第一章 デートなど

 部活動終了のチャイムが鳴る。私は帰るために鞄を持つと、四階へ向かった。その一番端には演劇部が部室として使っている特別教室があるはずだ。

目的地に着くと、私は誰にも悟られないようにこっそりと教室の中を覗いた。そこでは未だ何らかの話し合いをしている演劇部の面々がいる。どうやら黒板に役の名前が書いてあることから、今は演劇の役決めに関わる会議が行われているようだった。

渡利さんはどうやら部活動では真面目に……というか部長である以上当たり前なのだろうが、皆を上手くまとめられているらしい。今の私からの彼女の印書を一言でまとめるとすると、『トンデモ滅茶苦茶女』なので、意外と言えば意外だった。

「…………!」

 黒板の前に立ち、皆に向かって話していた渡利さんがこちらに気づいてニコリと微笑んだ。私はそれを確認すると、再び中の人達からは見えないような物陰に隠れ、演劇部の終わりを待つことにした。

「ごめん、待たせちゃったね」

「別に……」

 部活動が終了すると、渡利さんは真っ先に私の方へ駆け寄ってきた。そのためか、少し離れている所から他の演劇部部員達がこちらを見ているであろう視線をひしひしと感じる。私がその視線から逃れるように歩き出すと、渡利さんもそれに続いて歩き出した。

「やっぱり恋人だもん、一緒に帰るところから始めるっていうのは鉄板だよね」

恋人ね」

「はいはい、偽の」

 私が付け足すように訂正すると、渡利さんはやれやれといった風に訂正した。本当に分かっているのだろうか?

 一階の下駄箱に向かい、靴を履き替えている最中にも彼女は一方的に話かけて来る。

「私が部活してるところ見えたでしょ?」

「まぁ、ちょっとだけ?」

「問題です! あれは何をしてるところだったでしょうか?」

「知らな……役決めとか?」

「ピンポン! 正解です!」

「捻りもないし……」

 上履きからスニーカーに履き替えて校門を出ると、日は沈んでいたものの、風は昼の気温を残しているように丁度涼しいくらいの冷たさを保っていた。私は普段から一人で歩くのが常なため、他人と喋りながら歩くことに慣れてしまっているのであろう彼女のやや遅い速度に歩幅を合わせることが少し窮屈に感じる。

 とはいえそれも、学校から私が乗るバス停までの短い道のりの間での話。それくらいなら別に私が帰るのが遅れて困るほどのことでもない。勿論早く一人でさっさと帰ってしまいたい気持ちはあるが。

「それでね、私今回の演目ではどうしても主役がやりたくて……次の役決めはオーディションで決めることになったから頑張らなくちゃ」

「え? 部長権限で自分を主役にとかしないの?」

「しないよ! 私ってそんな横暴に見える?」

「うん」

「ちょっとぉ!」

 私が頷いたのは半分冗談だが、半分は本気だった。この人ならやりかねないかもしれない。

 そんな風に他愛もないことを話しながら歩いていると、丁度件の公衆電話ボックスの近くまでやってきた。

「ここで電話をかけたんだよね?」

「そうだよ」

 私は少し足を止めて、公衆電話を調べることにした。

「どうしたの? ひょっとして公衆電話マニア?」

「調べてるんだよ!」

「冗談だって」

 そんな余計なやり取りを挟みつつまずは周囲から調べてみるが、これといって特に変なものは見当たらない。次に中に入って見てみると、やはり異常はなく、ただの公衆電話であるらしいと分かる。この電話自体におかしなことはなさそうだ。

 そうなると、問題なのはやはり渡利さんに憑いている悪い怪異……恐らくそれが悪魔なのだろうが、その悪魔が電話を介して悪さをしているということに間違いはないだろう。

 とにかく、これ以上この公衆電話からは得られる情報はない。私は大人しく電話ボックスの外に出る。

「どう? 何か分かりそう?」

「いや……何も……そういえばその噂は誰から聞いたの?」

「友達のエミちゃんからだよ。エミちゃんは部活の後輩から聞いて、その後輩はお兄さんの彼女から聞いて、そのお兄さんは……」

「分かった。もう大丈夫」

 今の話からすると、交友関係の連鎖を辿って噂の根源に辿り着くのは難しいだろう。何か詳しい話でも聞ければと思ったのだが……やはり今のところの対処法は噂として広まっている範囲での『人間の恋』により祓うということしかないらしい。

 私はあまりの前途多難さに、肩にズシンと重いものが乗り掛かっているような幻覚さえ覚える。

……いや、これは幻覚ではなくて実際に浮遊霊が肩にのしかかっているだけだった。私は手で霊を追い払う仕草をする。

「とにかく、これ以上はここを調べても無駄みたいだから、帰ろう」

「あ! じゃあ帰る前に、メッセージアプリの連絡先交換しよう?」

「入れてない」

「またそんな嘘吐いて」

「本当だよ! だってそんなの……必要性を感じないからね」

「今どきそんな人居るんだ……!?」

 正直に『友達が居ないから入れてなかった』とは言えなかった。そんな私のことを物珍しい光景でも見たかのような表情で持って渡利さんは見つめる。

 私がさっさと歩き出すと、慌てて彼女も横に付いてきた。

「じゃあ新しく入れようよ! これを期にさ、何かと便利かもしれないよ?」

「必要な――」

「いいから入れる!」

「えぇ……?」

 彼女の気迫に溢れた様子に押され、私は渋々自分のスマートフォンを鞄から取り出す。アプリを落とすところまでは自分でも慣れているためスムーズに出来たのだが、初めて使うメッセージアプリの設定に戸惑ってしまう。すると、渡利さんが「やってあげるよ」と言うので彼女に任せることにした。

「ここをこうやって……はい。あ、ちょっと待って」

 彼女はスマートフォンを少し遠くに向けたかと思うと、それからまもなくして『カシャ』とシャッター音が鳴る。

「これでよし。私の連絡先もばっちり入れておいたから」

 そう言って返されたスマートフォンを見てみると、『なみよ』と平仮名で書かれた連絡先と共に『よろしくね』というメッセージが送られている。しかも背景が何故か彼女の自撮り写真だった。

「何この背景?」

「すぐに仲良くなれそうで良いでしょ?」

「変えたいんだけど……」

「あっ! ほらバス来たよ!」

 その声に反応して後方を確認すると、ポツポツと光る車の群れの中に私が普段乗っている路線のバスがライトを灯しながら走って来るのが見える。私が慌ててバス停まで走り出すと、ちょうどバスは私がバス停に着くのと同時に停車した。

「それじゃあ、また明日ね」

 私がバスのステップを上っていると、渡利さんが入口から見送ってくれた。私は投げやりに手を振り返すと、バスのドアは閉まり、出発する。

 何か、誤魔化されたような気がする……

 釈然としない気持ちを抱えながらバスの一番前の席に座った。バスの中はガラガラで、私の他には数人の乗客しかいない。私は夜に灯っていく街灯の明かりを遠く見つめながら、スマートフォンを開いた。

すると、一人しか連絡先の表示されていないメッセージアプリのバッジが赤く光った。トーク画面の背景は依然、彼女のままだ。

 こんなもの、万が一他の人に見られでもしたらどう言い訳をすればいいのだろうと思いつつも、私は新たに送られたメッセージを確認する。

『明日のお昼休み一緒に食べよう!』

 いくらなんでもそこまでする必要は無いんじゃないか、そう思ったものの、もしそれを言ったとして彼女が大人しく引き下がるとは到底思えなかった。むしろ、今度は直接教室に来て何かを言われるかもしれない。

 そう思った私は従順に『はい』とだけメッセージを送信し、何か途方もない疲れを感じたため、体重をバスの窓辺に預けて眠りについた。


 翌日の昼休み。私達は普段めったに使われることのない特別教室――言うなれば空き教室に赴いていた。渡利さんは『別にどっちかの教室で良くない?』と言っていたが、私が人目に付くことを避けてここを選んだのだ。

「よく知ってるね、こんな場所」

「まぁ……」

 私は曖昧に頷いた。

 悲しいかな、一人ぼっちの人間というのは人気のない、過ごしやすそうな場所を探すことが無意識に習慣化されてしまっているものだ。だからこの教室も私のそういう過ごしやすそうレーダーに反応するに値する場所だったというわけだ。

もっとも、こういう空き教室は立ち入らないよう教師たちに言われている。そのため、今まで私自身が一人で利用することはなかったのだが。二人なら空き教室を利用するのも、赤信号を渡るのも怖くないという寸法だ。

 私が何処か適当な席に座って惣菜パンを取り出すと、渡利さんは机をくっつけて私の向かい側に座る。

「はい、これ!」

「え、何。お弁当箱が二つ……って、まさか」

「そのまさかです! 朝季ちゃんの分も作って来ました!」

「唐突すぎない?」

 机の上に出されたのは、何処で売っているんだと突っ込みたくなるようなハート柄の風呂敷に包まれた弁当箱と、普通のピンク色の風呂敷に包まれた弁当箱の二つ分だった。

 私は嬉しいというより申し訳ないとか、どうしようという気持ちのほうが先行したが、渡利さんはその気持ちを知ってか知らずか、ハート柄の方の風呂敷を解き、中に包まれていた弁当箱を開ける。

「まずはお近づきの印ということでね……胃袋から掴んでいければなと」

 本人の抜けたような態度とは裏腹に、目の前に出されたお弁当は彩りが抜群で、主食主菜副菜の三つがバランス良く入っている綺麗で完璧なお弁当だった。これは普段手料理をしない私でも相当気合が入った――考えられて作ったものであると容易に察することができる。見ただけで涎が出そうな、美味しそうな手料理だ。

「これ本当に食べていいの?」

「うん! そのために作って来たんだし」

「何だか申し訳ないなぁ……」

「遠慮しなくていいよ」

 渡利さんは箸でお弁当箱に入っていた卵焼きを半分に割ると、その片割れを私に差し出してくる。

「はい、あーん」

「いや……自分で食べられますけど……」

「恋人でしょ!」

「偽の恋人ね……って、むぐっ!?」

 私が油断して口を開けた一瞬の最中を狙い、渡利さんは無理やり卵焼きを突っ込んできた。私は唐突に口の中に広がった甘みを咀嚼して、そのまま嚥下する。

「……美味しいです」

「でしょ」

 誇らしげに胸を張る彼女から、ささっと箸を掠め盗る。

「あっ! ちょっと!」

 抗議の声を聞き流しながら私はお弁当を食べ始めた。思わず唸ってしまいそうになるほど、どの料理も美味しい。特に小さいハムスターみたいなハンバーグが一番美味しかった。肉料理は好きだ。

 暫くの間頬を膨らませていた渡利さんも、やがて食べさせるのは諦めたようで、自らの分のお弁当を食べ始める。それと同時に机の上に出したのは『恋人計画目標リスト』なるタイトルが付けられたチェック表だった。

「……うん! やっぱり一緒にお弁当を食べるのってすっごく恋人っぽい! もう相当な恋人ポイントが貯まるはずだよ!」

「恋人ってポイント制なの?」

「それは知りません」

 そう言いつつボールペンで新たに付けられたチェックマークの横には『お弁当を一緒に食べる』と書いてある。他にチェックの付いてあるものは『一緒に下校する』逆に付けられていないものは『名前で呼び合う』『デート』等。

 渡利さんはそのチェック表の『名前で呼び合う』の欄にペンを近づけると、私に聞いてきた。

「朝季ちゃんは私のこと名前で呼んでくれないの?」

「え……いや、まだ知り合ったばかりだし」

「ちゅーもした仲じゃない」

「私はあれをキスとは認めてないからね。断じて」

 思い出しても照れとか恥ずかしさよりも恐怖が浮かび上がる思い出だ。キスというより恫喝されたに近しい。

 私は思い出し恐怖に両腕をさすりつつ、考えてみる。

 そうして思考を巡らせてみたところ、今までの人生の中で人を名前で呼んだことは一度もないことに気がついた。姉だと思っていた霊ならあると思うけれど。生きている人間を名前で呼んだことはない。そして、その経験の無さが故に名前呼びというものに対するハードルは、私の中でまるでエベレストの如く高く立ちはだかっている。

「まぁ、追々ということで……」

「えー、意気地がないなぁ」

「いや意気地がないとかじゃなくてね? 大体名前で呼ぶとか名字で呼ぶとかそんな些細なことに脳のリソースを使うというのがどうかと思うんだよね、私だって色々と考えることがないわけでもないし、それにこういう――」

「はいはい」

 渡利さんは明らかに私の言うことを聞き流しながら、次のチェックリストに検討を付けている。全くこういうときだけは可愛げがないと言うか、変わり身の早い人だ。

 それから私が大人しくお弁当を食べ終わると、渡利さんは両手を合わせ、私に向かって笑顔で次のプランを言い放つ。

「次はデートだね」

「デートぉ……?」

「すごく嫌そう」

「だってデートって休日返上するんでしょ? 流石に休日までは……残業代でも出なきゃやってられないよ」

「残業代なら今渡したでしょ?」

「え?」

 そう言って渡利さんは笑顔で、私の目の前にある今しがた食べ終わったばかりの弁当箱を指差す。

 その時私はやっと気がついた。

 これは罠だ。

 お弁当という恩を予め売ることで、私にノーと言えなくさせるための策略だったのだ。

「だっ、騙したの!?」

「いやいや、騙してはないよ……ただ、無料より安いものはないってだけでね」

「ハメられた! 鬼だ! 卑怯者!」

「まぁまぁ、これからも作ってきてあげるからさ。じゃあデートの予定を決めようね」

 渡利さんは私の言うことを意にも介さずに、スマートフォンのカレンダーで予定を決めていく。「どうせ朝季ちゃんは暇でしょ?」というお言葉まで貰い、あれよあれよという間に週末にデートすることが決定されてしまった。

 私だって休日は忙しいのだ。主に睡眠や午睡や惰眠を貪る等しているから。それなのに渡利さんはこちらの予定も意に介さずズケズケと入り込んでくる。その無邪気さはかくれんぼ中に冷蔵庫と壁の間に入り込む子どものようであり、私にとっては一つの貝に二匹目のヤドカリが侵入してくるように迷惑だ。

「うわああ……私の休日が、ぐっすりタイムが……」

 私は大げさに頭を抱え、相手の良心に訴えかけようとするが、渡利さんは全く気にしていないようだった。

「はいそれじゃあ前半は私の行きたい場所、後半は朝季ちゃんの行きたい場所でデートしようね」

「じゃあ家で寝――」

「お、お家デートは流石にまだ早すぎるよ……」

「そういうことじゃない!」

 さっと顔を赤らめてモジモジと恥ずかしそうにしている彼女に対し、私はひっくり返りそうになる。私にそういう気がないことは重々承知の上でわざと言っているのだろう。家デートというか、私が帰宅することは阻止したいらしい。

 みるみる内に私の平和が渡利さんによって侵食されていく……!

 私はどうか今週の休日に超大型台風が来て中止になりますようにと思いながら、弁当箱を鞄にしまった。


 面白いことに、多くの人がマラソン大会の前日に執拗なほどてるてる坊主を逆さに吊るしていようとも、滅多に雨は降るものではない。逆に前日の天気予報が雨を示していようと、当日はまるで神様が人差し指で雲を割ったように奇跡的な晴れ模様が広がってしまう。つまり何が言いたいかというと、願いと結果は比例せず、願わざる奇跡ばかりが容易く起こりうるのがこの世界のシステムであるということだ。

 そして案の定、私と渡利さんのデート当日も嫌味かと言うほどの快晴だった。その上私は何故か約束の時間の二十分前には待ち合わせ場所に着いていた。他人との待ち合わせに遅刻したらどうしようと心配でこんな早くに着いてしまったのだ。

 一応私の手の内には仮病、身内の不幸の他に普通に行きたくないからドタキャンという三つのカードもあったのだが、仮病はお見舞いという体で家に来られる可能性があるし、身内の不幸はその場凌ぎであるだけだ。

 残るドタキャンも採用しないのは、渡利さんにどのような怒られ方をするか分からないからだ。悪魔が乗り移った時みたいにマジモンの恫喝をされてはたまったものじゃない。それに、もっとたまったものじゃないのは泣かれてしまうことだ。『そんなに行きたくなかったんだね……ごめんね』と言いながら泣いている彼女の姿を想像すると、背中に冷たい氷柱を突き立てられたかのようにゾッとする。これは相手が彼女に限らず、誰であってもそうだと思う。傷つけられることを厭う私は、誰かを傷つけることを最も嫌う。それはきっと、道徳心などからではなく、ただ単に臆病なだけなのだろう。

「えっ!? 早いね!?」

 そう驚いているような声が、待ち合わせ場所にした駅前の白い粘土に穴が空いたみたいな変なオブジェクト越しに聞こえる。腕時計を見ると、まだ待ち合わせ時間までには十分もあった。

「そっちこそ早――」

 と、振り返った瞬間、驚いたのはこちらの方だった。

 この感覚を言語化するのは難しい。実に単純に言うなれば、私服の渡利さんが可愛かったということになる。しかし彼女が着ているのは白いニットに少しレースがかった灰色のロングスカートと至って普通の、女の子らしいコーデだ。これと言って特別なものは何も身につけていない。

しかし。三週間近く一緒に登校し、制服姿の彼女を見慣れていた私からすればそれは十分に非日常的な姿であることに間違いはなかった。それにその服装が彼女の魅力を静かながらも際立たせているように思える。そして大げさに、けれども直感的に言っていいならば、彼女の周囲の空間にだけ彼女を中心とした光の輪が差しているようにさえ思えた。

 太陽ほど派手派手しいものではない。しかし月の女神だと言ってもいいほど私から見える彼女は完成に近づいていた。

「…………」

「え? 何? そんなジロジロ見て……」

「いや、その、何……可愛い、ね?」

「え……?」

「服がね!? 服が可愛いって意味で!」

「ふーん……」

 渡利さんは何やら腕を組んで考え込むと、手持ちのバッグからペンとチェック表を取り出して、新たに記入した。

「……うん。ありがとう、そういう朝季ちゃんは近所のコンビニに行くみたいで良いね」

「えぇっ!? これでも一番新しいの着てきたのに! っていうか何故シームレスにそんな罵倒を……!?」

「さて、じゃあ行こっか」

「無視しないで……!」

 目の前をスタスタと歩いていく彼女に対して私は置いていかれないよう横に並ぶ。幸いにも周囲の人は皆思い思いの休日を過ごすのに励んでいるらしく、私服姿の渡利さんに視線が集まるような、そんなモテエピソードにありそうなことは起きなかった。それでも、こんな可愛い人の隣に、よりにもよって私が並んでいていいのだろうかと思った。やはりもっと相応しい人がいるのではないか。

 私は首を振る。今更そんな卑屈なことを考えていても仕方がない。その代わりに少しでも彼女の邪魔にならないよう、私自身も余計な浮遊霊と目を合わせて絡まれないように注意しなければ。

「ところで、何処行くの?」

 私がそう聞くと、渡利さんは会話しながらでも喋りやすいように歩く速度を緩めた。

「ショッピングにね」

「何か欲しいものが?」

「ないけどー……ウィンドウショッピングだよ」

「あー、冷やかしね」

「馬鹿にしてる?」

「いや、格好悪く言えばそうじゃん!」

「違いますー、ウィンドウショッピングっていうのは未来の顧客に繋がるの! 今は買わないけど、いつか買うかもしれないでしょ?」

「さいですか……」

 私はそんな詭弁じみた返答に適当に頷いておく。私からすれば店に長く留まるということがないし、何なら今どきはインターネットで全て事足りてしまうだろうという私の考えとは真逆の考え方だった。しかしそれが渡利さんの選んだことなら私が断る道はない。私は大人しく彼女に付き合うことにした。

 彼女が巡るのは大抵が服屋だった。服屋というのは色々種類があるらしい。大抵は英語の筆記体で看板が書かれていて違いが分からないが、とにかく違うようだ。

渡利さんはそれらを飛ばし飛ばし見ていっては、「これどう?」「朝季ちゃんこれ着てみたら?」とか聞いて来るが、私自身そんなに興味は湧かなかった。けれどもオカルトグッズと同じで、同じようにみえてもそれぞれなんとなく効果やパワーが違っているというのは詳しくない私にも何となく分かった。渡利さんが服を首の前に持って来るたびに、彼女の纏う雰囲気が一着一着ずつ異なっていく。それを見ているのは少し面白いのかもしれない。

 それから歩き疲れたため、そこいらの喫茶店で少し昼食がてら休憩すると、まだ前半の時間が余っているので、「次は雑貨屋に行こう」と渡利さんが言う。

「あぁ、雑貨屋ならよく行くよ」

「えっ、朝季ちゃんが!? 意外すぎる……」

「まぁ……そうか……」

 口元に両手を当ててオーバーリアクションをする渡利さんに私が反論出来る余地はなかった。確かに私は積極的に外に出るようなことはないし、意外と言われても差し支えないだろう。

「本物のオカルトグッズや呪物的な物は意外と雑貨屋とかの隅に売っているものでね……通販で手に入らないものとかは現地に行って買うようにしてるよ」

「全然意外じゃなかった……っていうか、今から行く場所はそういう雑貨屋じゃないと思うけど……」

「そうなの?」

「多分。私も初めて行くから詳しくは知らないけど」

 そう言いつつスマートフォンのマップアプリを操作する渡利さんに付いていく。

「ここみたい」

 渡利さんが見上げた先にあったのは、間接照明の柔らかい光が照らしている、まるで絵本に出てきそうな小綺麗な建物だった。

 木製の扉を開けた先には、私が見たことのない景色が広がっていた。

「うわーっ! ま、眩しい……! 私が普段行く、蜘蛛の巣が掛かっている薄暗い感じの雑貨屋とは全然違う……!」

 そこは恐らく北欧辺りのインテリアを中心として、その上にヨーロッパ風の食器やガラスの花瓶などが並べられたおしゃれ空間だった。店主の人がこだわって集めた品々なのだろう。私のようなものには一切無縁であり、ともすればその光でもってこちらのほうが消えてしまいそうな清潔さと神々しさを醸し出している。

「成仏しそう……」

「しないでね」

 などとしょうもないやり取りを挟みつつ、店内を見て回る。そこら辺に並べられた雑貨に鞄や服の裾を引っ掛けたりしないだろうかとヒヤヒヤさせられた。もし今ここで渡利さんに悪魔が憑依したら莫大な借金を背負うことになるかもしれない、とも。

 そうならないことを願いつつ値札を見てみると、どれも学生では買えなくもないが少し値を張るものが殆どといったところだった。中には陶器で出来たブサカワな猫の置物があり、若干興味をそそられたが、持ち帰るのも大変そうなので諦める。

 店員さんは売り場の奥に引っ込んで居るようで、会計をする棚の上には『御用の際はこちらでお呼びください』というメッセージカードが添えられたベルがある。無闇に店員さんの目を気にしなくていいのはありがたかった。

「あ、これとかいいかも」

 数分間店内を回った後、渡利さんが手に取ったのは小さなレザーのキーホルダーだった。レザーとだけあって値段は程々に高いが、価値相応だと思える。その中でも形が何種類かあるので、彼女は迷っていたようだが、最終的に太陽の形をしたものと、月と星が並んだ形をしたものの二つにまで絞ったらしい。

「お日様とお月様、朝季ちゃんはどっちが良いと思う?」

「別に好きな方でいいんじゃ……」

 そう、口に仕掛けてから彼女の方を見た。太陽と月。何となくだが、私は渡利さんには太陽よりも月のほうが似合っているのではないかと、その時ふと思った。

「……月のほうがいいかも」

「そう? ……じゃあ月にしようっと」

 渡利さんは両手に持つ太陽と月を見比べた後に、太陽の方を棚に戻した。私の一言で彼女の買うものが決まってしまい、何だか妙にそわそわした気分になる。私が決めてしまって良かったのだろうか。

 そして、会計に向かおうと歩き出した私の袖がくいっと引っ張られた。

「はい、じゃあこっちは朝季ちゃんね」

「……え? 私も買うの?」

「そりゃあ勿論。お揃いの物の一つくらいないと恋人とは言えないよ」

 そう言われて渡されたのは兎のレザーキーホルダーだった。何故か兎の目が右斜め上を向いていて、微妙に腹立たしい顔をしている。

「……何で兎? 月の対って、太陽じゃないの?」

「太陽と月は離れてるでしょ? でも兎は月と一緒にいるから。それにこの兎、何だか朝季ちゃんに似てるし……」

「いや、全然似てないけど」

「…………」

 渡利さんは曖昧な笑みを浮かべたあと、会計の方まで行ってベルを鳴らした。奥からはやはりこのような雑貨店に似合っているというか、馴染んでいるような茶髪の柔和そうな女性が現れる。

「いらっしゃいませ~、お会計ですね?」

「はい、お願いします」

 会計が終わり店の外に出る。渡利さんは買ったばかりのキーホルダーを鞄から取り出して見つめた。

「どこに付けようかなー、やっぱりすぐに目に付く学校の鞄とかが良いよね?」

「私に聞かれても……っていうか、そんなに気に入ったの? そのキーホルダー」

「そりゃあ勿論。恋人と買ったものなんだよ、特別でしょ?」

「買ったばっかの物にそんな大げさな……」

 渡利さんは笑顔で私の顔を覗き込む。

「二人なら特別になるから」

 渡利さんと目が合う。その歯の浮くような言葉が何だか妙に私の心に入り込んだ。二人、という言葉に今まで縁がなかったからなのかもしれない。渡利さんは演劇部員だから、日常的な言葉遣いにも、少し芝居がかっているのかも。私は彼女から目を背ける。

 時刻を確認すると、丁度前半と後半のパートが変わる時間を示していた。ここまでが渡利さんの立てたプランであり、ここから先は私が決めたデートコースになるということだ。

「はいっ、じゃあ次は朝季ちゃんの番だね。私を楽しませることが出来るかな?」

「何でそんな自慢げなの……まぁそれは着いてからのお楽しみということで」

「えー、全然予想できないなー。ちょっとワクワクしてきたかも」

「…………」

 とはいえ、そんなに浮足立っていられても困るのだが。今から行く場所はテーマパークでもアミューズメント施設でも何でもないのだから。

 しかしその行く場所を素直に言ったところで渡利さんが乗り気になるかというのは私には分からない。それどころか一人で帰ってしまうことさえあり得る。それならば行き先を言わず、連れて行ってしまった方が良いだろう。

 私はスマートフォンで再度時刻を確認しつつ、最寄りのバス停へと向かった。


「えー、あー……『私はアンドロメダ銀河より来る訪問者、大いなる出自の私と貴方とでは到底釣り合わないのです』……」

「何それ?」

「今度の部内オーディションの台詞だよ」

「練習してるんだ、えらいね」

「どうしても主役になりたいから……はい、朝季ちゃんこっち読んで」

「私も手伝うの!?」

 渡利さんは「当然でしょ?」みたいな顔でこちらを見ている。私は演劇なんて台詞付きの役で出たことすらないのに。

 そうやって一番後方の席で声を落としながら台詞読みをしていると、やがてバスは終点で停まった。一時間近く走らせて着いたのは、民家と畑しかないような閑散とした場所だった。よくよく観察してみると、緑の中に白く工場らしきものがあるが、他には電波塔が点々と立っているだけで、あとはやはり民家と畑しかない。

「本当にここで降りる場所合ってる……?」

 渡利さんが不安そうに聞いてきた。事前にマップアプリで下調べをして尚、私もいささか不安だった。しかし住所は間違いない。私の目的とする場所はこの近辺にある。

「……合ってるよ。私に着いてきて」

 そうして更に歩くこと数十分。ただひたすらに殺風景な道の先にあったのは、なんというか、そう、とても奥ゆかしい古風な民家だった。木でできた外装は何処もかしこも破損しており、最早ただの木の棒と呼べるものが、壁っぽい木片に立てかけてある部分さえある。誰かが住んでいるようにはとてもじゃないが見えない。それほどに年季が入った……つまり、好意的に捉えれば相応の価値がありそうな家とも言える。

「……昔話に出てきそうな家だね?」

 渡利さんはこの家を形容するのに最も気を使った表現を用いた。そう、ファンタジックに表現するならば、昔話のおじいさんおばあさんの家を何世代か風化させたような家と言うことも出来る。言葉の可能性は無限大なのだ。

 私はその壁っぽい木片のうちの大きな隙間が空いている部分に向かって声をかけた。恐らくここが入口なのだろう。

「す、すみませーん……」

「はい?」

「うわああああッッ!?」

 すぐ近くから老婆の声が聞こえ、私はその場に尻もちをついた。ちょうど日陰になっていた部分から現れたその老婆は、この建物のイメージに反して上等そうな着物を身にまとっている。

「そんな大きい声出してなしたのさ……」

 老婆はつい大きな声を出してびっくりしてしまった私の方を見て怪訝な表情を浮かべている。私は慌てて立ち上がり、砂埃を払うとその老婆に向かって話しかけた。

「えっと、私達! 高名な霊媒師である美代子さんにお祓いを頼みたく思ってここまでやって来たんです!」

「えっ」

 後ろに居る渡利さんが困惑の声を上げたのが聞こえた。私はそれを聞こえなかったフリをしながらも、美代子さんに向かって出来る限りの笑顔を向ける。美代子さんは未だ険しい顔を崩そうとはしない。

「私もね、肝試しとかボランティアでやってるわけじゃないからね。本当に霊を払って欲しいなら相応の態度があるんでないかい?」

「あぁ、お気持ちならこちらに……」

「ちょ、ちょっと待って」

 美代子さんに予め用意してきた封筒を渡した所で、私の着ている服の襟首が引っ張られ後退させられた。薄暗かった家屋の中から、陽の下へと引っ張り出される。

「何今のやつ!? 何円渡したの!?」

「あはは……まぁ悪魔を祓えるならね、安いくらいだから」

「本気で言ってる!?」

「それは勿論! 渡利さんは美代子さんを知らないから不安に思ってるだろうけどね、大丈夫だから! あの有名な十字路のサタメットを祓った人なんだよ? そんなすごい人に見て貰えるなんてチャンス、絶対逃しちゃ駄目だよ!」

「…………」

 私が捲し立てると、渡利さんは今まで見たことのないような冷たい目でこちらを見てきた。それはとても寒い。上着をもう一枚着てくれば良かったと思うほどだった。

 そうしている間に、再び襟首が引っ張られたかと思うと、今度は日陰の家屋内に戻ってきた。しかし美代子さんは先ほどとは打って変わってニコニコとした表情を浮かべている。

「なぁんだ。お客さんならそうと早く言ったら良かったのに。さ、中に入んなさい」

「ほら入ろ、渡利さん」

「…………私、知らないからね」

 それだけ言うと、渡利さんも観念したように家屋の中へ入った。ちなみに悪魔が憑いている人には往々にして神聖な場所を無意識の内に避けたがるという傾向を示すらしい。渡利さんはその傾向に当てはまっている。それに、今見える範囲で家の中を見渡してみても、普通なら一体や二体居るはずの幽霊の影すら見当たらない。やはりここは神聖な場所であり、美代子さんは本物の霊媒師なのだろう。私は安心して美代子さんに悪魔のことを話した。

「……と、言うわけなんです」

「あぁ~……そりゃあねぇ、憑いてるわ。間違いないね」

「……話を聞いただけで分かるんですか?」

「まぁ分かるよ。今までの経験則でね、分かる」

 美代子さんは自信満々に言った。これだけ自信があるのなら心強い。渡利さんは白い目で美代子さんのことを見ている。決して美代子さんの前で粗相をしないようにという念を込めた肘で彼女をこっそり小突くと、その五倍くらいの力で小突き返された。痛い。

「それじゃあね、そっちの……わた……わたぬき……」

「渡利です」

「渡利ね。この行衣に着替えてきなさい」

「はい……」

 渡利さんは美代子さんから白い行衣を渡されると、目に見えて嫌々な様子で奥の部屋に行こうと障子に手をかけた。

「開けるでないッ!」

「えっ?」

 美代子さんが突然大声を出し、ギシギシと抜けそうな床の上を走って、渡利さんが開きかけた奥の部屋への障子を急いで閉じる。

「あ、いやね。こっちは片づいてなくてね。着替えは右の部屋でお願いね」

「は、はい……すみませんでした」

 一瞬鬼のような形相になった美代子さんの様子にさしもの渡利さんも驚いたようで、奥の部屋には触れず、すぐさま右の部屋へと着替えに行った。かくいう私も先程の大声には未だに心臓がバクバクしている。よっぽど見られたくないものでもあるのだろうか? まあ居住スペースなどが奥の部屋にあるのかもしれないと、私はあまり深く考えず、渡利さんを待つことにした。

 数分後。行衣に着替えてきた渡利さんが右の部屋から出て来た。同時に美代子さんの方も準備が終わったらしく、いつの間にか周囲にはいくつかの蝋燭が並べられており、空気中に甘ったるいお香の匂いが漂っている。部屋の中は全ての扉と窓が閉じられ、光源はゆらゆらと怪しく揺れる蝋燭の火だけになってしまった。

 渡利さんは部屋の中央に正座させられると、目を閉じるように言われた。私は儀式の邪魔にならないよう部屋の端に移動する。

「今より用いるは霊山より賜りし聖水。古来より聖水とされてきたこの水は悪霊をも退け得る」

 そうして美代子さんは小瓶の蓋を開けたかと思うと、その中身を渡利さんの頭からかけ始めた。

「えっ」

「静かに!」

 私がつい驚いて声を上げてしまったのを、美代子さんに制される。儀式の内容は神術の根幹に関わるため秘密とされていたが、まさかいきなり水を頭から被せられるとは思っていなかったのだ。渡利さんも流石にこれには声を上げるかと思っていたが、彼女は黙って目を瞑ったまま姿勢を崩さない。私は儀式の後で渡利さんにこっ酷く怒られるのではないかとヒヤヒヤした。

 そして美代子さんはそのまま大幣を手に取ると、それで渡利さんのことを叩き始めた。

「~~~~~~~~、~~~~」

 異国の言葉と日本語が入り混じったような、よく聞き取れない発音で呪文が唱えられる。すると、視界の端から一体、また一体と幽霊が現れ始めた。

「~~~~~~、~~~~~~~~!」

 美代子さんの唱える呪文の語気が強くなるにつれて、大幣が叩く強さも増していき、霊も続々と集まってくる。そうして私は思った。

 これ……間違っているんじゃないか……?

 いや、決して美代子さんを疑いたいわけじゃない。聖水を用いる等も悪魔祓いの手段としてはメジャーなものだとされている。それに決して小さくない金額を払った手前、後戻りできないという気持ちもあった。

 しかし、霊の見える私からすればこの状況は悪化しているようにしか見えない……!

 乗り気でなかった渡利さんがこの状況のおかしさにしびれを切らすかと思ったが、彼女は依然として静かに、まるで役目を終えた人形のようにただただ座って目を瞑っている。

 その時、ドンドンッと奥の部屋からこちら側に向かって大きく障子が叩かれるような音が聞こえてきた。

「ひっ!?」

「~~~~! ~~~~~~~~……」

 その音に動じもせず、美代子さんの呪文は続けられる。聞こえていないのだろうか。

 しかし、やがてその障子が叩く音が美代子さんの声をかき消すほどになったとき、私は我慢出来ずに少しだけ障子を覗いてしまった。

 眼。

 這い出てくる手。足。

 障子の奥には部屋に入り切らないほど、おびただしい数の霊達が押し込められていた。

「ダシテ……クレェ……」

「うわああああああぁぁぁ!?」

 私は足首を掴んできた幽霊の手を振り払い、右の部屋から渡利さんの服を持ってきた後に、正座している彼女の腕を掴んで走り出した。

「ちょっと!?」

 渡利さんが戸惑いの声を上げるがもう関係なかった。私達はそのままの勢いで外へ飛び出すと、大慌てで最初に来た道を戻っていく。そして二人の息が切れるくらい走った後で、辺りを見渡すと、二、三体浮遊霊がいるだけで、あのおびただしい数の霊たちは追ってきてはいなかった。

「はぁ……はぁ……ごめん、渡利さん……」

「もう、だから私知らないからねって言ったでしょ!」

「はい……すみませんでした……」

 私は息を整えながらも、水で濡れた彼女の髪や顔をハンカチで拭いていく。濡れた行衣のまま飛び出してきてしまったため、寒くならないよう自分の上着を脱いで渡利さんにかけたところで彼女は言った。

「それで? 奥の部屋に何があったの?」

「え……っと……」

 私はそこで言葉に詰まってしまった。幽霊を見ました、なんて言えない。美代子さんのことだって信じていなかった渡利さんにそう言ったら、本当に馬鹿にしていると思われて怒られてしまうかもしれない。でも、かといって何を言えば良いだろう。事件性がなくて、本当っぽくて、私が逃げ出すに相応しい理由になるもの――そんなの幽霊以外あるだろうか?

「い、言えない……」

「……それって、幽霊?」

「え――」

 思いもよらない言葉に私は硬直した。

「だって私も朝季ちゃんが叫んだとき、ちょっとだけ奥の部屋が見えちゃったけどさ、何もなかったよ?」

「えと、えっと……」

「それに、朝季ちゃんて偶に変な方向見てるときがあるし……君は本当に見えてるんだ」

 じっと見つめるような視線を感じ、私は目を伏せた。

 冷や汗が止まらない。何て言われるだろう。気持ち悪い? 不気味? 頭がおかしい?

 私は今までに言われた言葉達を頭の中で反芻した。嫌だった。そんなことを言われるのは。

 怖い、顔を上げるのが。彼女の目を見るのが――きっと、幻滅される。

『この子はおかしいみたい』

 いつか言われた刃物を思い出して、急速に心臓が冷たくなった。

「じゃあ私と大して変わらないね」

 私は目を丸くした。思わず顔を上げる。彼女の表情は呆れているようで、困っているようで――でも、決して冷たいものではなかった。

「え?」

「だってそうでしょ? 私だって演劇する時は架空の人になるんだから。そんなの存在してない人になるのと同じ。私は存在してない人になるけれど、朝季ちゃんは存在していないはずのものが見えるんだから、私達って、やっぱり相性良いのかもね」

 ヘラヘラっとした笑みを浮かべながら彼女はそう言った。私はぽかんとしてしまう。そんなことを言える人がいるのか、この世界には。そんな温かい言葉を、平然と。私なんかに向かって言える人が。

 そんなことは、私にとって初めてのことだった。

「さぁ、早く帰ろうよ。もうすぐバスなくなっちゃうよ? ここバス一時間に一本くらいしか来ないっぽいし……」

「あ、うん……」

 あまりにも大きく動いてしまった感情を悟られないようにしつつ、平然としたフリをしながら私は渡利さんに答えた。まだ、この感情をどう咀嚼して良いのか分からなかった。それに、それを素直に表に出すことは恥ずかしいことだとも思ったから。

「濡れたままだと不味いよね……途中で着替えないと」

 私は渡利さんの姿を見ながら言う。今は夏と秋の中間頃だったが、日が沈めば肌寒くなる季節ではある。

「ううん、大丈夫だよ。へーき」

「でも、そのまま帰ったら親御さんが心配しちゃうでしょ?」

 心配する私を余所に、渡利さんは言った。

「うち、そういうのないから!」

     *

 あれから私は渡利さんを見る目がちょっとだけ、ほんのちょっとだけ変わった。別に横暴な人だというイメージの根底までは覆らなかったけど。ちょっぴり優しい人だという認識に改めることにした。だからといって、別に、大きな何かがあるわけではない。あるわけではないと、心に言い聞かせている。

 ……心に言い聞かせているって、何だ?

 まぁいい。どちらにせよ、あまり深く考えてはいけないことであるのは分かっている。そういうことは当然ながら意識の隅に追いやっておいたほうが良い。少なくとも私は今までの人生の中でずっとそうしてきたのだから。

 放課後の校舎。私はいつも通り物陰に隠れつつ、渡利さんが演劇部からやってくるのを待った。

「あっ、渡利さん」

「お待たせ」

「別にそんな待ってないよ」

「じゃあ行こっか」

 渡利さんの姿を見つけ、声をかける。そして普通に会話をしながら帰る……のだが、私はそのとき些細な違和を感じた。それは本当に些細なものだった。普段細かいことを気にしないで生きている人ならば気づかないだろうというほどの小ささ。しかし私は生憎と、最近細かいことを気にしなかったがために失敗をしたばかりの人間だ。そして人間は反省する生き物だった。私はその違和がなんだったのか、深く考えてみることにした。

 そうして考えて、思い出す。いつもは渡利さんから駆け寄って話しかけて来るのに、今日は自分からだったことに気がついた。

 それは先程の自分の渡利さんに対する印象の変化が要因であることも考えられたが、そうではないと思う。私のタイミング重要なのではなく、今日は渡利さんが駆け寄って来ず普通に歩いてきたことが要因なのではないかと考えられた。

 と、ここまで考えたものの、それくらい気分の上げ下げによって変わることもあるだろう。また、私達の関係に慣れてくれば、毎度毎度駆け寄って来ることもなくなるだろうとは思う。だがしかし、その些細なことを気にしている私が居るのなら、聞いてみても良いのではないだろうかとも思った。

「それでねー……」

「……渡利さんさ、何か今日……あった?」

「あったって?」

 渡利さんは笑顔で言う。

 その笑顔にゾッとする。

 触れないで。

 言葉の裏でそういう声が聞こえたから。

「いや、何でもない……」

 私から逃げの言葉が口を衝いて出た。しかし、そうじゃないとすぐに感じた。長年の癖で逃げる選択をしてしまったが、私が今すべきはここで踏み込むこと。そして必要なのは踏み込むための勇気なのだと思った。

 渡利さんは荒唐無稽な私のことに踏み込んできてくれた。ならば、私も踏み込むべきなのではないかとそう思う。

 だが、一度出た言葉は元には戻らない。覆水盆に返らず。

 何かきっかけがないか? 何か、何でも良いから――

 そうして下駄箱に着いたとき、ポツポツと雨粒が降り注ぎ、それは瞬くに豪雨となった。

 これだ、と私は思った。

「かっ、傘!」

「え?」

「持って来るの……忘れた」

 それは咄嗟の方便だった。私は常に折りたたみ傘を最低一本は鞄に忍ばせている。つまり晴れだろうが突然の雨だろうが、持って来るのを忘れるはずはない。しかし、引き止めなきゃという思いが先行し、思わず嘘を吐いたのだ。

「じゃあ私の傘貸すよ?」

「え」

「はい、これ」

 そう言って渡利さんが取り出したのは折りたたみ傘だった。

「これ貸すから、先帰ってていいよ?」

 そこで私は確信した。やはり今日の渡利さんはおかしい。いや、いつもおかしいが。いつものおかしさとは違うベクトルでおかしい。

 いつもの渡利さんならば「じゃあ相合い傘ね、恋人って感じがするし」とかしょうもないことを言い出すはずだ。今の渡利さんは私を先に帰らせたいのだろう。

「渡利さんは?」

「私は止むまで学校に居るよ」

「そんなんじゃ、いつ帰れるか分からないでしょ」

「あ、そうだ。私置き傘あるんだった――」

「何でそんな嘘を吐くの?」

 そのとき初めて渡利さんはムッとした表情をした。

「別に良いでしょ、朝季ちゃんは。私が傘を貸すって言ってるんだから。濡れて帰らずに済むでしょう?」

 まるで渡利さん自身のことは眼中にないような言い方に、私もついムキになって反論してしまう。

「良くないよ。渡利さんはどうするの?」

「朝季ちゃんにとっては、どうでもいいでしょ」

「どうでもよくない!」

 大きな声を出してしまった私を、驚いた顔で渡利さんが見つめる。誰も居ないホールに私の声が反響して消えていった。私は一度深呼吸して、襟元を正した。

「渡利さんが雨が止むのを待つなら、私も待ってるよ」

「……別にいいよ。相合い傘で帰ろう。いつも早く帰りたいって言ってるのは朝季ちゃんでしょ」

 その通りだ。いつもは早く帰りたい。でも今は帰りたくない。渡利さんから何かを聞き出すまでは帰れない。

 二人で玄関先に出ると、渡利さんが小さな傘を開き、私がその傘を持った。そうして歩き出す。

 二人とも無言だった。私はどう話を切り出すべきか迷っていたし、渡利さんは気まずく思っているのかもしれなかった。傘に雨粒が跳ねる音と、渡利さんが鼻を啜る音だけが聞こえてくる。

「風邪?」

「……あのさ、やっぱり私コンビニで傘買って帰るから。先帰ってて」

「え、嫌だよ」

「何で」

「ちょっと、いい加減に――」

 そう声を荒げようとして渡利さんの顔を見た途端――私は思わず口を閉ざした。

 渡利さんの両目からポロポロと、雨粒にも似た水滴が零れ落ちていることに気づいたからだ。

「え、ごめん、いや、そんなに怒ってるわけじゃなくて、えーと……」

「違うの、ごめんなさい……君の、せいじゃなくて……」

 渡利さんは言葉に詰まりながらそう話す。私はどうしようどうしようと慌ててしまい、取り敢えず座れる場所があったほうが良いのではないかと辺りを見回した。すると、視界に私が何時も乗るバス停の、屋根付きの停留所があるのが見え、そこに誘導した。

 屋根付きの停留所と言っても街の中心部にあるような綺麗で立派なものではなく、トタン屋根で何処か寂れている。しかし、座るところの付いたそれは今休むのにはうってつけと言えるような場所だった。

 私は一旦傘を閉じ、椅子に立てかけると、渡利さんの隣に座る。

「…………」

「…………」

 再び沈黙が降りる。困った。私は人間関係に疎く、人生経験に乏しい。泣いている人に対してどう接して良いのかさっぱり分からない。        だが今、彼女の傍を離れるわけにはいかない。

 私は取り敢えずポケットからハンカチを取り出し、渡利さんに渡すと、彼女はそのハンカチを受け取って涙を拭った。

「私、急に泣き出したりして変だよね。おかしいよね。すぐ泣き止むから……」

 そう言って私に気を遣っている渡利さんの様子に、私は胸が締め付けられるような痛みを感じた。

 違う。言って欲しいのはそんな言葉ではないのに。

「渡利さんなんていつも変なんだから……気にしないけど……」

「……そう?」

「うん……」

「……」

「……」

 またも沈黙が流れる。この沈黙が何を意味しているのかは分からない。気に障ることを言ったかもしれない。いや、普通の人だったら百パーセント気に障るだろうことを言った自覚はある。じゃあ何て言えばよかったんだ? 分からない。もう助けてくれ――

 そう思考を巡らせていると、渡利さんが静かに口を開いた。

「私には華がないんだって」

「え?」

「演劇の、オーディションの話」

 そういえば私の記憶が正しければ前に渡利さんは、今回の演目ではどうしても主役をやりたい、と言っていた筈だ。その口ぶりから察するに、オーディションには落ちてしまったのだろう。私が見た限りでは、休みの間や隙間時間にも彼女は練習に励んでいたし、彼女の努力が足りなかったとかそんな単純な話ではないのであろうことが素人の私にも何となく分かった。

「私は自ら輝くことは出来ない、ちっぽけな人。熱いスポットライトを浴びなければ、誰にも見てもらえないの」

 そう言って渡利さんは鞄に付いた革製の月のストラップを握りしめた。それは先日の買い物で彼女が私に太陽か月かを尋ねて買ったものだ。

 華がない。それは私が彼女に抱いた第一印象の中にも含まれていることではあった。彼女は特別目立つタイプではない。周囲を引き付ける引力のようなものがない。私は彼女のことを月だと思った。それは決して軽んじているのではなく、彼女は月光のように静かに寄り添える優しさのある人だということを、今の私なら分かっている。

 今私が思ったことを彼女に伝えれば、それで彼女は納得してくれるのだろうか。自分の欲しいものをなかったことにして生きていけるのだろうか。自分が憧れた景色を届かなかったと諦められるのだろうか。

 そんなことはないのだろう、と思った。

 彼女は横暴で、狡猾で、希望を捉えていた。

 何よりも身を引くということを知らなかった。

 ああ、私がもし霊能者ではなく魔法使いだったのならば、いとも簡単に彼女のことを元気づけられるのに。見え透いた魔法の言葉であなたを勇気付けられたのに。

 そう思っても、足りない。まともな人間関係を送ってこなかった私には彼女を立ち直らせることなど出来はしない。いや、もしそうでなかったとしても、渡利さんに本当に突き刺さるような言葉を届けることは出来ないのかもしれない。全てはたらればであり、自分の無力だけがそこにあった。

 やがてバス停に私が何時も乗っているバスがやって来た。

「それじゃ……」

 渡利さんはそう言って私に向かって手を振った。

しかし、私は椅子から立ち上がりはしなかった。

「え、ちょっと……!」

 渡利さんが慌てている中、バスは乗車口を閉めて道の先へ行ってしまう。

「あのバス、いつも乗ってるバスだったんじゃないの?」

「うん、いつもはあのバス」

「なら……!」

「でも渡利さんが泣いているのに、私だけ先にバスへ乗ることは出来ないよ」

「そんなこと私は望んでない」

「私が望んでる」

 雨はポツポツと未だ止む気配を見せない。私は隣に並ぶ彼女の左手に触れた。

「……偽物だけど、恋人でしょ。恋人って分かち合うものだと思うから」

 きょとんとした顔になった渡利さんにそっぽを向くようにして私は言った。すると、次の瞬間ふっと吹き出す彼女の笑い声が聞こえた。

「変なの……明日は雹?」

「かもね……」

 私は右手を彼女の手に触れさせたまま、やり場のない左手を顎に添える。

 トタン屋根に弾ける雨音を聞きながら、ただ雨雲が通り過ぎていくのをじっと二人で待った。


 やがて雨が止むと、その頃にはすっかり夜も更けていた。渡利さんは本調子ではないながらも顔に笑みを浮かべていた。

「次のバスが来るまで私も待つよ」

「いいよ別に……一人で待てる」

「そういうわけにはいかないよ」

 渡利さんは折り畳み傘を鞄にしまいながらそう言った。私はまた彼女が気を遣い始めたのだと思った。思い返してみれば、いつも彼女はそうだった。いつも私に、そして周囲に気を遣っていた。だから私は雨の止んだ、トタン屋根の外側に彼女を引っ張り出す。

「もういいって、そういう気遣いは。他の人にするのは勝手だけど、私にはいらない。恋人だから」

 それを聞くと、渡利さんの表情が苦々しいものへと変わった。むむむ……と深く考え始めると、最後には苦々しい顔のままで

「絶対に後悔させるよ?」

 と言った。それがあまりにも断定的なものだったので、私は笑ってしまった。

「何その自信。別にいいよ、私は後悔してばかりの人生だし」

「言ったね?」

「女に二言はない」

「じゃあもう遠慮しないから」

 そう言って渡利さんは鞄を肩にかけ直し、さっさと道の先を歩いていく。

「また明日」

 捨て台詞のように挨拶をしながら、彼女は自宅の方へ帰って行ってしまった。何だか私はとんでもないことを言ってしまったような気がしつつも、彼女に向かって「気を付けて」と見送った。

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