カットモデル

「カットモデルになっていただけませんか」と声をかけられたことがあります。


駅の改札を出たところでした。




髪型に関して、お客様のご要望を伺ってからカット致します。

ご要望通りにカットするという訓練です。

もちろん代金はいただきません。



ということでした。



その場では返答せずリーフレットをもらって帰りました。



友だちは「カットモデルなんてどんな風にされるかわからんよ」と心配してくれたけれど、私は楽観的な人間なので前向きに考えました。


生活費を切り詰めていたので、無料で髪を切ってもらえるのは助かるな、と思ったのです。



とはいえ、どんな美容室なのか少しでも調べようと自宅でタウンページをめくりました。


多くの支店を持つ美容室で、うちの近所にも支店があることがわかりました。


散歩がてら外観を見に行ってみたら、明るく爽やかな感じのお店で、怪しげな雰囲気はありません。


ここなら大丈夫そう。


私はその美容室に承諾の電話をしました。




その美容室に行ったのは夜です。


閉店後の店内には私を含めて五、六人のカットモデルと、十数人の美容師が集まっていました。



この日はベテランの美容師が新人の美容師のカットを指導し、他の美容師たちはそれを見学するということでした。



私を担当してくれたのは、二十歳過ぎくらいの男性美容師(見習い?)でした。



要望を訊かれた私は、

朝のセットに時間がかけられないのであまり手間のかからない髪型にしたいことと、

暑い日にはポニーテールに出来るように長さを残して深すぎるシャギーやレイヤーを入れないで欲しいことを伝えました。



それを踏まえたはずの私の担当者の提案は次のようなものです。



「髪が真っ黒で重く見えるので、襟足から下を多めに削いで量を減らしましょう。

トップと後頭部にはたっぷりとボリュームをもたせてドライヤーで膨らませて……」



……今ここに書いていても、彼の言う髪型がイメージできません……



ただ、なんとなく、朝のセットに時間がかかりそうだなと思いました。


それと、そんなに削いでポニーテールにできるものだろうかという疑問を抱きました。



「ご理解いただけたでしょうか?」


「……すみません……ちょっと、よくわからない……」




私が困惑していると、指導者が彼に言いました。



「君はお客様の要望を全く取り入れていない。それではだめだ」と。



「その髪型はブローに時間がかかるしポニーテールにもできない。

それに、まめに美容室へ通ってカットしなければ維持できない」



つまり手間暇とお金がかかる髪型ということでした。


今考えると、あの若い美容師は冒険心と探究心に満ちあふれていて私が望んでいる髪型では平凡すぎてもの足りなかったのかも知れません。


この機会に自分の技術とセンスを試したいという気持ちがあったのでしょう。


それゆえ彼は「要望を理解してそれに沿うようにカットする訓練」という本来の目的から外れようとしていて、それを指導者が指摘してくれたのでした。



そのときの私の髪型は重めのレイヤードで、指導者は「その髪型は似合っているのでそのままのイメージで、長さをあまり変えずに内側にレイヤーを入れましょう」と提案してくれました。


そうすることで軽さが出るし、毛先が自然に内向きになるのだそうです。



指導者は私が大胆なイメージチェンジではなく手入れのしやすさを求めていることを理解してくれたのでした。



新人さんの内心はわかりませんが不満げな様子はなく、素直に指導を受けながら私の髪をブロッキングして内側の髪の毛にゆっくりと鋏を入れてゆきました。


新人さんたちにとって内側にレイヤーを入れていく技術の習得は重要らしく、たくさんのひとが私たちの周りに集まって見ていました。


仕上がった後、床にはたくさんの髪の毛が散らばっていました。


その割に見た目は少しボリュームダウンしただけで大きな変化はなく、しかし髪に指を入れてみると確かに通りやすくなっていて、頭が軽く感じられました。



カットしてくれた新人さんは店の外まで出て深々とお辞儀をして見送ってくれました。


私は彼にお礼を言って気分よく帰宅したのでした。



勉強って、いろいろありますね。


技術を磨くだけではなく、説明する能力も身につけること。


相手の要望を理解し汲み取ること。


そして何よりも礼儀。


指導者は「お客様本位」ということを彼らに教えたのでしょう。



ちょっとスリリングだったけれど、なかなか面白い経験でしたよ。


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