6杯目「映画」

『えっ。ここで、ですか?』

『じつは、紗季さきさんにお願いがあって』

 しずくさんの言葉に心が跳ねた。

『明日もこちらの世界に来られるので、一緒に映画を観てもらえませんか? こちらの世界で映画館に行ったことはないので、教えてもらいたいのです』

『もちろん、いいですよ』

『『ノスタルジア』という映画を、オーナーにすすめてもらいました』

『西口の映画館で六月の間だけ再上映しているようです。紗季さんは『ノスタルジア』を観られたことは?』

『ないです』

『でしたらぜひ、雫と一緒に。おすすめですよ』


 彼が読めない字幕の映画を楽しめるのか心配だったけれど、映画自体の雰囲気が好きなので大丈夫だそうだ。

 『ノスタルジア』は午前九時からの上映だった。映画館でチケットを買ってみたい、と言う雫さんと下見にいった。映画館のロビーは、西口のファッションビルの八階だった。映画館に上るエレベーターの前で、明日の朝八時過ぎに待ち合わせした。

 gibouléeジブレ に戻りオーダーすると、雫さんがマチネを入れてくれた。空いていたカウンター席に並んで、二人でコーヒーを飲んだ。

 すぐに仕事モードに切り替えているけれど、さっきまでの出来事が次々に脳内再生される。

「岡本くん、二番は中野さんと出たいから順番変わってもらえる? ありがとう。いいかな?」

 途中から私に視線を移した店長に頷く。

「何かいいことあった?」

 休憩室の椅子に座ると、すぐに店長が訊ねてきた。

「おすすめの映画を教えてもらったので、明日観に行くのが楽しみで」

「カフェの店員さん、三田さんだっけ。あの人に教えてもらったの?」

「いえ、カフェのオーナーにです」

 雫さんには名字がないので、カスタマーズカードには仮に「三田」と記入してもらっていた。

「じゃあ三田さんと一緒に映画に行くんだ?」

 店長は鋭くて困る。私が分かりやすいだけだろうか。

「はい……」

「中野さん、あの人のこと好きでしょ? 男としてだよ。——売上げに問題がないなら別にいいんだ」

 恋愛は自由だもんね、と店長は紙コップを口元に運ぶ。

「店長は彼氏さんと一緒に住んでるんですよね」

「そうだよ。もう四年目」

「四年もですか。——私、三年以上付き合ってた人と去年同棲したんですけど、三か月も持ちませんでした」

「それで三田さんに会えたから結果オーライじゃない?」

「会えたっていうか、私が好きなだけです」

「そーお? 三田さんも中野さんのことが好きなように見えたよ。付き合いはじめたのかと思ってた」




 以前、通勤退勤時も scandalous を着るように、と言われてから、ほとんどほかの店の服を買っていない。自社の服も、何でも買って良いわけではなく、今季の売りで大量に仕入れているアイテムや、売れ残っている色を買って着ることが多い。これはないでしょ、と思うようなコーディネートを着ているときに、お客さんに褒められたり、同じアイテムが売れたりする。

 ローカットの黒のオールスターにジャンプスーツ。袖の部分は腰で縛って、トップのカットソーを見せる。定番のスタッズリングをひとつだけ、右手の薬指に。髪は下ろしたミディアムボブのまま。ミルクティーベージュにした髪が広がらないようにヘアミルクだけ塗り込みキャップをかぶる。


 雫さんはすでにエレベーター前に立っていた。一緒に選んだ scandalous のコーディネートを身に纏っている。キャップをかぶって顎を少し上げて、柱に凭れている姿を振り返る女の子たち。まるで scandalous のモデルが立っているかのようだった。

「お待たせしました」

「そんなに待っていません」

 雫さんが笑顔になる。


 映画は衝撃的なシーンもあったけれど、全体的にさみしい色合いが美しかった。

「彼はどうしてあんなことをしたのでしょうか」

 giboulée のテーブルで映画のあらすじを伝える。

「雨のシーンがありましたね」

「ありました」

 私が一番好きだと思ったシーンだ。


 一度やってみたかったことを今日はした。はじめにマチネを頼み、すべてのスイーツを頼む。マチネがなくなったらソワレを頼む。雫さんとシェアしながら少しずつスイーツを口に運んだ。

 彼はヴィーガンホットドッグとアイスアメリカーノも頼んでいる。ゆっくりとグラスを傾けるさま。ゆっくりとホットドッグを取り上げるさま。行動のひとつひとつから雨のにおいが立ち上っていそうだった。家を出るまでの緊張はどこへいったのか、私はとてもリラックスしていた。

 窓の外で雨が暮れていく。


「もう閉店ですね。残念ですが駅まで送らせてください」

「ありがとうございます。お願いします」

 雨の中を並んで歩いた。雫さんがさしているのは giboulée の置き傘だという。

 地下街に入り、長いエスカレーターに乗る。地下鉄の改札階まで降りていく。

「好きです」

「私も好きです」

 一瞬、映画『ノスタルジア』の雨のシーンが蘇った。

「敬語じゃなくてもいいですか」

「いいよ」

 見上げると雫さんは笑っていた。

「じゃあ『雫』って呼んで」

「私は『紗季』」

 分かったよ、彼が私の手を握った。雫の手は、ひんやりしていた。



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