どうしてこんなにも鮮明に残るのだろう。
放課後の音楽室。
夕陽が西の空を染め、窓際のピアノに長い影を落としている。
窓の外では吹奏楽部の練習が続いているのか、微かに金管楽器の音が風に乗って流れ込んでくる。
その音に耳を傾けながら、柚希はクラリネットのケースを開いた。
白いカーテンがゆるやかに揺れる。
午後の熱が残る部屋には、かすかに木の香りが漂っていた。
楽器棚には磨かれた金管が並び、黒板の隅には音符が雑に書き残されている。
「……また、やるの?」
気怠げな声が背後から降ってくる。 柚希は振り向く。
窓際のピアノに寄りかかるように座る葵が、片手で鍵盤を適当に叩きながら、半ば呆れたように言った。
陽の光を受けて、葵の黒髪がさらりと揺れる。 ただの黒ではない。光が透けると、わずかに琥珀色が混じって見えた。
細く涼しげな目元が、そのまま性格を表すようにどこか掴みどころがない。
けれど、視線が合うと、ひどく真っ直ぐに射抜かれる気がして、柚希は慌てて目を逸らした。
「昨日、あれだけ合わせたのに?」
さらりとした口調のくせに、わずかに笑みを含んでいる。 葵は長い指先で鍵盤をなぞり、思いついたように軽やかな旋律を奏でた。
それは楽譜にない、気まぐれな音の連なり。 彼女の音楽そのものだった。
柚希は無言のままクラリネットを組み立てる。 キーを押す指先がわずかに冷たく、それを温めるようにひとつ息を吐いた。
「まだ納得できてない」
そう言いながら、マウスピースにそっと息を吹き込む。 静寂の中に、一筋の音が生まれ、柔らかく響いた。
その余韻を待たずに、葵が軽くため息をつく。
「柚希ってさ、ほんと真面目すぎるよ」
気だるげな口調のくせにどこか楽しそうな声。 鍵盤の上を滑る指先はまるで、風が草を撫でるように軽やかだった。
「音楽って、もっと自由なものでしょ?」
自由。
その言葉に、柚希はわずかに眉を寄せた。
楽譜を忠実に守り、積み重ねた練習の先にしか、良い音楽は生まれないはずなのに。
なのに――葵の奏でるピアノは、どうしてこんなにも心を揺らすのか。
それが、少し悔しかった。
◇◇
葵の指が、鍵盤の上を軽やかに跳ねる。
音楽室に響くピアノの音は、どこか気まぐれで、それでいて不思議と心を惹きつける旋律だった。
リズムをほんの少し崩し、自由に流れるように弾いているのに、なぜかまとまりがある。
「……また好き勝手に弾いてる」
思わず、口にしていた。
葵が手を止めて、こちらを振り返る。
「楽譜どおりに弾かないとダメ?」
その言い方が、どこか挑戦的だった。
「合わせるって言ったの、そっちでしょ?」
「合わせてるよ。柚希が固いだけ」
「は?」
柚希はクラリネットを握る手に力を込めた。
葵はどこまでも余裕の表情で、鍵盤の上に指を滑らせる。
「なんでそんなにきっちりやろうとするの?」
「きっちりやるのが普通でしょ。バラバラだったら合奏にならないじゃん」
「でも、それじゃ楽しくない」
「……は?」
柚希は思わず葵を睨んだ。
「楽しいとか楽しくないとかの前に、ちゃんと演奏しないと意味ないでしょ」
「ちゃんとって何? 柚希が思う“正解”に、私が合わせればいいの?」
「そんなつもりじゃ……」
言いかけて、柚希は口をつぐんだ。
そのつもりはなかった。
だけど、葵の演奏に苛立っていたのは事実だ。
「ねえ、柚希って、昔からそうだよね」
「……なにが」
「枠の外に出るのを嫌がるところ」
淡々とした口調なのに、その言葉だけは妙に刺さった。
柚希はもう一度、クラリネットを握りしめる。
「それが悪いこと?」
「さあ。でも、それじゃあ私とは合わないよね」
葵はそう言って、鍵盤の上に指を滑らせる。
「……もういい」
柚希は短くそう言い捨てた。
それ以上、何か言う気になれなかった。
葵もそれ以上何も言わず、ふっと視線を落とした。
◇◇
柚希はクラリネットをケースにしまい、そっと席を立った。
葵は何も言わず、鍵盤の上に指を乗せたまま。柚希の存在など最初からなかったかのように、ただ静かに座っている。
「……次の練習、ちゃんとやる気あるなら呼んで」
柚希はそれだけ言い残し、音楽室を後にした。
扉を閉めた瞬間、背後でピアノの音が響き始める。
廊下を歩きながら、柚希はなんとなく足を止め、耳を澄ませた。
葵が弾くのは、さっきまで合わせていた曲ではない。
自由気ままに、流れるような旋律。
柚希はすぐに歩き出し、そのまま音楽室を後にした。
柚希の気配が消えたのを確認することもなく、葵は指を鍵盤に落とした。
軽やかに弾き始めると、部屋に音が広がる。
楽譜なんて見なくてもいい。
今の気分で、ただ指を動かすだけ。
柚希が言ったことも、どうでもよかった。
「やる気」ってなんだろう。
誰かに合わせて弾くこと? それとも、自分の好きなように音を奏でること?
柚希のクラリネットは綺麗だった。
でも、いなくなったところで、何かが変わるわけじゃない。
葵はそのまま、好きなように弾き続けた。
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