わがまま女神の後日談(仮)
えびふぉねら(鬱)
狩りと豊穣の女神ディアレプス
「ほっほっほ、久しいのう、ラナスオル! 何万年ぶりじゃったか。相変わらず、そなたの治めるラナスは美しゅうてたまらぬわ!」
――ラナスの居城、来賓の間。
女神ディアレプスは、三つ編みに束ねた長い黒髪を揺らしながら、ゆったりとした足取りで私のもとへ歩み寄ってきた。
空色の瞳はずいぶんと愉快に細められている。まるで猫そのものだ。
複数の獣の皮をあしらった野生的なドレスを身に纏い、頭からは大きな黒い猫耳がピンと立っている。
人間の年齢で例えるなら三十歳ぐらいだろうか。
悔しながら、私と比べてバストサイズも妖艶さも遥か上を行っている。化粧はちょっと厚めな気がするが。
最も特徴的なのは四肢だ。身体全体は女性のシルエットだが、前腕と下肢がヒョウのような体毛に覆われて、鋭い黒い爪を揃えている。
それが彼女――獣の世界デアレスの統治者。狩りと豊穣の女神ディアレプス。
* * *
「神界の連中がまたそなたに粘着しておるのは知っておったが、まあ、わらわには関わりのないことよのう」
ディアレプスは椅子を引いて腰掛けると、獣の脚を組みながら涼しげに言う。
「……とはいえ、娘が生まれたと聞いたゆえ、せめて祝いぐらいはしてやろうと思うたのじゃ」
彼女は軽く肩をすくめると、片手をひらりと振った。
――豊穣の
すると、彼女の周囲に熟れた果実や、黄金色の稲穂がふわりと浮かび上がる。
ゆっくりと宙を舞い、テーブル越しに私の元へ届いた。
「さあ、受け取るがよい。娘へのささやかな贈り物よ。わらわがこうして顔を見せたのじゃ。少しくらい、そなたも喜べ」
「ああ……感謝するよ、ディアレプス」
私はそれらを受け取り、精霊たちに運ばせてカゴの中に収めた。
彼女はテーブルに用意された食事を口に運びながらふっと微笑むと、長く黒い耳をぴくりと揺らしながら私を見つめた。
「……ふむ、娘の父親はどこじゃ?」
ディアレプスはフォークを起き、腕を組みながら思い出したように尋ねた。
ぴんと耳を立てて、興味深そうに私を見据える。
私は目を伏せ、呟くように答えた。
「……シードは、もういない」
それを聞いたディアレプスの空色の瞳が僅かに細められる。
「ほう、死んだのか? 神がそう容易くくたばるものか。戦で討たれたのか?」
「……違う」
私はなんとか悲しみを隠すように努めたが、鋭敏な感覚を持つ彼女を誤魔化せるとは思えない。
「今から十一年程前……彼は事故で命を落とした。人間の双子を、瓦礫の崩落から庇ってな」
しばしの沈黙。
ディアレプスは、ふっと鼻を鳴らした。
「……なんとも人間臭い最期よのう。それで、再誕の循環に還ったというわけか」
「……いや、彼の魂は……今どこに在るのかわからない」
「ほう……?」
ディアレプスは一瞬眉をひそめ、瞳に怪訝な色を浮かべる。
私が沈黙で答えていると、彼女はそれ以上は何も言わずどこか納得したような表情を見せた。
「……それでそなたは娘を一人で育てておったのか。なるほどのう」
ディアレプスは小さくため息をつくと、椅子から立って私の隣に来て腰を下ろした。
「……苦労しておるのう、ラナスオル」
労うように、私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
長く生きている彼女からしてみれば、私はまだまだ女神としては子供の部類なのだ。
「……して、その娘はどこにおる?」
「旅に出たよ。成長したその双子とともに」
「ほう? まさか……神界を目指しておるのか?」
私はこくりと頷いた。
「神喰らいのグレナシアに蹂躙されたあの場所へ? もぬけの殻となった神界へ、何の用があって行く」
「……そこに、魂を甦らせる巻物がまだ眠っているかもしれない。娘たちは、それを探しに行った」
その言葉を聞き、ディアレプスは僅かに目を見開いた。
そしてふっと口元を歪め、獣の耳をぴくりと動かした。
「くく、夢の夢の、そのまた夢のような話じゃの」
そう言って彼女は立ち上がり、再び自分の席に腰を下ろして食事の続きを楽しみ始めた。
私は自分の目の前の食事には手をつけず、テーブル上の料理を次々と平らげていく彼女を見つめていた。
「せっかく来たのだ。……彼の墓に手を合わせていくといい」
彼女が食べ終わった頃、私はぽつりと提案した。
「ふむ……死んだ者に興味はないが、わらわにここまで話したということは、見せたいものがあるのじゃろう?」
「……ついて来たまえ。ここからそう遠くはない」
そうして、私たちは並び歩き、あの街の霊園へ向かった。
* * *
風の精霊の囁きだけが耳を掠める、人々の眠りし静謐な場所。
ディアレプスは霊園に足を踏み入れた途端、獣の耳を震わせた。
「……これは」
彼女は空色の瞳を細め、唇から鋭い牙を覗かせていた。
「血の匂いがするのう……」
ディアレプスはそう呟きながら知らず知らずのうちか、腕に爪を立てている。
私は彼の墓の前で足を止めた。
そこは変わらず人々によって手入れされ、花や供物が供えられている。
「ここだ」
墓標の名を見て、ディアレプスは目を細める。
――銀灰の守護者、シード。ラナスを守りし神。
「……ほう」
彼女は私の方へ向き直り、呆れたように笑った。
「……そなた、随分と物騒な男を夫にしたものよ」
そう言いながら、ディアレプスは墓標へと視線を戻す。
「……なるほど、これは……」
彼女の身体が本能的に警戒しているようだった。
獣の毛が逆立ち、微かな唸り声を漏らしながら耳をぴんと立てている。
それもそのはず。ここにあるのは、ただ死んだ神の墓ではない。
かつて数多の神々を狩った「死と恐怖の神」と呼ばれた男が眠る地だ。
彼女は狩りの女神。ここに立つだけで、背筋を戦慄のようなものが走るのだろう。
「ふん……ラナスオルよ、そなたの夫はなかなかに危険な獣であったのだな?」
ディアレプスは憐れむような声音で私を見やる。
「そなたが気に病むのもわからぬではない。……死んでなお人を不安にさせる男よのう」
言葉とは裏腹に、彼女の瞳は鋭く光っていた。
この男が、もし生きていたら――?
そんな瞳だった。
ディアレプスは、墓標を睨みつけるようにして立ち尽くしていた。
殺気がだだ漏れだ。
いや、むしろ、私がどう出るか試すように、わざと露にしているようにも見える。
私は動じることなく、静かに真実を告げる。
「君がそんな反応をするのも無理はない。私は彼の罪を分かち合えなかったのだ……」
私はまっすぐに墓標を見つめた。過ぎ去った日々の記憶を思い出しながらゆっくりと語る。
「彼は私を穢さないために、一人ですべて背負おうとした。私は……妻でありながら、彼を孤独にしてしまった。妻として、私は何もかも未熟だったのだ……」
私の言葉を聞きながら、ディアレプスは薄く笑った。
「……ほう? そなた程の女神がそこまで言うとはな」
ディアレプスは、墓標に視線を戻し喉を鳴らす。
「妻として未熟、とな?」
嘲るようにも、感心したようにも取れる声色だった。
「ふん、そういう考え方もあるかもしれぬな。じゃが、シードとやらが本当にそなたを穢したくなかったのなら――」
ディアレプスは空色の瞳で私をじっと見据えた。
「そなたを心底愛しておった、ということじゃろうよ」
その言葉を投げかけたあと、ディアレプスはふっと肩をすくめ、墓標から一歩退いた。
「まぁ、わらわには関わりのないことじゃがな。どのみち、わらわは死んだ者には興味がない」
そう言って、空を仰いだ。
「ディアレプス。もし君に、君より狩りが上手い夫がいて、君の出る幕が無くなったらどう思うかね?」
私は興味本位で問うた。
本当に、何のこともなく、世間話のように。
ディアレプスは、その問いに対し獣の耳を僅かに動かした。
「ほう?」
彼女の低い声に、私はつい真剣な眼差しで見つめてしまった。
するとディアレプスは喉の奥でくつくつと笑い、腕を組んだ。
「わらわより狩りがうまい夫、とな? 面白いことを言う」
獣の牙を見せながらにやりと口角を上げる。
「わらわにとって、狩りは誇りであり、力の証であり、存在意義の一部ですらある。それを上回る伴侶とな……そんな男がおったら――」
ディアレプスは鋭く笑い、堂々と答えを放つ。
「わらわはそやつを狩るわ――それが、獣の誇りじゃからのう」
迷いなく言い切るディアレプス。
どっしりとした年配者の神に、私は小さく返す。
「……君らしいな」
ディアレプスは肩をすくめ、墓標へと視線を戻した。
「だが、わらわはそなたの言いたいことも察しておるぞ。シードとやらは、そなたに戦う場を与えなんだ。そなたの誇りを、守るあまりに奪うたのじゃろう」
「……」
私は何も言えなかった。
その沈黙が肯定の証であることを、彼女は察していた。
「私は結局、彼に守られてばかりだった。どうしたら彼を守れたか、今でも考えてしまうことがある。彼はもういないのに……ふっ、情けないな」
私は目を伏せ、泣き言にように声を漏らす。
私の言葉を聞きながら、ディアレプスは静かに息を吐いた。
墓標の前で俯く私を見つめ、やや呆れたように鼻を鳴らす。
「……しょーもないのう」
私が顔を上げると、彼女は腕を組み片眉を吊り上げた。
「そなたは神じゃろうが。『どうすればよかったか』などと、いつまでも後ろを向いて何になる?」
私は黙ってその言葉を受け止めた。
ディアレプスは墓標に視線を移して話を続ける。
「過去を悔いたところで、死んだ者は還らぬ。だが――生きている者が進めば、死者の魂も前へ進むことができる」
私はそっと墓標に手を添えて呟く。
「……生きている者が、か」
ディアレプスは軽く鼻を鳴らし、再び空を仰ぐ。
「シードとやらの魂が、まだ彷徨っておるのなら、そなたが導いてやるのじゃな。女神として、妻として、どこまでも誇り高く」
私は、ディアレプスの言葉を静かに胸に受け止めた。
「……そうだな。私は彼のただ一人の妻だ」
私の声にはかつてのような強さが戻っていたような気がした。
ディアレプスは私の姿を横目で見ながら、腕を組んだまま低く唸る。
「ふん、殊勝なことじゃ。まあ、わらわが言わずとも、そなたは遅かれ早かれ前を向いたであろうがの」
「……それでも、君の言葉があったからこそ、私は迷いを振り払えたのだ。君は優しいな、ディアレプス」
ディアレプスは一瞬ぴくりと耳を動かし、顔をしかめた。
「――誰が優しいとな? わらわはただ、見ていて歯がゆかっただけじゃ」
そっぽを向きながら、言葉とは裏腹に穏やかな表情を浮かべる。
私は少しだけ微笑んで、再び祈りへと意識を戻した。
ディアレプスから受け取った果物をそっと墓標の前へと捧げる。
そして、目を閉じる。
「……シード。私は、君の帰る場所を守り続けるよ」
その言葉は、風に溶けるように墓標へと染み渡った。
ディアレプスは私を黙って見つめ、やがて満足げに鼻を鳴らす。
「ふん。ならば、わらわは邪魔せぬとしよう。……ラナスオル、また会おうぞ」
そう言い残し、ディアレプスは踵を返した。
私は祈りを終え、彼女の背を見送る。
「ああ。またな、ディアレプス」
黒髪の豊穣神は、青空の下を悠然と去っていった。
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