水面に浮かぶ月

Taike

水面に浮かぶ月

 部屋の片付けには誘惑が付きものである。


 例えば少年時代に熱中していた漫画をなんとなく手に取って、パラりとページをめくったなら最後。気づけば片付けなど手につかず、カラスが鳴くまで懐かしの物語に浸り続ける、なんてのは往々にしてあることだろう。


 こと片付けにおいて、青春時代の痕跡は罠である。片付けなんてのは大抵、現実逃避をしたい時であったり、暇を持て余している時にやることなので、物思いに耽るスイッチが入りやすいのだろう。もうじき齢三十を過ぎる俺ではあるが、大人になればなるほど郷愁の想いは強まっているように感じる。


「ん? なんだコレ? アルバム……?」


 そして、休日に暇を持て余し、まさに部屋を片付けている最中。

 俺は実家を出る時になんとなく持ち出した、思い出の一品を発掘してしまった。


「へぇ、懐かしいな。小学生の時の写真か。これは運動会の時で、これは近所の山にカブトムシを採りに行った時で……」


 整理整頓の手が止まり、意識が過去に飛んでいく。こうなってしまえば、後の祭りだ。一度思い出に浸ると、どうしても現実に戻って来るまで時間がかかる。この瞬間、俺は片付けが後回しになるであろうことを悟った。


「これは……はは、多分一番忘れられない思い出だな」


 ある写真を目にした途端、アルバムをめくる手がとまる。

 それはなんということはない、ツーショット。

 短パン小僧の俺と、ミニスカートの少女が隣り合っている。

 たったそれだけの一枚だ。


 胸が痒くなるような気恥ずかしさと、少しばかりの後悔。

 そんな幼さ故の感情が入り混じっている──幼馴染との思い出だ。


≠≠≠≠≠


 生まれ育った地は、何の変哲もない田舎だった。

 強いて特徴を上げるとすれば、実家からそう遠くない海が綺麗なくらいである。


 夏の陽を浴びて煌めく波のゆらめき。

 エメラルドグリーンを彩るサンゴ礁。


 郷愁と同時に思い起こされる光景は、額縁に飾りたくなるほどに輝かしい。両親は大層にその海を好んでいたらしく、息子である俺に『海人かいと』という安直な名をつけた。なんだかエラ呼吸できそうな字面ではあるが、特に不満はない。時々『海人うみんちゅ』と呼ばれて腹が立つくらいである。


「よっす、海人! 今日も放課後、河川敷集合な!」

「オッケー、わかった。今日は何するの?」

「今日はサッカーだ! へっへっへー! 俺の必殺シュートが火を吹くぜっ!!」

「ははっ、楽しみだね」


 当時十一歳の海人少年は、周囲から浮かずに”普通”であろうとする小学生であった。ホームルーム後の教室で運動好きのガキ大将から声を掛けられれば、素直に従って行動を共にする。本当は身体を動かすよりも手先を使って小物やら玩具やらを作る方が好きだったのだが、周囲から浮いてハブられるくらいなら自分の趣味を押し殺した方がマシだと思っていた。規模が小さいコミュニティで孤立すると、何かと面倒事が起きやすい。


「じゃ、俺先行ってるからな! 海人もすぐ来るんだぞ!!」

「分かってる、分かってる。遅くならないように気を付けるよ」


 ガキ大将は大抵、協調性よりも己の衝動を優先する。彼にとっては一秒でも早く必殺シュートを打つのが最優先なので、俺を待たずに河川敷へ向かうのはいつものパターンだった。


「じゃ、俺らも先行くから!」

「海人、また後でなー!!」


 また、彼は教室という閉じた世界においてカリスマ的存在であった。彼が出ていくとクラスメートの大半はすぐに彼の後を追うため、放課後の教室は瞬時に静まり返る。教師にとってみれば随分と都合の良いクラスだっただろう。

 

 そう。当時の放課後に教室に残っている生徒なんて、ほとんどいなかったのだ。


 いつも残っていたのはダッシュで河川敷に行くのを面倒に思っていた俺と、


「え、えと、海人くん……今日も、私とお話ししてくれるかな……?」

 

 そんな俺にモジモジしながら話しかけてくる彼女──海月みつきの二人だけだった。


「まあ、五分くらいなら話せるよ」

「や、やった! え、えーと、何から話そうかな……」


 長いまつ毛、大きな瞳。砂浜のように白い素肌。首のあたりまで伸ばした艶やかな黒髪。

 見れくれだけで言えば、間違いなくクラスカーストの上位に入るだろう。

 

 しかし、海月は俺以外に話し相手がいなかった。

 有り体に言うと、彼女は軽度のイジメに遭っていたのだ。


 イジメの理由は明確だった。

 海月は少し周囲とズレた感性を持っていたのである。


「あ、あのね! 今日校庭で、とっても綺麗な石を見つけたの! でね! その石はちょっと湿ってたんだけど、太陽の光に反射させるとキラキラ光ってチカチカ眩しかったの!!」


 海月は綺麗なモノが好きな少女だが、海月の思う“綺麗”は周囲が思う”綺麗”とは違う。大半の女子はジュエルやらイルミネーションの輝きを見て”綺麗”だと言うが、海月は石や砂などを集めて”綺麗”だと感じる少女だった。良く言えば個性だが、悪く言えば少々変人だったのである。


 子供とは残酷な生き物で、変人を見つければ「ヘンだ」と声を出して揶揄する者が必ず現れる。一人が声を出せば、やがて「ヘンだ」の印象は周囲へ広まり、共通認識となっていく。


 しかも、よりによって海月は名前が海月だった。彼女も俺と同様に安直ネーミングの被害者なのだろう。誰が決めたのかは分からんが、この世界には『海』に『月』と書いて『クラゲ』と読む法則がある。漢字の授業で海洋生物の読み方を習ったことが、イジメの始まる決定打となった。


 以来、彼女は『クラゲ』というあだ名が定着し、変人として周囲からバカにされる日々を過ごすことになってしまったのである。


「ねぇ、海人くんはなんで私とお話してくれるの? 私、ヘンなんでしょ? 私と話してると、海人くんもヘンだって思われるよ……?」

「別に、海月と話すのに理由なんてないよ。話しかけられたから、話す。何もヘンじゃない」

「あれ? でも、最初……あの授業が終わった日の放課後、最初に話しかけてくれたのって海人くんじゃなかったっけ?」

「っ、そ、それは……あの時は、なんとなく海月に声をかけたい気分だったんだよ」


 苦し紛れに嘘をついた。

 なんとなく、なんかじゃない。

 孤立し始めた海月に声を掛けたのは──彼女が、俺と似ているような気がしたからだった。


 彼女は『変人のクラゲ』として孤立しているが、一歩間違えば俺も『変人の海人うみんちゅ』として孤立していた可能性もある。小物や玩具の工作が好きだという自分の『ヘン』を抑えつけて周囲に合わせているからイジメに遭っていないだけで、自分の好きなものに正直に生きていたら俺も海月と同じような立場になっていたかもしれないと思った。


 海月がクラゲになった日の放課後。

 そんな彼女を放っておけなくて、俺は思わず声を掛けてしまったのだ──“ヘンなのは別に悪いことなんかじゃないよ”、と。


「なんとなくなの? ふーん、まあ、なんでもいいや! こうして海人くんがお話ししてくれるだけで、私は嬉しいから!!」

「はいはい、わかったわかった。ずっと教室に残ってると先生に怒られそうだし、そろそろ帰るぞ。俺、河川敷行かなきゃだし」


 あの日以来、海月は放課後に誰もいなくなったタイミングを見計らって俺の元へやってくるようになった。

 たった一言がきっかけでここまで懐かれるとは思っていなかった、というのが正直な感想ではある。


「うん! 一緒に下駄箱まで行こっ!」


 声を弾ませる海月に誘われ、がらんどうの教室を後にする。

 夕陽に照らされた笑顔が、ほんのりと朱色に染まっていた。


≠≠≠≠≠


 当時の俺にとって、海月と過ごす放課後の五分は心地の良い時間だった。

 いつもはガキ大将の目を気にして遠慮がちに日々を過ごしているが、彼女と居る時だけは誰にも気を遣わずありのままの自分でいられたのだと思う。


 帰宅時刻を告げる鐘が鳴った後、ほんの束の間ではあるけれど。

 月日が経てば経つほど、俺は彼女と共有する秘密の時間を大事に思うようになっていった。


 ──しかし、閉じた世界の環境は些細なきっかけで変化を遂げる。


「いっけね! 体操着持って帰るの忘れてた……って、あれ? 海人とクラゲじゃん! こんな時間に二人で何してんだ?」


 いつも通り海月と二人で過ごしていた、とある日の放課後。

 俺たちは忘れ物を取りに教室へ戻って来たガキ大将と遭遇してしまったのである。


「え? なになに? もしかして、お前たちラブラブ?」

「あ、えっと、これは、その……」

「あっははー! 海人、クラゲとラブラブなのかよ! 何それ、おっもしれぇー! 早くみんなに教えてやーろうっと!!」

「なっ……!!」


 毎日毎日二人で教室に残っていれば、そのうち誰かに見られる日が来ても不思議ではない。しかし、当時小学生の俺は海月との関係がバレることを全く想定していなかった。


 海月と話しているところを彼に見られれば、自分もイジメの対象になりかねない。

 そんな事態を恐れ、俺は昼間に海月と近づくことは避け、放課後の五分のみ彼女と会話を交わすようにしていた。

 そうすれば、俺たち二人は平穏な日常を送ることができる。

 俺がイジメに遭うこともない。みんなにバカにされて辛いを日々を過ごしている海月も、一日の最後だけは笑顔になって帰ることができる。それが最善なんだ、と。

そう、思っていた。


 しかし、その”最善”が瓦解しかけた瞬間──


「は、はは。ちょっとやめてよ。俺が海月とラブラブ? そんなわけ、ないじゃん」


 ──焦って自分を見失った俺は、心にもないことを言ってしまった。


「たまたま俺と海月の帰りが遅くなったから二人で居ただけだよ。何言ってんのさ?」


 自分もイジメの対象になるのが怖くてたまらない。

 その一心で、自分を守るためだけの言葉を並べた。


「なーんだ、やっぱそうだよなぁ。海人がクラゲとイチャイチャなんて、あるわけないもんなぁ」


 結果的に、ガキ大将の目を誤魔化すことはできた。

 俺と海月の噂が広まる事態を防いで、自分の立ち位置を維持することはできたのだろう。


「っ……!」


 だが、その瞬間。

 涙を浮かべた海月は、脱兎のごとく教室から走り去ってしまった。


 何度『クラゲ』とバカにされても、泣いているところなんて見たこともなかったのに──俺は、海月を初めて学校で泣かせた張本人になってしまったのである。


「じゃ、俺忘れ物取ったし、先に河川敷行ってるからなー! 海人も早く来いよー!!」

「う、うん……」


 体操着が入った袋を片手に、ガキ大将も教室から走り去る。

 俺を待たずにさっさと出て行くのは、変わらずいつも通りだった。


 ひとりぼっちの放課後、がらんとしている教室。

 鐘が鳴った後に人が少ないのも、変わらずいつも通りだった。


 ほとんどいつも通り、だったはずなのに。


「……俺、最低だな」


 海月が居ないだけで、窓から吹き込む風が妙に冷たく感じた。


≠≠≠≠≠


 その日を境に、海月は学校に来なくなってしまった。


「海人! この後いつも通り河川敷な! 今日は野球だ! 俺の必殺ホームランが火を吹くぜっ!」

「ははっ、楽しみだね」


 クラスから一人居なくなったというのに、俺たちの日常は変わらなかった。

 海月を気にする生徒もいないし、教師も表面上で海月を心配するポーズをとっているだけ。


 海月なんてどうでもいい。

 皆がそう言っている気がして、無性に腹が立った。

海月を泣かせた俺が、そんなことを思う資格なんてないというのに。


「じゃ、海人も早く来いよー!! 先行ってるからなー!!」

「うん、わかったよ」


 海月と話さない日常が戻って来ただけ。

 そのはずなのに、日に日に学校がつまらなくなっているような気がした。


≠≠≠≠≠


 俺はあまり日々の悩みを口にするような子供ではなかった。

 友達とは出来るだけ楽しい時間だけ過ごしていたいし、大人に悩みごとを相談するのはなんとなく恥ずかしい。

 そう思うと、色々一人で抱え込んでしまうのである。


「海人、なんか最近元気ないわね? 学校で嫌なことでもあった?」


 その点、母はなんとも不思議な生き物であった。

 葛藤を表に出さない息子の心理を読み取る能力に長けていたのである。


「え、なに。どしたの、急に」

「いや、なんか海人が浮かない顔してるなーと思って」


 海月が学校に来なくなって、数日経った頃。

 父母息子で食卓を囲んでいた夕飯時、母は唐突に俺が悩んでいると見抜いてきたのである。


「うーん、そうか? オレはいつも通りの海人に見えるけどなぁ」


 なお、父は母ほど鋭くはない。

 あまり人の裏を読もうとは考えない素直な人間なのである。

 もし俺が父に似ていれば、もっと楽に生きられたかもしれない。


「いーや、いつも通りじゃないね。この子は私に似て、ひねくれてる部分があるから。悩んでる時ほど、人前で平気なフリして取り繕おうとするのよ。なんか頬のあたり引きつってるし、多分コレは無理して表情を変えないようにしてる時の顔ね?」

「ちょ、母さんやめてよ! そんな解説みたいなことされたら恥ずかしいって!」

「ほーら、図星だった」

「うっ……」

「海人、諦めろー。母さんの前で隠し事は難しいぞー」


 こうなってしまうと、両親の追及は止まらない。

 何に悩んでるか突き止めるまで、永久に尋問しようとする。


「あー、もう分かったよ。話すってば……実は最近、学校でイジメに遭ってる子がいてさ。なんか放っておけなくて、毎日放課後に少しだけ話してたんだよ。俺にイジメを止める力はないけど、せめて一日の最後くらいは笑っていてほしいなと思って」

「なんだ、良いことじゃないか」

「でも浮かない顔してるってことは、その子と何かあったのよね?」

「まあ、なんていうか……この前、その子を傷つけるようなこと言っちゃってさ。他のヤツから二人で居るのを見られた時、俺もイジめられるんじゃないかって怖くなって……思ってもないことを言ってしまった」


 最初は海月が一方的に懐いてきただけだった。

 けれど、いつしか海月と一緒に居る時間が心地よくなっていた。

 そうだったはずなのに、自分を守るためだけに酷い嘘をついた。


「はあ。なんていうか、海人らしい悩みだね。アンタ、子供にしてはちょっと周りが見え過ぎてるのよね……」


 しかし母は、そんな俺を叱るわけでもなく、納得するように頷いていた。


「怒らないの? 俺、結構酷いことしたと思うんだけど……」

「確かに、酷いことだとは思うよ? でも、“自分もイジめられそうで怖い”って思うのは仕方ないことだよ。その時に海人がしたことは間違ってるかもしれないけど、海人が感じたことは間違いじゃない。自分を守りたいと思うのは、間違いなんかじゃないよ。だったら、海人を責めることなんてできないじゃない?」

「だ、だったら……俺は、どうすればよかったんだろう?」


 叱られた方が、まだマシだった。

 なんでそんなことをしたんだと、責められた方がまだ良かった。

 怒ってくれれば、行き場のない罪悪感が少しは和らぐような気がしていた。


 けれども母は、懺悔する俺に寄り添ってきたのである。


「多分、海人が考えなきゃいけないのは”どうすればよかったのか”じゃなくて、”これからどうするのか”なんじゃないかな?」

「これから、どうするか?」

「そうよ。過ぎたことをいつまで考えていても、未来は変わらない。反省は大事だけど、その反省は今後に活かさないと。海人はその子を傷つけたこと、後悔してるんでしょ? だったら何が悪かったのかを考えて、この後どうしたいのかを考えなきゃ。そうしないと、いつまで経っても何も変わらないんじゃない?」


 これからどうしたいのか。

 母から問いかけられた瞬間、その答えはすぐに出てきた。


「俺は、俺は……海月と仲直りがしたい。海月にもう一回、学校に来て欲しい」


 ──そうしないと、一生後悔するような気がした。


「ふふ、やっと素直になったわね。だったら、後は仲直りする方法を考えるだけじゃない?」

「仲直りの、方法……ただ謝るだけじゃ許してくれないかもしれないし……うーん、どうしよう……」

「まあ、それはこれからゆっくり考えていけばいいわよ」

「そうだぞ、海人。それに、暗い気持ちのままウンウン悩んでても良い考えは浮かばないだろう。どうだ? 今度の休み、気分転換がてら父さんと水族館にでも行かないか? 海とはまた違った良さがあって面白いぞ」

「ふふ。アナタ、本当は自分が行きたいだけなんじゃないの?」

「はは! まあ、そういう気持ちも無くはない。ただ、気分転換が大事なのは本当だぞ?」


 言葉を尽くす母と、即座に行動を起こす父。

 タイプが違う両親ではあるが、二人の気遣いは素直にありがたかった。


≠≠≠≠≠


 父は宣言通り、俺を連れ立って土曜日の水族館を訪れた。


 ある一角ではペンギンがヨチヨチ歩いている。

 かと思えば、少し離れた場所で賢いイルカがショーで観客を魅了している。

 少し移動して館内に入るだけで、忙しそうに泳いでいる多種多様な魚たちを見ることができる。


『海が近くにあるのに何故わざわざ水槽に魚を見に行くんだ?』と子供ながらに思っていたものの、実際に来てみると、なるほど。父の言う通り、そこでしか見られないもの、感じられないものがあるんだなと、素直に感動を覚えた記憶がある。水族館は世界中、あらゆる環境に生息する海洋生物を一か所で楽しめる点に魅力があるのだと思った。


「どうだ、面白かっただろ? 色んな所を回ったと思うけど、海人的にはどこが一番気に入ったかな?」


 ひと通り施設を回り、満足した気分で歩みを進めていた帰り道。

 最後に、父は何気なく尋ねてきた。


「全部、良かったと思うよ。ただ、一番記憶に残ったのは……白いクラゲが綺麗に光って、暗い水槽の中を自由に泳いでたところ、かな」


 意識してクラゲを見ていたわけではないが、口をついて出たのはそんな感想だった。

 クラゲと聞くと、どうしてもゲームに出てくるモンスターのような見た目を想像してしまい、『気持ち悪い生き物』という印象を持っていたが……水族館での一日を通して、そのイメージは大きく変わったのである。


「みんな、水族館に来ればいいのに」


 クラゲの美しさを知れば、海月のイジメだってなくなるかもしれないのに──そう思ってしまうほどに、俺はクラゲの虜になっていた。


≠≠≠≠≠


 父の発言は基本的に根拠がない。

 しかし経験上、大抵は父の言う通りに物事が進むのだから不思議である。


「お、なんだ海人。今日は部屋に籠って工作か?」


 水族館を訪れた翌日。

 早速『海月仲直り大作戦』のプランが思いついた俺は、自室にて作戦決行へ向けて動き始めていた。

 父の言っていた通り、気分転換が功を奏したわけである。


「そういえば海人、保育園に居た頃は貯金箱とかおもちゃとか作るの好きだったな。もう何年も工作なんてやってなかったもんだから、飽きたのかと思ってたよ」

「工作は今でも好きだよ。ただ、最近は放課後も休みの日も友達と外で遊んでばかりだったから。自然と、そういう時間がなくなってただけ」

「今日は友達から誘われてないのか?」

「誘われたよ。断ったけど」


 いつもの俺なら、誘われた日は必ず河川敷に向かっていた。付き合いが悪い奴だと思われるのが怖いから、いつだって友達グループの輪に入ることを欠かしたことはない。


 けれど、その日曜日だけは、ガキ大将の機嫌なんてどうでもよかった。

ホコリ被った道具箱を引っ張りだして、その日だけは工作に没頭したいと思った。


「友達と遊ぶより、大事なことがあるから。今日は、俺がやりたいことをやるんだ」


 一人だけ浮かないように、周りに合わせて過ごしてきた。

 そんな俺に初めて、周囲に溶け込むより大事だと思えるモノができたから。


 たとえ『変人の海人うみんちゅ』になろうとも──自分の気持ちを形にして、海月に届けたいと思った。


「はは、そりゃあ良いことだな。子供はやりたいことをやりたいようにやればいいのさ。それに、一度遊ぶのを断ったくらいで友達やめるようなヤツは、そもそも最初から友達なんかじゃない。もし遊び相手が居なくなったら、そん時は父さんが一緒に遊んでやる。だから、なーんも心配することはない! 今は海人がやりたいことを思いっきりやっちまえ!」


 力強く息子の背中を叩く父は、前に進む勇気を与えてくれた。

 ドアの隙間から物言わず父子を見守る母は、ひだまりのような安心感を与えてくれた。


「ああ、そっか──」


 ──何があっても、俺は一人じゃないんだな。


 最後の最後、俺が海月と会う決心を固められたのは、両親がそれに気づかせてくれたからなのだと思う。


≠≠≠≠≠


 週明け、月曜日の放課後。

 欠席していた海月に会う口実を作るのは、想定以上に簡単だった。


「先生。俺、海月に宿題のプリント届けてきます」


 それ以上でも、それ以下でもない。

 たった一言告げるだけで、担任教師から海月の家の場所を大雑把に聞き出すことができた。

 昔の田舎に限って言えば、プライバシーなど、ほぼほぼ無いと言って良い。

 

「えーっと、多分この辺のはずだよな……」


 二日連続でガキ大将の誘いを断り、俺は海月の元へ向かった。

 鈴虫の声に緊張を煽られつつ、あぜ道を歩いて、前へ、前へ。

 秋の名残が消え切っていない、十二月の夕暮れ時であった。


「っ! 海月……!」


 学校を出立して十分ほど歩いた頃、俺は視界に彼女の姿を捉えた。


 広々とした門を構える、古風な一軒家。

 その付近で停車した軽トラックから、ちょうど海月が降りてくる場面に遭遇したのである。


「海月っ!!」


 無我夢中で叫び、彼女の元へ駆け出した。


 運転席に父親と思しき人物が居るのは分かっていたが、彼になんと思われようとどうだっていい。衝動に任せて走り出す身体を、止めることができなかった。


「っ、海人くん!?」


 俺に気づくやいなや、海月は軽トラの傍を離れると、逃げるように田舎のあぜ道を走り始めた。


「ちょ、ま、待って! 待って海月!! 話があるんだ!!」


 いきなり逃げ出した彼女に戸惑いつつも、俺は必死にその背中を追いかける。


「なるほど、君が海月がいつも話している海人くんか! いやぁ、青春だねぇ! とりあえず海月のことは頼んだ!! あまり遅くならないうちに帰って来るんだぞー!!」


 海月の家の前を横切った時。娘がいきなり家から飛び出したというのに、彼女の父はなんとも呑気で寛大なリアクションをしていたなということを、ぼんやりと覚えている。その真意は理解できなかったが、少なくとも海月は家族と良好な関係を築いているであろうことを察し、そこはかとなく嬉しくなった記憶がある。


「はぁ、はぁっ! お、お願いだ、逃げないでくれ海月!! 聞いて欲しいことがあるんだ!!」

「はぁっ、い、嫌だっ! 海人くんの話なんて聞きたくない!!」

「じゃあ、なんで、こうして、追いかけっこなんてしてるんだよっ! 俺に会いたくないなら、家の中に逃げ込んで玄関を締めきればよかったじゃないかっ!!」

「な、なんでって、そんなのっ……そんなの、私にも分かんないよー!!」


 陽がほとんど落ちて、月が顔を出し始める時頃。

 二人の幼子が無我夢中に叫び、田舎道を駆け回る。


 遊び盛りの子供たちは、門限を破るまいと既に帰宅をすませていた。

畑作業をしていた農家も撤収し、作物たちは闇と静寂に包まれていた。


 どんなに周りを見渡しても、ここに居るのは俺と海月だけで。

 必死に背中を追いかけつつ、この世界を彼女と二人だけで独占しているような気分になった。


「はぁっ、はぁっ、ダメだ……もう限界……」

「ううっ、わ、私も……」


 野を駆け、林の中を抜け。

 しばらく全力疾走で駆けまわっていると、当然ながら俺たちの体力は尽きた。

 互いに逃げるのも追いかけるのも諦め、俺たちはしぼんだ風船のように地べたへ寝転がる。


 横になったまま視界を左右させると、周囲には背の高い木々が生い茂っていた。


「はぁ、きっつ……ていうか、ここどこだよ……?」

「ど、どこなんだろう……ほんのちょっとだけ、波の音が聞こえるような……?」

「じゃあ、海の近くってことか……?」


 海辺の田舎町ということもあり、波のさざめきなど特に珍しくもなんともない。

 重い腰を上げて耳を澄ませると、確かにどこからか聞き慣れた潮騒が聞こえてくるような気がする。


「なるほど。そういうことか」


 木々を掻き分けて音が鳴る方向へ歩みを進めると、その先は崖であり、行き止まりとなっていた。


 崖の向こうは、見上げれば夜空。見渡せば、一面の海。

 夜の水面は星空の輝きを反射して、チカチカと光っていた。


 なんだか、随分と大きい万華鏡の中に入ったような感覚になってくる。


「わぁ、すっごく綺麗……」


 気づけば、海月も俺の隣に並び立って海を眺めていた。

 つい先ほどまで俺から逃げ回っていたというのに、なんとも早い心変わりである。

 その瞳は、星空にも負けないほどに輝いていた。


「はは、やっぱ海月って変わってるよな。さっきまでは泣きそうな顔して走ってたのに、今はそうやって目をキラキラさせて星と海を眺めてる。俺と離れたいのか、それとも俺と一緒にいたいのか。イマイチ海月の気持ちが分かんないよ」


「うぅ、ご、ごめんなさい。やっぱ私、ヘンだよね……海人くんの近くに居ない方が、良いよね……?」


「ああ、いや、違う。違うんだよ、海月。俺は海月に悲しい顔をさせたくて、ここまで追いかけてきたわけじゃないんだ。確かに海月は少しヘンで、何考えてるか分かんないことはあるけど……そんなの、どうだっていいんだよ。他の誰でもない君に伝えたいことがあって、届けたいものがある。だから今日、俺は会いに来たんだ」


 星が輝く日は、不思議と心が普段より素直になっていく。

 気づけば俺は、飾らない言葉で、ありのままの想いを吐露し始めていた。


「実は俺、こう見えて結構な臆病者でさ。周りから浮いたり、ヘンな奴だと思われるのが怖くて仕方ないんだ。だから、あの日の放課後──海月と二人でいるのがクラスの奴にバレた時も、俺は自分を守るために嘘をついてしまった。海月と一緒に居たら、俺までイジメの対象になるんじゃないか、って。それが怖くて、思ってもないことを言ってしまった。心のどこかで、海月が傷つくって分かってたはずなのに……本当に、酷いことをしたと思ってる。まずは、そのことを謝らせてほしい。この前は、本当にごめん」


 最初に溢れ出したのは、後悔と罪悪感。

 まずは頭を下げて誠心誠意、彼女に謝ることから始めるのが筋だと思った。


「海月が学校に来なくなって、俺、色んなことに気づいたんだよ。海月が居ないと、放課後がつまらないこと。海月がクラゲだってバカにされるのが、嫌だってこと……自分を守れたとしても、そばに海月が居ないと意味なんてない。俺はまたもう一度、今度は周りの目なんか気にせずに、海月と一緒に居たいんだ、って。心から、そう思ったんだ」


 彼女を犠牲にしないと平穏な日常が過ごせないのなら、そんなつまらない日々はいらない。たとえ周りから冷やかされることになろうとも、彼女と笑い合う明日が欲しい。それは紛れもない、俺の本心である。


 けれど、彼女を傷つけた当の本人がそんなことを言っても、信じてもらえないかもしれない。


 ──だから俺は、この気持ちを目に見える形にして、彼女に伝えることにした。


「もしも、こんな俺を許してくれるなら。仲直りのしるしとして、コレを受け取ってくれないかな?」


 そうして彼女に差し出したのは、不格好な手作りアクセサリー。

 校庭で拾った綺麗な石をいくつか接着剤でワイヤーにつなげて作った、世にも珍しい首飾り。

 普通の小学生なら、こんなものを渡しても喜んでくれないのかもしれない。


 けれども、”ヘン”な彼女の好みは少し人とズレていて。


「へへ。実は俺、こういう小物とか作るの、すっげぇ好きなんだ」


 俺も、工作に一日中没頭できるような”ヘン”なヤツだから。


 人とは違う二人の”好き”を一つの形にすれば、互いの”ヘン”な部分を認め合えるんじゃないかと思った。

 そうすれば、海月とちゃんと仲直りができるんじゃないかと思った。


「コレ、私のために作ってくれたの……?」

「ああ、そうだよ。どうすれば海月が喜んでくれるか、俺なりに一生懸命考えた」

「これからも、私と一緒に居てくれるってことなの……?」

「もちろん。これからは放課後以外だって、海月と話がしたいと思ってるよ。誰の目も気にするつもりはないし、海月がイジメられてたら、今度は俺が守る。”クラゲは綺麗な生き物なんだぞ”って、デカい声で言い返してやるさ」


 後で冷静になって振り返れば、それはもうほとんど海月への告白であった。当時はまだまだガキだったとはいえ、我ながらよくもそう大胆なことを言えたものだなと思う。


 結局のところ、俺は好きな女の子と一緒に居たいだけの、単純な男子小学生だったのだろう。


「え、えっと、ど、どうしよう、海人くん。仲直りしたいのは私も同じで、海人くんの気持ちはとっても嬉しいんだけど……なんか、こう、今、すごく……顔が熱くて、しょうがないの……」


 加えて、海月も随分と単純な女子小学生だったのだろう。

 彼女は自分の心情を包み隠さずに告げると、頬を真っ赤に染めてこちらを見つめ返してきた。


「は、はぁ!? きゅ、急に何言ってんだよ!?」


 後にも先にも、この時ほど胸がムズ痒くなるような経験をしたことはない。

 恋愛経験のないガキだった俺は語彙力を失い、苦し紛れに照れ隠しの言葉を捻りだすことしかできなかった。


「ああ、そっか。私、わかっちゃった。私が家の中じゃなくて外に逃げたのって……海人くんに、捕まえてほしかったからなのかも……」

「はあっ!? だ、だからっ! 急に変なこと言うなって! ああ、もうっ!! ホント海月はヘンなヤツだなっ!!」

「ふふっ。でも海人くんも、こんな私とずっと一緒に居てくれるヘンな子なんだよね?」

「っ! そ、それは……まあ、否定はしないけどさ……」


 その後はしばらく互いに赤面したまま、ぎこちない会話を続けた。

 いつのまにか手を繋ぎ、星の光が散らばっている海を二人でぼんやりと眺めた。


 それが、俺にとって一番大事な彼女との記憶。

 幼さ故に傷つけてしまい、幼かったからこそ素直に仲直りができた──そんな、どこにでもあるような、初恋の思い出。


 あの日見た景色を、俺は生涯忘れることはないだろう。


 夜の海に浮かぶ満月は、まるで水槽の中で浮遊する白いクラゲのようで。

 だからこそ、人は”海”に”月”と書いて”クラゲ”と呼ぶのではないかと──


「えへへ。明日からはもっとお話ししようね、海人くんっ!!」


 ──そう気づいて、改めて”海月”の美しさに心打たれた、あの夜を。


 俺は一生、忘れることはないだろう。


≠≠≠≠≠


 その後の海月との関係は、別段語ることはない。

 小学校の間は一緒に居る時間が増え、その流れで中学・高校・大学は同じところへ進学し、就職してからはどちらから誘うでもなく自然と同棲する流れになった。


 なんというか、俺と海月は想像以上にウマが合い過ぎていた。


「あれ、海人くん? そんなところで何してるの?」


 そして、同棲生活六年目を迎えた現在。

 大人になった海月はまだ少々変人ではあるが、流石に今は自重して石のアクセサリーでなくダイヤの結婚指輪をつけている。


 俺と彼女は夫婦として、今でも時間を共にしているわけだ。


「あー、部屋の片付けしてたらアルバムがでてきてさ。そしたら、昔の俺らの写真がでてきたんだよ」

「なるほど。その流れで思い出に浸っていたわけだ」

「ま、そういうことさ。いやー、しかし歳を食うってのは嫌なもんだね。一度過去に想いを馳せると、どうにも抜け出すまでに時間がかかる」

「もうっ、そんなジジ臭いこと言わないの。海人くんにはまだまだ若々しくいてもらわないと困るんだから。……ねっ、?」

「ははっ、それもそうだな」


 あと数週間ほどで、俺たちは変人夫妻のDNAを受け継ぐ新たな命を迎え入れる予定になっている。

 正直どう育つのかは皆目見当もつかないが、無事に生まれて元気に生きてさえくれれば、一旦はそれでいい。


 あとは、まあ。


「名前、どうしよっか?」

「意外と悩むよな。でも、そろそろ決めねぇと」


 俺たち親子と同じ悩みを抱えないように、なるべく普通の名前をつけてやろうと思っている。






 




 

 


 

 



 







 



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水面に浮かぶ月 Taike @Taikee

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