花の香りと共に

はろ

花の香りと共に

「プルースト効果って知ってる?」


 甘い花の香りのお茶をティーポットからカップに注ぎながら、いつもと変わらず美しい妻が僕に聞く。

 目の前に置かれたティーカップは、彼女の気に入りのデンマークのブランドのものだ。滑らかな白磁にレースのような縁取り、涼やかな青色の線が目を引くそれは、それなりに値は張るが使い心地はとてもいい。

 とはいえ妻――綾音と結婚するまで、僕はこういったものに少しの興味も持っていなかった。綾音と結婚しなければ、食器に金をかけるという価値観すら知らないまま生きていただろうと思う。

 僕は綾音の質問には答えずに、まずはカップを持ち上げてお茶の香りを楽しむ。「何だっけ、これ」と尋ねると、彼女はダイニングチェアを引き、僕の向かいに座りながら「ジャスミンティーよ」と言った。


「なるほど、ジャスミンティー。……何度か聞いているはずだけど、こういうのはさっぱり覚えられないな。……いや、もしかして……以前の僕なら覚えていたのかな?」


 少し不安な気持ちになって聞くと、綾音は穏やかに微笑みながら「前から覚えてなかったわ、健吾くんはこういうことを覚えるのが苦手よね」と言う。


「それで、プルースト効果って知ってる?」


 綾音に再び聞かれて、僕は質問を無視していたことを思い出した。


「あぁ、ええと……知らないな。何なの?」

「私もついこの間知ったんだけど……あのね、人間の記憶は匂いと結びつきやすくて、特定の記憶に結びついた匂いを嗅ぐと、その記憶を思い出しやすくなるんですって。それを、プルースト効果っていうみたいよ」

「……へえ」

「お医者さんがね、健吾くんの症状にも効果があるんじゃないかって仰ってたの。認知症の患者さんも、懐かしい匂いを嗅ぐと、誰かわからなくなってしまった家族のことを急に思い出すことがあるらしいわ」

「……つまり、ジャスミンティーの香りには何か、僕の記憶が関連付けられているかもしれないということ?」


 僕は十日ほど前に記憶喪失になった。とはいっても、いわゆる自分がどこの誰なのかも全く分からなくなってしまうような完全な記憶喪失ではなく、部分記憶喪失というやつらしい。家の中で転倒し、どこかに頭をぶつけてからというもの、僕はここ半年あまりに起きた出来事を全て忘れてしまったのだ。

 けれど自分が何者なのか、そして愛する妻が誰なのかについてはしっかりと記憶している。だから正直、日常的にはそこまで大きな支障はない。

 医者にも、焦って記憶を取り戻す必要はないと言われているし、妻も思い出せないならそのままでいいわとよく言っている。けれどやはり心配ではあるのか、度々彼女はこのように、僕の失われた記憶に働きかけるようなことをしてくれる。


「……そうよ。あなた、ここ最近ジャスミンティーが気に入っていたの。でも何も思い当たるところがないなら、きっとやっぱり、思い出せないのかもしれないわね」

「……ごめん。せっかく僕のために淹れてくれたのに」


 どこか悲しげに言う綾音に申し訳ない気持ちになって、僕はティーカップを握る彼女の手に自分の手を重ねる。


「ふふ、別にいいのよ。例え私のことさえ忘れてしまったとしても、お芝居の台詞さえ覚えていられるなら、あなたはそれでいいの」

「すべてを忘れても、君のことだけは絶対に忘れないよ」

「……あら、本当かしら?」


 僕の名は相良健吾、職業は俳優だ。ここ数年は売れっ子と呼ばれて違和感がない程度に継続的に仕事が舞い込み、記憶喪失になってしまった今現在もドラマの撮影が一本、映画の撮影が一本控えている。幸い、新しく物事を覚える機能には影響がないらしく、彼女が懸念するように台本を覚えられないというようなことは起こっていない。

 綾音と出会う前まで、実を言うと僕は全く売れない俳優だった。地方の小劇団に所属し、時々上京して様々なオーディションに出ては落ちるを繰り返し、アルバイトをいくつもかけ持ちして何とか生活していた。劇団の中では主役級の存在ではあったが、それ以上の何かになれる気配はまるでなく、生活は充実していたが次第に閉塞感も覚え始めていた。

 そんなある日、綾音と出会ったのだ。彼女は、僕の所属する劇団の公演にお客として来ていた。客席の中でも光り輝くように見えていたほど、スポットライトの当たる側にいるのが僕らであることがおかしく思えるほどに、その時から彼女は美しかった。

 実は、彼女は知る人ぞ知る有名人なのだ。綾音はこの国の国民なら誰もが知っているほどに著名な大俳優、大川原行人の娘なのである。どうやらうちの劇団員の誰かの友達の友達の友達だったとかいう話で、地方旅行のついでにふらりと僕たちの公演に足を運んだのだという。

 そこで、僕は彼女に見初められた。公演が終わるなり楽屋を訪ねてきた彼女は、僕の手を握って「あなたはもっと光り輝く舞台にいるべき人よ」と囁いたのだ。出会った瞬間から、綾音は僕のプロデューサーになり、そして恋人にもなった。

 僕は綾音に導かれるようにして上京し、彼女の伝手で有名芸能事務所に所属させてもらえることになった。僕は彼女と同棲しながら事務所が薦めるオーディションに次々に出、そしてこれまでの体たらくが嘘のようにあらゆる役を手にしていった。

 僕自身の実力と、上京してからの彼女によるプロデュースが的確だったおかげ――と思いたいが、実際はかわいい一人娘が入れ込んでいる未来の婿の将来を案じて、大川原行人があちこちで話を通しておいてくれたおかげらしい。それを知った時には多少プライドが傷付けられたけれど、しかしコネであろうとなんだろうと、目の前のチャンスを掴まない奴は愚かだと思う。

 それに、その後も仕事が続いたのは、やはり努力あってこそのことであり、僕にそれなりの魅力があったからだろう。最初は逆玉の輿のコネ野郎などとひどい悪口を言う奴もいたけれど、近頃は『若手実力派イケメン俳優』という呼称が定着するほどに安定した実績を築きつつある。

 仕事が軌道に乗ると、綾音の父は僕と彼女の結婚を許可してくれた。今ではあの大俳優が、僕のことを自慢の息子だとすら言ってくれているのだ。それもまた、僕にとっては大変な誇りだ。


「……そういえば、さっきの電話ってマネージャーからでしょう?次の映画の相手役、やっぱり交代になりそうなの?」


 妻がふと思い出したように言う。確かに、僕はつい先ほどまでマネージャーと通話していた。


「そうみたいだ。春谷さん、まだ連絡が取れないんだって。心配だな」


 春谷優花は、僕が次に出る映画でヒロイン役をするはずだった女優である。まだ二十代前半で、雑誌モデルから昨年女優に転向したばかりだが、なかなか堂々とした良い演技をする。グラビアの経験もあるほど豊満な身体をしているが、それに反してどこか幼気な童顔をしているところが魅力で、かつ無邪気で天真爛漫なキャラクターが世間に受けている。プライベートでもニコニコと笑顔が絶えず、僕に対しても初対面から人懐こくて、「ずっとファンでした」なんて言いながら腕を組んできたっけ。

 しかしそんな彼女が、つい先日突然に失踪してしまったらしい。あの積極的な姿からは想像もつかないことだが、どうやら初めての映画出演のプレッシャーで近頃精神的に参っていたという。春谷さんから直接聞いたわけではないけれど、とにかく業界ではそのように噂されている。


「本当に心配ね。まだ若いのに……あなたも頑張りすぎないでね。特に今は病人みたいなものなんだから」


 優しい綾音に気遣わしげにそう言われ、僕は大丈夫だよと笑顔を返す。妻を安心させるためにも、次の映画ではさらにいい演技をしなくてはと思っている。



 ところで記憶を失ってからというもの、僕はふいに違和感に襲われることが多くなった。まあ、日常に支障はないとは言え半年間もの記憶を無くしているのだから、当たり前かもしれないが。

 例えば、部屋にドライフラワーを生ける妻の姿を見たとき。少なくとも半年前までは、妻が生けるのはいつも生花だったように思う。妻はフラワーアレンジメントの資格も持っていて、とにかく家に花を飾るのが好きなのだ。

 けれど彼女にそう指摘したら、不思議そうな顔で「前からドライフラワーを飾っていたわよ」と言われた。長持ちするからこっちの方が楽だもの、と。

 それから、スマートフォンを操作していても何か違和感を感じる。あったはずのアプリが無くなっているような、あるいは知らないアプリが突然増えているような、ちぐはぐな感覚に囚われるのだ。

 つまり、記憶のある半年前と、十日ほど前までの間に、僕のスマートフォンにインストールしてあるアプリのラインナップが変化したということなのかもしれない。妻に、半年間に僕のスマートフォンにどんな変化があったか知らないかと一応聞いてみたが、知るわけないでしょうと呆れたように言われてしまった。

 またなにより強い違和感を感じるのは、クローゼットの中身だ。僕は上京してからというもの、服も靴も何もかも妻がコーディネートしたものを身に着けてきた。地方の劇団員をやっていた頃はそもそも金がなく、着るものなんて適当なものだったけれど、彼女は見た目も売り物の商売でそんなことでは駄目だと、これまで身につけたことがないようなハイブランドの衣類を山ほどプレゼントしてくれたのだ。どれもシンプルながら高級感があり、シックな色合いのものばかりだ。

 しかし今のクローゼットの中には、明らかに妻が選んだのではない服が紛れ込んでいる。妙に派手で、僕が着るには若作りが過ぎると感じられるようなものが。さらに気味が悪いことに、下着もずいぶんと派手なものが何枚も増えている。

 この半年の間に僕が買ったということなのだろうが、なぜそんなことをしたのかがわからない。次の映画では実年齢より五歳若い役をやるし、劇中では回想シーンで高校時代も演じることになっているから、役作りの関係か何かだろうか。

 これについては、どうにも嫌な感じがして、妻にも何も聞けていない。


 記憶喪失になったことは、妻の他には事務所の数人にしか明かさず、その後も僕は忙しく仕事を続けた。キャリアは確固たるものになってきたとはいえ、まだまだ歩みを止めていい時期ではないからだ。

 そしてその合間を縫って、一応ちゃんと病院には経過観察に通っている。妻が僕を心配して、しきりにそう頼むからだ。


「相良さん、記憶はまだ戻らない……と」

「はい。……先生、それは別にいいんですが、半年分も忘れている記憶があると、日常的にもどうにも何か……違和感を覚えることがあって。気持ちが悪いんです」

「そう。まあ、そうでしょうねぇ……。しかしねえ、これほどまで長い間記憶が戻らないとなると、原因は頭を打ったことだけじゃないかもしれませんね」

「……というと?」


 病院に運び込まれた直後と、つい先程撮ったばかりの僕の頭部CT写真を見比べながら、医師はボソボソと言う。


「脳はパッと見て分からないことも多いから、注意はしてきたんだけどね。相良さんねぇ、実は頭の方にはそんなに問題は無さそうなんですよ。つまりね、他に原因がある可能性もあって……『解離性健忘』って、聞いたことありますか?」


 言いながら、医師は手元のメモ帳にその通りの文字を書く。見たこともない言葉である。


「これはね、いわゆる精神的な問題なんです。何かショックの大きい出来事に直面した場合に、精神が自己防衛して、負荷から逃れるために嫌な記憶を忘れちゃうことがあるんですよ。不思議でしょう?相良さん、特殊なお仕事だから、ストレスも多いんじゃないかと思いましてね。頭を打つ前後に、何か忘れてしまいたくなるほどに苦痛な出来事が起きた可能性はありませんか?」

「忘れたくなるほど、苦痛な出来事……?」


 医師の話は僕にはあまりに突拍子もなく思えた。確かに仕事が軌道に乗っているからこそ、同時にプレッシャーも大きくなり、ストレスを感じることが無いわけではない。

 映画でもドラマでも、その製作には百人規模の人間が関わる。そして主演級の役を任される場合、ある意味では僕の仕事の出来が彼ら全員の今後の生活の命運を握っていると言っても過言ではない状況になるのだ。売れていなかった頃には感じたことのないような責任を背負いながら、今僕は仕事をしている。

 けれど、だからってそのせいで記憶まで失ってしまうだろうか?そこまで、僕のメンタルが軟弱とは考えたくはない。


「……まあ、そう言われてもわかりませんよね。記憶を失っているわけだから。とにかくね、精神的な問題だった場合、理由があって思い出さずにいるということですから。つまり無理に思い出そうとするのは、自傷行為のようなものなんです。ですから思い出せないままだとしても、そんなに気に病まないで、ね」


 医師にわかりましたと答えながら、僕はこの話を綾音にするかどうか迷う。話したら、もっと心配させてしまうかもしれないからだ。

 綾音はいつでも僕のことを一番に考え、僕を深く想ってくれているから。


 ヒロイン役が未定という異例の状況ではあったが、演者がそれぞれに多忙であるためリスケジュールが困難だということで、予定通り次の映画の『本読み』が行われることになった。作家や演出が、演者に意図やニュアンスを説明しながら台本を読むという、作品づくりの初期に欠かせない過程である。

 春谷さんのことがあるので本読みの場にはどこか異様な緊張感が漂ってはいたけれど、だからこそみんなで力を合わせて苦境を乗り越えようという一体感も感じられ、なかなか良い現場になりそうな気配があった。本読みを終え、僕は撮影が今から楽しみで仕方がなくなってしまった。

 綾音にも今日の話をしてあげようと思いながら帰路につくとき、僕はふと、あの『解離性健忘』の話をやはり彼女にはするべきなのではないかと思い至った。悩み続けていたが、献身的に僕のフォローをしてくれている彼女には、伝えるべきだろうと思う。

 そして同時に、日頃の感謝も伝えようと思う。綾音の心配を和らげるためにも役立つだろうと思い、僕は家の近くの花屋へと立ち寄った。

 思い返してみれば、驚くべきことに、僕は花好きの綾音に今までで一度も花を贈ったことがなかった。綾音は基本的に僕なんかよりずっと上質でセンスのいいものを知っている人だから、恥ずかしくて自分で買ったものや選んだものを彼女にあげたことがないのだ。


「いらっしゃいませー……あら、」


 店主と思しき中年の女性が、僕の顔を見てはっとしたような顔をする。僕はバケットハットを目深にかぶってマスクまでしているが、相良健吾であることに気付かれてしまったかなと思っていたら、女性は思ってもみないことを言った。


「またいらして下さったんですね。お花、どうでしたか?奥様に喜んでいただけました?」


 僕がこの店に来たのは今日が初めてのはずだし、綾音に花をあげたこともない。だから誰かと人違いをしているに違いないと思ってから、僕ははっと気付いた。

 おそらく僕は記憶のない半年の間にこの店に来て、そして綾音に花を買ったのだ。

 その時、僕は以前聞いた綾音の言葉を思い出していた。『プルースト効果』――特定の記憶に結びついた匂いを嗅ぐと、その記憶を思い出しやすくなるという話。

 そして同時に思いついた。綾音に初めて花を贈った時の記念すべき記憶ならば、もしかしたら、思い出せるのではないか。


「はい、すごく喜んでくれて。なので、先日とまったく同じ花束をもう一度作ってもらえませんか?妻がその花を気に入ったようなので」


 僕が言うと、女性はうれしそうな様子で快く引き受けてくれる。彼女が作ったのは、白とピンクの花を中心にした可愛らしい花束だった。




「グランオマージュ、か……」


 花束を抱え、僕は自宅への道を急いでいた。花屋の女性は花束に使われている花の名前を一つ一つ丁寧に教えてくれたが、そのうちのピンクがかった白薔薇の名前がそう言うのだという。フランス語で、『大いなる尊敬』という意味らしい。

 僕が綾音に贈るのにぴったりの花だ。それに、甘く香しい芳香もする。僕はそれを思い切り吸い込み、きっと幸福な記憶だったのだろう失われたそれを取り戻そうとする。


『きれい!』


 その時、僕の脳裏に誰かの笑顔がよぎった。それから弾む声、屈託無く僕に抱きついてくる豊満な身体。


『とってもいい匂いですね!こんなもの用意して下さったなんて……とってもうれしいです!』


 可愛らしい声が耳元に蘇る。僕と彼女は自宅のマンションにいて……ダイニングテーブルには、二脚のデンマークのブランドのティーカップ。

 そこに注がれているのは、ジャスミンティー……ああ、綾音の言う通り、やはり僕はジャスミンティーをよく飲んでいたのだろうか。

 失われた記憶が少しでも蘇ったのは初めてのことで、僕は興奮気味にさらに朧気な痕跡を辿っていく。


『おみやげのジャスミンティー、美味しいね。ありがとう』

『いえいえ。この間、北京で撮影があったんですよ。でも健吾さん、お茶を淹れるのも上手なんですねー。奥様が羨ましいな』


 僕の目の前でそう話すのは、綾音――――ではない?


 二重でくりっとした大きな瞳、丸い輪郭、キメの整った若い肌、どこか幼気な雰囲気。明らかに、綾音――じゃ、ない。

 彼女がいるのは僕と綾音のマンションだけれど、けれど、彼女は綾音ではない。


『今は妻の話はしないでよ。君のことだけ考えていたいから』

『……ふふ。優花、幸せです』


 歯の浮くような口説き文句を言ったのは、確かに僕であるような気がする。そして僕に、やわらかい胸を押し付けながら抱きついてくるのは――彼女だ。春谷優花。

 僕は道の真ん中で花束を抱きしめながら、急激に全てを思い出していた。春谷優花と顔合わせをしてから、いかにして仲を深め、丁度綾音が泊まりで留守にしている自宅に、こっそり連れ込むまでになったのか。

 魔が差したのだ。

 いや、綾音も悪いと思う、とにかく彼女には感謝はしているけれど、彼女はあまりに束縛が強いところがあって、だから僕も息苦しくて仕方なかったのだ。地方で売れない俳優をしていた頃は全ての決定権は僕の手にあったのに、綾音と出会ってからは何もかも彼女に決められて彼女に与えられる暮らしで、それは大人の男としてはいささか情けなさを感じるようなものだったし、綾音が僕を尊重してくれないから、いやそもそも、綾音は美人だけど僕の好みはもっと童顔の――。

 どうしようもない言い訳のような、自己弁護のような思考が頭をぐるぐる巡る。そうしながら、気付けば僕は自宅に帰り着き、間抜けなことに玄関の敷居をまたいでから初めて、この花を綾音に見せるわけにはいかないことに気付いた。

 幸い、綾音は留守のようだ。僕は足をもつれさせながら台所に駆け込み、ゴミ箱に花束を押し込むと、今度は寝室に急ぐ。それからスーツケースを引っ張り出すと、そこに服を詰め込み始めた。

 気が動転していて、自分が今何をしているか、何をすべきかもよくわからない。けれど、綾音に会ってはいけないことだけはわかる。

 僕が思い出したのは、浮気をした事実だけではないのだ。僕はあの日、あの後、家の中で転倒し、頭を打って記憶喪失になった。そしてそこに居合わせていたはずの春谷優花が、一体どうなったのかと言えば。


「どうして捨ててしまったの?こんなに綺麗なのに」


 突然、背後で声が聞こえた。振り返ると、僕が捨てたせいでひしゃげた花束を抱えた綾音が、美しい微笑みを浮かべて立っている。


「いい香りよね、グランオマージュ。私、すごく好きよ……あの子も、好きだったのかしら?」


 妻がそう言いながら、片手に握りしめた、プラスチックで出来た四角く黒いものを僕に見せる。それはテレビのリモコンほどの大きさで、長方形の短辺のほうに金属の部品が2つ並んでくっついている。

 あれを、見たことがあった。見たことがあるだけではない、首筋に押し当てられたことがある。その途端、バチバチッという音と同時に電気性の刺激が全身に走り、僕は意識を失った。

 そしてそうなる前、僕はまず同じことをされて気絶する春谷優花の姿を目撃していた。

 あの日。数日家を空けると言って出掛けて行った綾音は、実は家の中に潜んでいたのだ。そして、僕と優花を……。


「健吾くん。……あなたが悪いのよ?」


 にっこり笑って、綾音が近付いてくる。スタンガンを片手に。

 僕はもう、一歩も動くことは出来なかった。

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