言葉にならない
セクストゥス・クサリウス・フェリクス
第1話:白い帰路
「春までは持たないでしょう。」
窓の外では、雪が音もなく降り続けていた。北海道の二月、世界は白一色に包まれている。診察室の中も、白い壁、白い天井、白い医師の白衣——すべてが無機質な白で構成されていた。
早瀬誠一(74)は、その宣告を無表情で受け止めた。彼の顔には、驚きも恐怖も浮かんでいない。ただ静かに頷いただけだ。
「そうですか。」
長年の喫煙による肺がん。末期だった。発見が遅すぎた。
「治療の選択肢もありますが、副作用を考えると…」
「結構です。」誠一は医師の言葉を遮った。「それでも、春までは生きたいんです。」
医師は黙って頷いた。カルテに何かを記入し、処方箋を手渡す。
「痛みが強くなったら、これを。」
誠一はそれを受け取り、立ち上がった。診察室を出る前、彼は振り返らずに訊ねた。
「先生、北海道の春はいつ来ますかね?」
医師は少し考え、「例年なら四月中旬ですが…」と答えた。
「そうか、あと二ヶ月か。」誠一は小さく呟き、診察室を後にした。
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雪道を一人で歩く。足元はぬかるみ、靴下に冷たい雪解け水が染み込んでいく。かつて人気絵本作家だった早瀬誠一の姿を知る人は、もうこの町にはほとんどいない。彼が描いた『小鳥の旅立ち』シリーズは、今でも全国の子どもたちに読まれているが、その作者が今どこで何をしているかを知る人は少ない。
誠一は雪を踏みしめながら歩き続けた。自宅まではバスもあるが、彼は歩くことを選んだ。
「あと二ヶ月か…」
雪景色の中、彼の吐息が白い霧となって溶けていく。
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「ただいま。」
古い一軒家に帰り着いた誠一が玄関で呟いた。もちろん、返事はない。彼が一人暮らしになって十年になる。妻の美和が他界してからだ。
靴を脱ぎ、上着を脱ぎ、リビングに向かう。そこの棚に飾られた美和の写真に、誠一は今日も報告する。
「今日も雪だったよ。」
写真の中の美和(享年62)は、いつものように微笑んでいる。温かな笑顔、家族の要だった女性。誠一は写真を見つめたまま、今日の診断結果については何も言わなかった。
台所で簡単な夕食を作り、一人で食べる。テレビはつけない。ラジオも聴かない。家の中には誠一の咀嚼音だけが響く。
食事を終えると、書斎に向かった。ここは彼の城だ。壁には自分が描いた絵本の原画が何枚か飾られている。本棚には自著と、好きな作家の本が並ぶ。
机に座り、引き出しから一冊のスケッチブックを取り出す。表紙には『春に還る』と書かれている。二十年前に構想し、途中で中断した未完の絵本だ。
頁をめくると、色鉛筆で描かれた小鳥の姿がある。巣から飛び立ち、未知の世界へと旅立つ小鳥。
「春までか…」
誠一は椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。
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次の日、誠一は屋根裏に上がった。脚立を使って昇るのは辛い。息が切れ、咳き込む。それでも彼は古い木箱を探し出した。
「美和の箱」
そう呼んでいる、妻の遺品を収めた箱だ。下ろしてきて、リビングのテーブルに置く。蓋を開けると、懐かしい香りがした。微かに残る美和の匂い。
中には写真アルバム、手帳、お気に入りだったスカーフなどが入っている。誠一は一つ一つ手に取り、思い出に浸った。
そして箱の底に、一つの封筒を見つけた。
「凛へ」
そう書かれた封筒。美和が書いたものだ。誠一はそれをしばらく見つめていた。封は切られていない。
彼は新しい封筒を取り出し、その中に診断書のコピーを入れた。そして自分の字で宛名を書いた。
「早瀬 凛」
娘の名前を書きながら、誠一の手は少し震えていた。十年ぶりに書く名前。東京の住所は、以前に病院からの案内が届いたときのものを使った。誠一は封筒に切手を貼り、ポストに投函するために再び雪の中へと歩き出した。
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東京、大手広告代理店のデザイン部。
「凛さん、このデザイン修正してもらえる?クライアントから色味の変更依頼が来てるんだ。」
早瀬凛(34)はデスクで作業をしていた。妊娠6ヶ月だが、まだ働き続けている。彼女は同僚の声に振り向き、「わかった、やっておく」と答えた。
周囲からは「無理しないで」と言われ続けているが、凛はそれを聞き流す。彼女にとって仕事は逃げ場でもあった。考えたくないことから意識をそらす手段。
同僚の女性が近づいてきて、小声で訊ねた。
「大丈夫?一人で産むって決めたんだよね。」
凛はパソコンの画面から目を離さずに答えた。「うん、問題ないよ。」
「お父さんには伝えたの?」
その質問に、凛の手が一瞬止まった。「…まだ。いつか父に会わせるかもしれないけど、まだ言えない。」
仕事を終え、地下鉄に乗る凛。混雑した車内で、ふと腹に手を当てる。小さな命の鼓動を感じた。そのとき、向かいの席に老父と娘らしき女性が座っていることに気がついた。二人は穏やかに会話し、時折笑い合っている。
凛はその光景から目を逸らした。
アパートに戻ると、ポストに一通の手紙が入っていた。見慣れない筆跡の宛名。差出人を見て、凛は息を呑んだ。
「父さん…」
十年ぶりに見る父の字だった。
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雪が降り続く北海道の駅。凛が降り立った。重いコートを纏い、マフラーで顔を半分隠している。
ホームの端に、一人の老人が立っていた。以前より小さく、痩せて見える父の姿。
お互いに気づいても、二人は歩み寄らなかった。
やがて誠一が口を開いた。「来てくれたか。」
凛は小さく頷いた。「久しぶり、お父さん。」
言葉少なに挨拶を交わす父娘。駅を出て、誠一の車に乗り込む。古いセダンの中は冷え切っていた。
「暖房、つけるよ。」誠一はエンジンをかけながら言った。
「ありがとう。」
それだけの会話で、車は雪道を走り始めた。窓の外は白一色の世界。凛は十年ぶりの故郷の景色を黙って見つめていた。
父と娘。血は繋がっていても、心の距離は遠い。その間を埋めるように、雪だけが静かに降り続けていた。
凛はふと、車窓に映る自分の横顔を見つめた。そこに映っていたのは、十年前と同じ、自信のない少女のままだった。彼女は無意識に腹に手を当て、まだ見ぬわが子の鼓動を確かめるように、そっと目を閉じた。
(つづく)
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