アヒルと白鳥

@tsubosumire

第1話

「ねえ、白鳥は好き?」

何を話せばいいか、口を開いていいのか困っていると、彼女がふと、そう聞いてきた。

『好きよ。鳥の中でも特に。』

記憶の中にあったセリフを引っ張り出してくる。中等部時代、彼女が私に勧めてきた本の一節。主人公が病気の姉と話している場面だ。彼女は当時から急に、この本の好きな場面のセリフを言ってきて、私に返事をさせる。私は本が嫌いだった。セリフを覚えるのにも一苦労だった。

けれど、私がそれに応えられないと彼女は不機嫌になるのだ。だから必死に覚えた。勉強が少し疎かになってしまうくらいには。

しかしこれは、彼女なりの優しさだということを私は知っている。私は人とのコミュニケーションが非常に苦手で、普段の何気ない話でも返答に困って詰まってしまう。

その悩みを初めて打ち明けた時彼女は、にやっと笑った。

「じゃあ、あらかじめ用意してあるセリフを言えばいいのよ。」

私はこの、人が『にやっと』笑う瞬間が昔から苦手だ。私が日常で使っているこの手法を提案したのは、他でもない彼女だった。

人が『にやっと』笑った瞬間。それは何かを面白がっている時の笑い方だ。面白いのは相手だけでこちらとしては微塵も面白くない。自分だけが面白いと思っているものを相手に押し付けて『あなたも面白いでしょう?』と笑う。それが『にやっと』した笑い方だと、私はよく知っていた。

彼女がこの笑い方をした時、私は恐怖心を覚えたのだ。ああ、こんな所にもいた、と。

ようやく安心できる場所に着いたと思ったら、そこにも恐怖が待っていた時のような、ホラー映画のような感覚。物語で言えば、『注文の多い料理店』。自分が考えている最上級の思い付きを、相手に投げて人助けをしたような気分に浸る。その雰囲気が、私は昔から嫌いだ。

彼女の隣で私は読書をしている。いや、私が読書をしている横で彼女が話しかけてきている。

文字の羅列を目で追い、相変わらずつまらない『私らしい』本だ、と心の中で嘲笑する。彼女は私に寄りかかるようにして、中庭の噴水に目をやっていた。

心臓が早鐘を打つ。言うか言わないかの瀬戸際で、彼女に聞こえないよう小さく息を吸った。

「あなたは、どうなの?」

彼女は丸い目を少し大きくした。

「私?・・・私は・・・好き。綺麗だから。」

「・・・そう。」

セリフではなかった。言えた。彼女が思い悩んでいる間、私は呼吸できなかった。体が強張ってしまったから、多分彼女にも緊張は伝わっているだろう。安心したように私は本のページをめくった。再び彼女に話しかけられて、今度は簡単な相槌で返す。キャッチボールになりそうでならない会話が終わると、またページをめくる。

昔は、本を見ている時に話しかけて欲しくなかったから返さずに無視していたけれど、しつこく話しかけてくるので仕方なく返していたら慣らされてしまった。しかし文章をしっかり読んでいる訳ではないので、本当に読書中に話しかけられる苦しみを私は知らない。

そろそろ緊張と活字で頭が痛くなってきそうな時、彼女が口を開いた。

「私と話すことと好きでもない本を読むこと、あなたの中ではどっちの価値の方が大きいのかしら。」頭痛が本格的に始まった。話せないなりにも色々考えは浮かぶ。その時は、どんどんと彼女に対しての文句が浮かび上がってきた。

面倒くさい。あなたの提案でしょ?なんで自分で言ったことを簡単に忘れるの。発言の責任を持って。私には人生を支配されてしまうくらい重い言葉だったのに。

あの時の彼女の『にやっと』した顔が浮かんでくる。

結局その場限りの考えだった。ただ面白ければそれでよかったし、私がそれに対して何を思うか、何を感じるかなんて考えもしなかった。

「そんなの!・・・」

語気が強まった割に、そこに続く言葉はなかった。先に話すのは、やはり彼女だった。

「あなたを一番最初に見た時、白鳥だ。って思ったの。」

「私も・・・あなたのこと白鳥だって思ったわ。」

なんとか返すと、彼女は笑った。もう、『にやっと』ではなかった。

「私は白鳥じゃない。私はアヒルなのよ。」

手が、勝手にページをはらりとめくった。

「私は、絶対に白鳥にはなれない。」

鐘はまだ鳴らなかった。この雰囲気を壊してくれるなら、もう鐘でもなんでもよかったのに。

彼女は立ち上がり、教室へと走っていく。

また、ページをめくってしまった。





穏やかな午後だった。晴天ではなかったけれど、過ごしやすい気候だ。

「私、あなたのことが嫌い。」

「・・・知ってる。」

その言葉は私を安心させるものだった。噴水がドレスのように広がり、眩しいくらいに光を受ける。

もう彼女の言葉を待ってはいなかった。

「・・・・・・」

「・・・あなたからは何も言ってくれないのね。」

ページをめくる。返せるセリフも、言葉も、何も思いつかなかった。

「さようなら。」

彼女は、別れ際に何も言わないことが多い。手を振ることはあっても、その時ばかりは私が「また明日。」や「じゃあね。」などと言うのを待つ。

その言葉に、ただ「珍しい」という感想しか出てこなかったのは、縛られているものがなくなった表れと思ってよかったのだろうか。









その言葉が彼女から私への餞の言葉だったと気付いたのは、寮で彼女の遺体が見つかったと報せを受けた時だった。

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