14杯目「雨粒のピアノ」

「向こうの世界で通っているカフェにはスクリーンがあって、映画も上映しているんだ。そこで初めて観た映画の音楽を聴いて、驚いたよ。ギターの音から感じる乾きが『晴れ』のようで、『パリ、テキサス』の音楽によく似ていたから。その映画の音楽のことを、カフェのオーナーに訊ねた。ギタリストの連絡先を調べて、メールを送ったんだ」

 ゆっくりと、長い話をしずくが語ってくれた。信じてもらえないことは覚悟して、こちらの世界で暮らした経過を書いたのだという。思いのほか、ギタリストからの返信は早かったらしい。その男性のメールには、晴れる世界を知っていて、自分の部屋のドアから行き来していることが綴られていたそうだ。

「離れた街の彼の部屋に行ったよ。持っていった scandalous の服に着替えて、彼と同時に部屋のドアをくぐった。つながっていたのは、こちらの世界のライブハウスだった。彼はそこで毎回、百人くらいを前にしてピアノを弾いているんだ」


 gibouléeジブレで流れているピアノ曲はそのギタリストともさんのものだった。こちらの世界に来ると、ギターよりもピアノが弾きたくなるらしい。

 朋さんはこちらの世界のカレンダーで計算すると五十五歳。三十年以上の間、向こうの世界とこちらの世界を行き来している。初めの数年は、行き来できない期間があったり、夏の日焼けや冬の乾燥に苦しんだりしていたらしいけれど、症状は少しずつよくなり、いまでは好きなように行き来ができるようになっているという。向こうの世界ではギターの作品で生計を立て、こちらの世界ではピアノを生業にしていた。


 そのライブハウスのオーナーも向こうの世界に行ってみようとしたらしい。でも三十数年の間、一度も行けなかった。雫もあと数年で好きなように行き来ができるようになるかもしれないかわりに、私が向こうの世界に行ってみることは叶わなそうだ。

 それでも私は嬉しかった。冬の間も雫と離れずに暮らせる可能性が出てきたから。数年の間、雫が酷い日焼けをしたり乾燥に苦しむのはかわいそうなので、手放しでは喜べない。私が代わりに雫の世界に行って、雨や湿度に苦しむほうがましだ。私も向こうの世界に行けないのか、試してみたかった。




 遅番だった私は、「通し」だった店長と一緒に店を閉めた。二人で遅くまで営業しているカフェに行く。

「前に、雫の実家が別の世界にあるって言ったの覚えてますか」

「うん——覚えてるよ」

「それ、本当なんです」

「——話があるって聞いたときは、もしかして三田さんと結婚するのかと思ったんだけどな」

 雫の世界に行ってみたいということと、もし行けても戻ってこられないかもしれないということを話した。もしも戻ってこられなかったときは、母に連絡してこの話をしてほしいと、お願いする。

「それ、信じろっていうのかー。三田さんと、いや本当は『雫さん』って呼べばいいんだね。雫さんとあのカフェが普通じゃない気はしてるけど、信じるのはまた別だよ。——仕事、たいへんだもんね。嫌になった? でもこんな変わった嘘ついてまで飛ぶなんて、中野さんらしくないからな」

 scandalous は厳しいので、入社してもすぐに辞めてしまう人や、突然店に来なくなってしまう人もいた。店長は私が仕事を辞めたくなったのかと思っているらしい。

「見届けてもらえませんか。オーナーの三田さんが言ってたんです。雫は店の裏口から、ふっと消えるって」


 数日後の雨の昼間、休日の私は giboulée に来る店長を待っていた。店長と一緒に昼食をとってから、一度店を出て裏口に回る。厨房に入り、雫を見上げた。

「向こうの世界とつながってそう?」

「うん。大丈夫」

 雫と二人、手をつないで、開け放たれた裏口を通った。握っていた雫の手の感触が消える。雫が消えていくのも一瞬見えた。私ひとりが雨の中に立っている。

「見たよ」

 厨房にいる店長が言う。

「信じるしかないみたい」

 裏口のドアを閉め、ハンドタオルで顔や髪を押さえていると、ノブがかちゃりと回る音がして雫が入ってきた。

紗季さきは、やっぱり来られなかったね」

 優しいけれど少しさみしげな笑顔の雫。店長のほうを少しおどけたような笑みで振り向き、見てもらえましたか、と訊く。

「仕掛けがあるようには思えませんでした。信じます。それと、中野さんが行けなくてよかった。雫さんには悪いけど、中野さんは scandalous の大切な副店長だから、いなくなったら困るんです」

「俺がこちらの世界にいます。紗季をひとり占めになんかしないので、安心してください。それと、信じてくださってありがとうございます」

「敬語じゃなくていいですよ。確か雫さんは私より一歳年上なんですよね。こちらの世界のカレンダーで計算すると」

 店長もいたずらをしたかのような笑顔を見せた。

「驚いたけど、ほっとしたよ。中野さんが消えなくてよかった」

 濡れていた私の背中を拭いてくれてから、店長が差し出した手を握る。

「これからも中野がお世話になります」

 店長は三田さんと雫とも握手していた。厨房の片隅にターンテーブルが置かれ、ホールに流れるピアノの音がこちらまで響いていた。



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