8.【夢駆け】
気付くとナターシャは、あの街の大通りに立っていた。朝とは打って変わって、人でごった返している。その人々は限りなく無個性で、人海のどこをとっても灰色をしていた。
(――これ、夢だ)
(つまり私は気を失ったのか……シュウさんだな)
きっと首に手刀を食らったのだ。頭に血の上りやすいナターシャは、今までにも何度かシュウの手刀に世話になっている。逆に言えば、他のメンバーに気絶させられたことは一度もない。うなじに手をやったが、何の触覚も得られなかった。
(――私は)
あの後ナターシャは、ハンネに掴み掛った。ハンネはずっと黙っていた。ローナの諭す言葉に、どうして、なんで、そんなの関係あるかよと繰り返し泣き叫んだところまでは覚えている。
「あなたの本当の家族は彼なのだから、帰るべき場所に帰りなさい」
ローナの声は寂しげだった。そこでナターシャの意識は途切れる。
ならば、ならば何故、と歯を食いしばる。
彼等は時折、このサーカスが家族だと言った。どこに根を張るでもない自分達が帰る場所だと言った。
(追い出すなら、最初から仲間になんかするなよ。違うだろ、家族に「本当」なんてないだろ)
今となっては、ナターシャにとっての家族は、あのサーカス以外あり得なかったのに。
(これから、どうすればいいのだろう)
改めて周囲を見渡す。ナターシャは頻繁に明晰夢を見た。それらは大抵意味の分からない夢だった。
「……あ」
ナターシャの目に、不意に色彩が飛び込んできた。それは束の間ナターシャの前を横切り、すぐに灰色の中に紛れてしまった。
鮮やかなオレンジの髪と、真っ黒のタキシード。
ナターシャはその人を追った。まだそう遠くへは行っていないはずだ。早く声を掛けなければ。そう、あれは団長の――。
(――誰、だっけ)
知っているはずだ。よく知っているはずだ。思い出さなければいけないはずだ。雑踏が耳障りにナターシャを焦らせた。
「■■■!」
名前を呼んだ。何度も呼んだことがある気がした。それでもナターシャの声は、ナターシャには聞こえない。誰もその呼び声に応える者は無かった。
その後もナターシャは、次々と色彩を見つけて追いかけた。人々の足音と話し声に急かされながら、ナターシャは何度も名前を呼ぶ。自分には聞こえない声で呼ぶ名前は、口にした途端にナターシャから失われた。
輝くブロンドの髪と、白いTシャツの女の人。
「■■■」
黒く大きな男の人。
「■■」
カラフルなピエロ服を着た細い人。
「■■■」
赤毛のふわふわした丸い人。
「■■■■」
真っ赤なレオタードと白いコートを着た、黒髪の人。
「■■」
濃緑の着流しを着たロマンスグレーの人。
「■■■■」
どの人も、顔は見えなかった。ナターシャは彼らを知っている。彼らもきっとナターシャを知っている。そして彼らは、ナターシャから逃げている。そんな気がした。
ナターシャは足を止め、灰色一色に戻った大通りの上で立ち尽くした。
そこはもう彼女にとって、見た事もない街になっていた。彼女の知っている人は、そこには誰もいなかった。
彼女は気付かない。動き続ける街並みの中に、足を止めた人影が六つあることを。そして薄汚れた包帯だらけの子供が、すぐ後ろから彼女を見つめていることを。
「――お願い」
彼女はいつの間にか目を閉じていた。その両目から頬にかけて、冷たいものが伝うのを、確かに感じた。
「お願い、置いていかないで」
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