第5話「初恋の人を探して」
管理人室の窓を開けると、涼しい夜風がカーテンを揺らした。
「管理人さん、お願いがあるんです」
振り向くと、そこには白髪混じりの髪をオールバックに整えた初老の男性の幽霊がいた。品のある佇まいに、穏やかな笑みを浮かべている。しかし、その瞳には言い知れぬ寂しさが滲んでいた。
「私の名は藤井雅彦。生前は普通のサラリーマンでした。しかし、死ぬ前にどうしても叶えられなかった願いがあるんです」
「どんな願いですか?」
「初恋の人に……もう一度会いたいんです」
初恋——。
真琴は思わず息をのんだ。そんな純粋な想いを抱えたまま、この世を彷徨っているのか。
藤井の話によると、彼が愛した女性の名前は「桜井美智子」。高校時代の同級生で、卒業後は遠く離れてしまったが、彼女の笑顔がずっと心に残っていた。しかし、忙しさにかまけて連絡を取ることもなく、気づけば数十年の時が過ぎてしまった。
「気づいたときにはもう遅かった。せめて、一目でもいいから会いたかった……」
藤井は虚空を見つめながら、微かに笑った。しかし、その笑みはどこか哀しく、手の届かなかった想いが滲んでいた。
真琴はその願いを叶えるべく、美智子の手がかりを探し始めた。
藤井の高校の卒業アルバムを手に入れ、彼女の旧姓を頼りに役所や知人を辿っていく。幾度となく手がかりを見失いかけたが、ようやくたどり着いたのは、郊外の小さな喫茶店だった。
「ここで働いている桜井美智子さんを探しているんですが……」
店員に尋ねると、奥から現れたのは、柔らかな笑顔を持つ上品な老婦人だった。穏やかな空気を纏いながらも、どこか懐かしさを感じさせる姿だった。
「藤井雅彦……懐かしい名前ですね」
美智子は遠い目をして、静かに語った。
「あの人、優しかった。高校のとき、よくノートを貸してくれたんですよ。でも、卒業してから一度も会わなかったわね……」
彼女の言葉には、淡い追憶が滲んでいた。
真琴は藤井の想いを伝えたいと思った。しかし、目の前の美智子は、すでに新しい人生を歩み、大切な思い出として藤井との記憶をしまっているのだと感じた。
夜、アパートに戻ると藤井が待っていた。
「彼女、元気そうでしたか?」
真琴は微笑んで答えた。
「はい。とても素敵な人生を送っていましたよ」
藤井は静かに目を閉じ、深く息をつくような仕草をした。まるで、長い間胸の奥にしまっていたものを、ようやく手放せるかのように。
「そうか……それなら、よかった」
彼の姿は、ゆっくりと淡くなっていく。だが、消えゆくその顔には、静かな満足の色が浮かんでいた。
「私の初恋は、これでようやく終わります」
最後の言葉とともに、藤井は光の中へと消えていった。
その夜、ふと吹き抜けた風が、どこか優しく感じられた。
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