ハードボイルドに向かない男

水城透時

ハードボイルドに向かない男

 薄暗い部屋の中、俺は静かに目を開けた。シーツは乱れ、枕元には昨夜飲みかけのウイスキーのグラスが転がっていた。寝汗はかいていなかった。俺の体は、どんな環境にも適応するようにできている。


 外から街の音が聞こえる。クラクション、新聞配達のバイク、遠くで吠える犬。どれも俺には関係のない音だった。


 ベッドを降り、キッチンへ向かう。俺の朝食は決まっている。コーヒーとタバコだ。トーストやスクランブルエッグを作るような男ではない。ハードボイルドとは、空腹を黙ってやり過ごす生き方のはずだから。


 俺がこの生き方に憧れたのは中学の頃だ。深夜映画で観た探偵たちの渋さに痺れ、クラスメイトが恋愛漫画を読んでいる横で、俺は古びたハードボイルド小説をめくっていた。苦いコーヒーを飲みながら、無駄に気取ったセリフを頭の中で練習した。


 時代遅れ? 笑わせるな。ハードボイルドに流行り廃りはない。タフで、クールで、そして孤独。俺はそれを貫いて生きる。


 「フン……渋いじゃねえか」


 誰に聞かせるでもなく呟き、やかんに火をつける。電気ケトルなんてヤワなもんは使ってられねえ。これはハードボイルドを体現する俺にとっての最低限の矜持だ。インスタントコーヒーをカップに放り込み、湯が沸くのを待つ。タバコを取り出し、火をつける――そのはずだった。


 だが、そこで問題が発生した。いつもの場所に、タバコがなかった。


 (あれ? どこにやったんだっけ?)


 俺は慌てて心当たりの場所を探す。どこにもない。


 冷静になれ、と俺は自分は言い聞かせた。焦るのはハードボイルドな男のすることじゃない。

 

 一瞬、コンビニへ走ろうかと思ったが、すぐに思い直す。ハードボイルドな男が、朝っぱらからタバコ一つのためにコンビニへ駆け込むなんて、みっともない。


 ハードボイルドな男には、痩せ我慢をしなきゃならない時がある。


 湯が沸いた。無言でカップに注ぐ。スプーンでかき混ぜる。雑な動作。ただ、コーヒーを飲む。それだけだ。椅子に腰掛け、マグカップを手に取った。苦難を乗り越え、俺のハードボイルドな一日は完璧に始まった。


 ――その瞬間。


 グラッと、床がわずかに揺れた。気のせいか? いや、違う。カップの中のコーヒーが波打った。次の瞬間、グラグラと、部屋全体が軋むように揺れた。地震だ。


 「熱ッ!」


 膝の上にコーヒーがぶちまけられる。ハードボイルドな男は熱さくらいで騒がない……とは言うものの、熱いもんは熱い。俺は思わず立ち上がり、ズボンをバタバタと払った。


 揺れはすぐに収まり、静寂が戻った。俺はコーヒーの染みを見下ろした。ハードボイルドな男が、熱いコーヒーを膝にこぼしてバタバタするなんて、様にならない。だが、現実はこうだ。


「……くそ」


 俺は小さく悪態をついた。冷静にいようとすればするほど、腹が立つ。タバコも切れてるし、朝からこの有様だ。完璧にハードボイルドな一日が始まるはずだったのに、いきなり躓いた気分だ。


 まあいい。タバコを買いに行くのは、もう少し後にしよう。

 

 ***

 

 夏の暑さは容赦なかった。


 太陽は高く昇り、真上からすべてを焼きつけていた。アスファルトは熱を持ち、足元からじりじりと肌を焦がしてきた。空気は重く、湿気をたっぷりと含んでいた。息をするだけで喉が渇いた。汗が背中を伝って落ちた。歩道には陽炎が揺らめいていた。セミの声が響いていた。すべての音が、熱気の中で鈍くこもっていた。


 俺は自販機の前に立った。ポケットから百円玉を取り出し、コイン投入口に押し込んだ。小さな音を立てて、硬貨は奥へ吸い込まれた。続けて数枚入れた。


 喉が乾いていた。胃の底に氷のような冷たさを流し込みたかった。ボタンを押した。何も起こらなかった。


 もう一度押した。反応はなかった。コインが戻ってくる音もしなかった。指でパネルを叩いた。無駄だった。金を飲み込んだまま、無言の機械。


 俺はハードボイルドな男だ。人生は理不尽の連続だが、こういう時こそ、強く冷静であるべきだった。


「ふん、困った子猫ちゃんだ」


 普段ならそう言って余裕たっぷりに立ち去るところだった。しかし今日は違った。あまりに暑すぎたし、朝からタバコが喫えずにイライラしていた。


 俺は舌打ちをし、右足を振り上げ、自販機を蹴り飛ばした。


 ……その瞬間。自販機がぐらりと傾いた。ドスン、と重い音を立てて、左に傾く。


 (えっ!? あれっ!?)


 馬鹿な、そんなはずはない。こんな鉄の塊があっさり動くわけがない。よく見ると、足場が不安定で、かろうじて立っているというような状態だったようだ。今朝の地震のせいだろうか、固定用のネジも緩んでいる。俺が蹴りを入れたことで、傾いてしまったようだった。傾いただけではない。衝撃のせいか、かすかに内部で異音がし、横のパネルが歪んでいる。


 (どうしよう……)


 だが、狼狽えるわけにはいかない。ここで慌てたら、ただの小物だ。俺は、ふん、と鼻を鳴らし、あたかも「興味すらない」という風にふるまいながら、その場を立ち去った。


 ***


 夜になっても落ち着かなかった。

 

 (器物損壊……前科一犯……)という言葉が頭の中を駆け巡っていた。自販機の持ち主に申し訳ないという思いもあった。


 蒸し暑い夜の街を歩きながら、ふと足が向いたのは、あの自販機の前だった。


 薄暗い街灯の下、自販機はそこにあった。相変わらず傾いていた。妙な音も昼間のままだった。弁償したらいくらになるのだろうかと不安になる。俺には貯金がなかった。ハードボイルドな男に貯金は似つかわしくないからだ。定期預金など論外だ。そもそも収入もあまりなかった。


「なあ、ちょっといいか?」


 低い声が背後からした。ドキリとする。ゆっくり振り向くと、男が立っていた。背が高く、肩幅が広い。腕は筋肉質で、目つきは鋭い。まるで生きたナイフみたいな男だった。


「昼間、この自販機を壊してった奴がいるらしいが……あんた、見たりしてねえかな?」


 心臓が跳ねた。だが、俺は平静を装う。こういうときこそハードボイルドだ。


 冷静に相手を見つめる。この男が自販機の持ち主なんだろうか? 見かけによらず手堅い稼ぎ方をしてやがる。案外、暴力沙汰は嫌うかもしれない。


 俺はハードボイルド流に煙に巻く事に決めた。


「へぇ……そりゃひでぇ話だな」俺は肩をすくめた。「暑さで気が狂ったバカがやったんだろう。災難だったな」


 男はじっと俺を見つめる。


「本当に心当たりはないのか?」

「なんで俺に絡むんだ? 悪いがここには今初めてきたんだ」

「そうか。昼間、防犯カメラにあんたとよく似た男が映ってたんだがな……」


 男は冷たく俺を見据える。喉が鳴った。


「そんなに昔の事は覚えてねえな」精一杯そう言ったが、声が少し裏返った気がする。最悪だ。


 男は一歩、俺に近づく。ヤバい。これは逃げたほうがいい。俺は踵を返した。


 「待て」


 男の手が俺の襟を掴む。反射的に肘を突き出す。腹にヒットする。手が緩む。だが、男はすぐに構えを取り直した。


 「やる気か?」と男が言った。


 俺は黙って拳を握った。ハードボイルドな男には暴力はつきものだ。


 次の瞬間、男が殴りかかってきた。避ける間もなく、衝撃が走る。俺も拳を突き出す。当たる事は当たったが、手応えがまるでない。だめだ、勝てるイメージが全然湧かない。


 格闘はしばらく続いた。強い。強すぎる。まるで大人と子供の戦いだ。勝てばそれなりにハードボイルドな展開だが、負けたらどうする? 無言で立ち上がるか、それとも「殺れよ」と吐き捨てるか? ハードボイルドな負け方も視野に入れながら、俺は戦った。


 しかし、勝負というものは最後までわからないものだ。無茶苦茶に振り回した俺の拳が、男の顎にクリーン・ヒットした。男はよろめいた。俺は思わず心の中でガッツポーズし、畳み掛けるように体当たりをする。ガッツポーズはあまりハードボイルド的ではなかった。だが、たまにはこういうことがあってもいい。俺の人生にも、映画みたいな瞬間があっても――


 体当たりされた男が自販機にぶつかりながら地面に倒れた瞬間が運命の分かれ目だった。地震と俺の蹴りでずっと傾いていた自販機のバランスが、一気に崩れた。


 「……え?」


 ギギギ、と金属の軋む音がした。スローモーションのように、自販機がゆっくりと倒れていく。男が巻き込まれる。助けようとしたが、間に合わなかった。地面が揺れるような衝撃音が響いた。俺は、その場で固まった。


 「……おい?」


 呼びかける。だが、返事はない。


 ……まさか。


 恐る恐る、一歩近づく。心臓が喉の奥でドクドクと鳴っている。


 ――見てはいけない。


 そう思ったが、目を逸らすこともできなかった。自販機の下から伸びた腕。ピクリとも動かない指先。


 そして、男の顔が、こちらを向いていた。首が、明らかに異常な方向を向いていた。折れたのか? そんな、馬鹿な……。


 夜の街灯に照らされた男の顔は、まるで作り物のように無表情だった。目はかすかに開いていたが、そこには何の光も宿っていない。


 「……嘘だろ?」


 言葉が、自分の口から出たのかどうかも分からなかった。目を落とすと、男の頭の下から黒い液体がじわりと広がっていた。それが何か理解するのに、少し時間がかかった。


 血だ。止まらない。暗い地面に滲んでいく。急に、喉がカラカラに乾いた。落ち着け。こういうときこそ、ハードボイルドな男は冷静でなければならない。


 俺は震える手をポケットに突っ込み、タバコを取り出す。タバコを吸えば落ち着くはずだ。


 だが、手が震えた。タバコをくわえようとするが、うまく咥えられない。指が言うことを聞かない。タバコが、地面に落ちた。男の死体のそばに。血の中に。


 俺は無意識に、しゃがんでそれを拾おうとした。その時、俺の目と男の目が合った。視線が、俺を捕らえていた。何も言わない。何も動かない。だが、確かに、俺を見ている。胃の底がぐるりと捻じれた。何かがこみ上げる。


 次の瞬間、俺は勢いよく嘔吐した。


 夕食の残りが、胃の中から逆流する。酸っぱい匂いが鼻を突く。男の死体の横に、俺の吐瀉物が広がる。


 なぜこんな事になる? 運が悪いなんてもんじゃない。天が悪意を持って俺を苦しめているようだった。


 俺は地面に手をついたまま、荒い息を吐いた。喉が焼けるように熱い。落ち着け。こういうときこそ、ハードボイルドな男は冷静でなければならない。


 ……でも、俺は本当にハードボイルドなのか?

 ハードボイルドならば、堂々とこの場に立っているべきだ。警察が来ようが、何があろうが、自分の行動に責任を持ち、無言でタバコに火をつけ、すべてを受け入れるべき。そう、それが本物のハードボイルドだ。


 だが――。


 俺がやったのは何だ? ハードボイルドを気取って、ただのポーズで誤魔化し、肝心なところでは逃げようとした。それのどこが渋い生き方だ? 俺は結局、ただの小心者で、卑怯なだけの男なんじゃないか。


 (ああ、そうか。運が悪かっただけじゃないのか)


 唐突にそう悟った。

 

 ハードボイルドを貫けなかったから、自販機を蹴ってしまった。その時点で素直に小市民として、自分の罪を認めるべきだったのだろう。どっちつかずの半端さが、この事態を招いたのだ。そして結果的に人の命を奪ってしまった。運が悪かったのは確かだろうが、俺が自分の過ちをきちんと認める事さえ出来ていたら、こんな事にはならなかった。


 これは降って湧いた災難じゃない。俺が引き起こしたんだと気づいた瞬間、妙に冷静になった。頭の中で素早く状況を整理する。


 (まだ目撃者はいない。もしかしたら逃げられるかもしれない……)


 しかし、同時に新しく目覚めた自分がこう問いかける。

 

 (本当にハードボイルドな、いや、正しい生き方は何だろうか……)

 

 ハードボイルドとは、ただ表面だけ渋く飾ることではない。自分の行動に責任を持ち、どんな結末も受け止める覚悟を持つことなのだ。

 

 5秒考えた。そしてゆっくりとタバコの箱を握りつぶした。男の死体をじっと見つめた。未来は暗い。それでも、俺は警察に電話をかけた。


 (終)

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