探偵は助手が足りてない!

花村すたじお

 この日、大鶴京紫郎おおつるきょうしろうは自分の事務所のある東京を離れ、とある地方都市へ足を運んでいた。

 白羽しらはね高校で講演会を行うためである。

 大鶴はその生き人形と見紛うような端麗な容姿と、弱冠二十五歳とは思えない華々しい活躍の数々から、世代や性別を問わない圧倒的な人気を誇る探偵だ。

 犬も歩けば棒に当たるというレベルで行く先々に彼のシンパがいる。

 白羽高校の理事長もそのひとりで、最近の探偵業界が直面している苦境を思い、大鶴に高校での講演をオファーしてくれたわけだ。

「では明日の講演内容はすべて僕にお任せいただける、ということで」

「はい! ぜひ、大鶴先生の貴重なお話をうちの生徒たちに聞かせてやってください!」

「よろしくお願いします、先生!」

 放課後の理事長室で本番前日の打ち合わせを終え、大鶴はにっこりと微笑んだ。

 大鶴に心酔している理事長と、その腰巾着らしい校長は必要以上にへこへこして、ご機嫌をうかがってくる。

「ところで先生、もしよろしければ夕食に地元のいい店などご紹介しますよ! こういう田舎なもので、小さい飲食店は九時には店じまいをするところも多いんです。外から来た人が地元の人間の案内なしに観光がてら好みの店を探そう、と思っていると、閉店に間に合わずに夕食を食べ損ねてしまうんですよ」

「ふむ、九時は早いですねえ」

 大鶴は鷹揚に顎に手をやりながら、理事長が「外から来た人」という表現を使ったことが気になった。

 田園地帯や並んだトタン屋根のまにまに排煙が立ち上っているこの町の景色を鈍行の窓から見てはいたが、一見した以上に閉鎖的な土地なのかもしれない。

(案内だけならいいが、そのまま一緒に夕食を、と来られたら辛い雰囲気かもしれないな)

 大鶴は冷静に計算を巡らせ、星が飛ぶような美しい微笑みの仮面のまま答える。

「今回はお気持ちだけで。仕事もありますし、ホテルで食事をいただくことにしますよ」

「そ、そうですか?」

 理事長はあからさまにがっかりしたが、大鶴の顔を見上げながらまたすぐ陶然とした顔になって、「まあ、あそこなら魚料理が美味いですからね」と付け加えた。

 それを機に、大鶴は背後に控えていた事務所スタッフの福山太希ふくやまたいきを振り仰いだ。すると彼は心得てくれて、体育大学出身の長身をかがめるようにし、

「あの、先生、そろそろ」

「ええ。では、理事長先生、校長先生、僕はこれで失礼します」

 お見送りを、と理事長が申し出るのを遠慮して、大鶴は福山と一緒に理事長室を出た。

 ゴールデンウィーク明けのこの日、陽が沈んでもなお校内に残っている生徒はほとんどいない。しばらく前に最終下校時刻を報せる放送が流れていたし。

「いやあ、何に付けても懐かしいですね、高校って。僕の卒業校とはだいぶ違いますが、この白羽高校もこれはこれで素朴でいい」

 リノリウムの床、校内放送のざらついた音質、遠くから聞こえてくる「あざっしたー」の合唱。あれはたぶん運動部の部活終了のかけ声だろう。

「でも、高校での講演会って、先生がやらなくちゃいけない仕事ですか?」

 上機嫌の大鶴とは反対に、やや後ろを歩く福山は不満そうだ。

「こんなの、全日本探偵互助会のいわば営業じゃありませんか。探偵助手ってこんな仕事ですよ、就職先としてぜひご一考ください、みたいな話を高校生にするよりも、先生にはもっと重要な仕事がたくさんあるのに、客寄せみたいに使って……」

 営業。言い得て妙だ。

 これもまた自身のシンパのひとりである福山が忌々しげに使ったワードに、大鶴ははははと笑う。

「先生!」

 福山が我がことのように目を剥き、満面に朱を注ぐ。それをまあまあと宥めながら、大鶴は内心でいつものように首を傾げる。

 どうして自分の信奉者たちは、自分の扱われ方についてこうも繊細なのだろう。当の大鶴が気にしていないことをそういちいち槍玉に挙げないでもらいたいのだが。

「いいんですよ。ただでさえ、多かれ少なかれどこかしらネジが外れている探偵なんて人種に進んで付き合いたがる人は少ないというのに、三年前の事件で、探偵の助手という職業がいかに危険なものか世間に知れ渡ってしまった。

 現在、探偵業界は未曾有の助手不足です。かくなる上は学生にアピールして青田買いを狙おう――そういう深遠で切実な目的のために、ダントツ人気の僕が講師として今回派遣されたのです。客寄せで結構、結構」

 三年前、著名な探偵の助手たちが逆恨みで狙われ、死傷者が出た。

 それからというもの、探偵助手志望の人材は激減。

 身の危険を痛感した助手に辞められてからいまだに次が見つからない探偵もいる。

 大鶴自身は助手の必要性を特段感じたことがないので、複数の事務所スタッフを雇うスタイルでやっているが、それでも、彼も三年前に食らった痛手を引きずっているのは同じだ。

「三年経っても血の流れる事件に関わることを医者に止められている、キレの鈍った探偵は、せめて宣伝でくらい役に立たなくては」

「何をおっしゃるんですか、先生は以前と変わりなく優秀でいらっしゃいます!!」

「ははは」

 大鶴は福山の過剰反応をゆったりと笑って流した。何と言われようと、大鶴の自己評価は変わらない。自分の現状を嘆いているわけではなくて、現実は現実として受け止めているだけだ。

 暖簾に腕押しと悟った福山はがくりと肩を落とし、一転声をひそめて、

「……先生は、本当にこんな高校でいい助手が見つかるとお思いなんですか?」

「いえ、思いませんね」

 この問いには、大鶴もはっきりとした答えを返さざるを得なかった。

 廊下を歩きながら、少し後ろの福山が呆気にとられたのが気配で分かる。

 大鶴は構わず続けた。

「探偵の多くは助手をほしがりますが、前々から言っているように、僕はそうではないんですよね。知人の探偵などは、『助手を持つということは伴侶を選ぶのと同じ。運命の恋に落ちるようなものだ』というのが持論で、最終的に助手と結婚までしたんですが……。僕は、助手と伴侶はフツーに別物だと思いますね」

 あまりに真っ当で根本的なツッコミが大鶴の口から出たのが驚きだったのか、福山が目を丸くして、「そ、それはそうですね……」と相づちを打つ。

「僕の言うことにただ驚き、称賛するだけの助手ならいないのと同じです。しかし、賢い者、コミュニケーションに長けている者、肉体的に強い者などこの世には星の数ほどいるでしょう。

 星の数ほどいるのなら、いくら便利だとしても、それは代替可能な労働力です。代替可能なものを、『運命の相手』とは呼びませんよね?

 探偵業界の未来のためなら仕事はしっかりしますが、僕自身は、同業者の言う『探偵と助手の運命的な絆』には甚だ懐疑的なんです。ゆえに今回も、僕はこの高校から『代替可能な優秀者』を見出すに留まるでしょう。もちろん、その子を自分の助手にするなんてことも無――――」


 と、そこまで言いさして、大鶴は足を止めた。

 ちょうど階段を上がってきたらしく、廊下の前方にふたりの男子生徒が現れたからだ。

(ん? まだ居残っている子がいたとは)

 広く世間に認知されている大鶴は、もし彼らに見つかって騒がれたら面倒だと考えた。

 女子高校生ならまだしも、男子生徒では嬉しさもないし、福山に目で合図して掃除用具入れの陰にそっと寄る。

 そこから顔をのぞかせて、男子生徒たちの様子を見ようとしたのは本当にただの思いつき、気まぐれでしかなかった。

「いやーこんな遅くまで付き合わせて悪いな、奥田。将棋部の連中、全然帰らないもんだからさ。でも、やっぱ一回おまえに見てもらいたいんだよー」

「……モニター修理業者になった覚えはねーんだけど……」

「修理っていうか、設定がちゃんと正しくされてるか見てくれるだけでいいんだ! 俺じゃ下手にいじって悪化させちゃって、弁償させられるかもしれないし」

 ふたりのうち、奥田と呼ばれた黒髪に重たげな眼鏡のほうが文句を言っても、茶髪のほうは柳に風と言う感じで堪えていない様子だ。

 さいわい彼らは大鶴たちのいるほうとは逆方向へ廊下を曲がり、そのまま歩いて行って、とある教室の前で立ち止まった。

 茶髪の少年がごそごそとポケットを漁り、鍵を取り出す。

「じゃーん! ゆりちゃんせんせーに頼んで借りてきました、将棋部部室のスペアキー」

 教室の鍵をさっそく開けにかかる茶髪の少年に、黒髪の少年が淡々と、

「申請書は?」

「あ、失礼。これです」と茶髪の少年が肩に掛けていた通学鞄に手を突っ込み、一枚の紙を引っ張り出して黒髪の少年に渡す。

 彼は紙面に分厚い眼鏡の奥の目を落とし、

「……おまえの言ってた通りの内容か。部室のモニターの映りが悪く、たびたび明らかに寿命を報せるヤバイ異音を発するので買い換えたい、と。これ、顧問には裏取ったのか? 生徒会長」

「裏って。まぁ、そりゃ顧問の先生には確認しに行ったよ。ビー! ビー! ってエラー音みたいなの聞いたってさ。部員たちと一緒に」

「音は実際聞いたんだ。映りのほうは?」

「え? ……えーと、先生が見たときは……まず音でヤバッ! ってなったけど、映ってはいたみたい」

「じゃあそのモニター、部員しかいないときだけ調子悪くなるわけ?」

 なんじゃそりゃと呟きながら、黒髪の少年が自分のスマホをさっさっと操作する。

 その画面で何かを確かめた途端、彼は溜め息をひとつ落とし、自分のスマホを茶髪の少年に押しつける。

「……小堀、これ見てみろ。モニターの異音は部員がやったことだよ」

「へ? え? ん? なんで? これが何?」

「ちょっと待ってろ」

 黒髪の少年はひとり教室へ入っていき、ごそごそと物音をさせていたかと思うと、つまらなそうに戻ってきた。小堀というらしい茶髪の少年は、スマホと彼を交互に見ながら眼を白黒させている。

「――あった、ちゃんと三つ。制服汚れるの嫌だし、撤去なんかしたら絶対向こうに気づかれるし、とりあえずこのままにして今日は帰るぞ」

「え? あったって何が? 俺、どうしたらいいの?」

「だから、申請を却下すればいいだけ。とにかくもう早く帰るぞ。夕飯におつとめ品狙ってるんだ、俺は」

「えー!? なんで!? どういうこと!?」

 わいわい騒ぎながら、まるで小さな嵐のようにふたりの少年は廊下を戻り、階段を下りていく。

 彼らの声がじゅうぶん遠ざかってから、大鶴たちは物陰を出た。

「あの子たち、こんな遅くに何の用だったんですかね。……先生?」

 福山の怪訝そうな声を置き去りに、大鶴はさっき少年たちがいた教室の前へ歩みを進めていた。

 自分のスマホを取りだし、ある画面を確認する。

 周辺にBluetooth接続が可能な機器があるか、瞬時に検索した大鶴のスマホは、機器名の一覧に「1」「2」「3」という三つの名前を表示した。

 あの黒髪の少年も、今の大鶴と全く同じ操作をしたはずだ。

 部員のいるときだけ異音の鳴るモニター。

 部室内にナンバリングされた複数のBluetooth機器。

 制服が汚れる、という発言から推測される場所。

 言動が示すように、あの少年は、大鶴と全く同じ可能性を即座に考えつき、それをスマホで確認したということだ。


 彼は最初から、将棋部の部員たちを疑ってかかっていた。


「…………」

「先生? どうされました?」

 福山が追いついてきて、少し心配そうに大鶴の顔を見る。

 少年たちが消えていった階段のほうを見るともなく見ていた大鶴は、らしくもなく、自分の信奉者を不安がらせる態度を取ってしまったことを自覚した。

「いや、ちょっと。些細な謎解きです」

 すぐさま我に返って、しかしそんな素振りは見せず、にこやかに福山の声に応じる。

 たぶん黒髪の少年は、同年代の中でも頭の回転が速い子なのだろう。

 特別覚えようとしなくても、大鶴の頭脳は奥田という名前をすでに記憶している。

 もしかすると、大鶴が同業者たちから仰せつかった「助手不足解消のためにこの高校の優秀者に唾をつけろ」という任務に関して、有用になるかもしれない。

 要するに、あの子は同業者たちへのお土産候補になり得る――が。

「……あの黒髪の子は、猜疑心が強いんですかねえ。あの歳で早くも性悪説が染みついているんでしょうか?」

 大鶴の感想に、話の見えない福山はきょとんとしている。それで構わない。大した話でもないのだし。

 多少賢かろうが、やはり、大鶴にとっては代替可能な星のひとつなのだ。

 その晩、旅館に戻り、布団に入る頃には、大鶴の頭からあの少年のことは消えていた。



 白羽高校での講演当日、大鶴は福山を伴って朝から校長室で最終打ち合わせを行った。

 まだ登校してくる生徒たちがまばらなうちに、職員室にも足を向ける。

 たった一日一緒に仕事をするだけの関係でも、ご挨拶は大切だ。

 しゃきしゃきと廊下を進んでいた大鶴だったが、生徒指導室の近くを通りがかったとき、ちょうどそのドアが開いて、中からふたりの人間が出てきた。

 ひとりはタブレットを手にした、生徒指導担当らしき四十そこらの男性教師。

 もうひとりは、今にも消え入らんばかりに消沈した女子生徒だった。

「……だから、どこにだって見ている人はいるんだから」

 ドアをくぐって廊下へ出ても、男性教師は険しい顔で女子生徒への訓諭を懇々と続けている。

「この辺の人はほぼうちを卒業してるんだ。うちの制服を着てるだけで注目度が跳ね上がるって、それは分かってもらえてるんだよね? もちろんみんな、糸瀬のことは信じてるし、糸瀬が悪いと言うつもりもないよ。でも、だんまりで聞き取りにもろくに協力してくれないし、今後こうやって外部の人から通報が来るなんてことが続いたら、親御さんにもお話ししなくちゃいけなくなるよ。非行そのものはもちろん、周りの人に誤解される余地を与えるようなことをするなとまで求めるのは酷かもしれないけど、……」

 こうやって、と言ったあたりで、男性教師はタブレットの画面を糸瀬と呼ばれた女子生徒に改めて見せた。

 彼女は縮こまって「はい」「はい、すみません」「お、親だけはごめんなさい、言わないでほしいです……」とか細い声で必死に受け答えしている。

 彼らは近づいてくる大鶴たちに気づいていない様子だった。

 大鶴も福山も、自然と歩く速度が控えめになる。

(これでは生徒指導室の意味がないだろうに)

 内心溜め息をつきながら、人並み外れた目ざとさを発揮して、大鶴はタブレット画面に映し出された画像を把握していた。

 目の前の少女が、夜の繁華街で中年の男と笑顔で話し込んでいる写真だ。

(うーん……いわゆるパパ活疑惑……それも学校外からの通報、本人はほぼ黙秘、といったところ? 学校側も対応に苦慮しているようだが)

 だとしても、誤解される余地すら生むなというのは無茶だろう。

 この学校の制服というだけで住民の目が光り、怪しい行動をすれば学校へ匿名通報されるとか、やはりこの小さな町じゃ世間が狭すぎる。いずれ行き着く先は監視社会だ。

(というより、本当に彼女を信じているのなら、懸念するべきは彼女が通報者に盗撮されているという点だと思うが)

 生徒指導室の外に出てもそんな込み入った話を続けていたのが悪いということにして、少々口を挟むべきかと大鶴が一歩踏み出そうとしたとき、


「……それ、小堀の親父さんですよ」


 昨日見たばかりの顔が、男性教師の背後からひょいと出てきた。


 大鶴は思わず目を丸くし、福山も「あ、昨日の……」と驚きの声をあげる。

「!? おっ、奥田ッ」

 背後からタブレットを覗き込まれていたことに後れて気づいた男性教師が、ぎょっと目を剥いてのけぞる。

「おまえ、い、いつから……! いや、これは……」

「さっきです。職員室に小堀捜しに来た帰りで。その画像のおじさん、小堀の親父さんです」

 背後に立たれてまずいものを見られてしまったという理由以外にも何かありそうな焦りようだが、そんな男性教師に構わず、昨日の黒髪の少年――奥田という男子生徒は、淡々とタブレット画面を指さす。見れば糸瀬と彼は、ブレザータイプの制服のネクタイの色が同じだった。同学年なのだ。

「それ、駅前の予備校のバッグでしょ。予備校帰りに、飲み屋の前で小学校の同級生の父親とたまたま会って話してただけのように見えますけど。その画像」

「な……そ、そうなのか、糸瀬?」

 そういう真相のほうが学校側としても都合がいいはずだから、男性教師は救いの糸を見つけたように勢い込んで糸瀬に問いただす。

 びっくりして固まっていた糸瀬は、おろおろしながらも、必死に首を縦に振った。

 男性教師はあからさまにほっとして、

「な……なんだ、それなら最初からそう言ってくれよ……。どうして何を訊いても『すみません、言えません、ごめんなさい』の一点張りだったんだ」

「す、すみません」

「いやだから、すみませんじゃなくてな……」

「ていうか盗撮じゃないんですか。通報者を通報したほうがいいのかもしれないですよね、この場合」

 まるで口ごもる糸瀬を援護するかのように、奥田が言う。

 男性教師がはっとなって糸瀬に向き直り、

「そ、そうだな、その点では間違いなく糸瀬は被害者か……あ、すまん、まず糸瀬の気持ちはどうなんだ? 学校から通報しても……」

「い、いいです、そこまでは。大ごとにしたくないです」

「けどな……」

「いいです、大丈夫です。……うまく話せなくて、すみませんでした……」

 ぺこりと糸瀬に頭を下げられて、男性教諭も気まずさが勝ってきたようだ。

 もう行きなさいと糸瀬が許可をもらうころには、奥田は一連の何もかもがなかったかのようにその横を通り過ぎようとしていた。

 職員室からの帰りだと言っていたから、階段を下りていくつもりなのだろう。

 すたすたと小さめの歩幅で、彼がこちらへ歩いてくる。

 昨日と違って隠れていない大鶴は、その瞬間、完全に彼に認識された。

 分厚いレンズの奥の目がちらとこっちを見た。像の歪みがないので伊達眼鏡だろう。薄く隈の浮いた三白眼は年齢不相応に据わっている。これがいわゆるジト目というものだろうか。

 近くで正面から見た彼の顔立ちを、大鶴はとても好ましく思った。動く影のように、息を殺すかのように、あえて地味を心がけ、集団に埋没しようとして、しかし盛大に失敗しているのがありありと見えたからだ。なんて人間くさいのだろう。

 目が合っていたのは、ほんの一瞬のことだ。

 全く初対面の人間を見る目ではなかったから、「あ、探偵の大鶴ナントカだ」「なんでこんなとこにいんの?」くらいの感想は抱かれていたと思う。

 が、いずれにしろ奥田はミーハーな態度には移らなかった。

 見慣れない大人に遭遇したときにやる、申し訳程度の目礼のみだった。


(……ああ、残念)

 と、崩さない笑みの裏でそう思いながら、大鶴はあれ? と首をひねった。

 奥田が自分という探偵に興味を示さなかったことの、何が残念だというのだろう。


 昨日と同じに、憂鬱そうに背を丸めたシルエットは淡々と階段へ吸い込まれていく。

 むしろ、奥田の視線の先をつい追いかけてしまったらしい糸瀬と男性教師のほうが、顕著な反応を見せた。

 大鶴たちの存在と、一連のやりとりを見られていたことに気づき、さっと顔色を青くした彼女たちに、大鶴は鷹揚に笑って「お気になさらず。探偵ですので、秘密にするべきことは秘密にします」と手をひらひらさせた。

 ふたりとも恐縮して頭を下げてきたが、糸瀬のほうは、その後慌てて階段のほうへ駆け出した。

「……福山くん、少し待っていてください」

「え? りょ、了解です」

 探偵としての習性で、些細な謎の答え合わせを求めて、大鶴は糸瀬の後を追いかけた。


 糸瀬が無実だとしたら、にもかかわらずだんまりを貫こうとしたのは、相手の中年男性の正体をどうしても明かしたくなかったからに違いない。

 彼女は制服を着崩したりもしていないし、今時珍しいくらい大真面目に校則の服装規定を守っていた。

 普段から真面目な生徒なのだろう。

 その真面目さの積み重ねの結果として、あの男性教師も当たり前のように彼女の無実を前提に話をしていた。多少嫌味ったらしくはあったが。極論、黙っていても濡れ衣は晴れるわけだ。

 彼女は自分が誰か男性と会っていたという情報も、その男性の正体も、万が一にも周りや親に伝わらせたくなかった。おそらく、何らかの理由で過剰な反応が予想されるから。

 そして、奥田が「親父さん」という単語を出したとき、糸瀬が見せた窮鼠のような表情から察するに。

(父親にかなりの非があって別れたパターンで、それでも娘は父親に情があり、母親に気を遣いながら隠れて会っていた……とか、その辺りかな)

 つまりあの写真の中年男性は、糸瀬の父親だろう。

 奥田は糸瀬を庇うために、あんな大嘘をついたのだ。

(ふたりはクラスメイト、友人、あるいはもしかして、ちょっと甘酸っぱい関係だったりするんだろうか? いいなぁ、華の高校生)

 大鶴は大人げなくわくわくした。ますますこの後のふたりのやりとりが気になる。


 踊り場で、奥田は糸瀬に捕まったようだった。

 大鶴は立ち止まり、階段の陰に隠れた。ふたりの潜められた声だけを聞く。

「あの、さっきは本当にありがとう。奥田くん、優しいんだね……」

「……別に。あんなまるっと嘘でも、さすがに小学校時代まで辿るわけないし、小堀の親父さんは海外赴任中でほっときゃバレないから。小堀はあれで空気は読むから、何か訊かれても話合わせるだろ」

(やはり全部嘘だったか)

 大鶴は腕組みをして背を手すりに預けながら苦笑した。しかし、同級生があらぬ疑いをかけられているところにたまたま通りがかって、とっさにそこまで考えて嘘をついたのなら、やはり彼は頭が良い。

 糸瀬が大きく深呼吸し、震える声で言う。

「……信じてほしいんだけど、あれ、私のお父さんで……。奥田くん、まさか知らないよね」

「もちろん知らない」

 奥田は即答した。そのトーンからして、彼は本当にあの写真の男の正体に思い至ってはいなかったようだ。

(とすると……ん? どうも距離感が……)

 糸瀬は自分の父親と会っていただけだという自分の推測が的中していたことを確認しつつ、大鶴の興味はそのことよりも奥田と糸瀬の関係性に向いた。

 男の正体を見抜いていたわけでもないのに糸瀬を疑うこともなく、わざわざ嘘をついてまで庇ったのだから、てっきり奥田は彼女と親しいのだと思っていたが……。


 なぜだろう、大鶴自身でも名称の分からない熱が、じわじわと胸の中で高まっていくのを感じる。

 些細な謎の答え合わせを求めてではなく、この少年の情報を拾うために、これまで以上に耳を澄ます。


 糸瀬はつっかえつっかえ、

「だ、だよね。その、お父さんね、ここへ引っ越してくる前にいた町でちょっと、せ、窃盗で捕まって、お母さんと離婚したんだけど、私はまだ……お父さんと、仲いいんだ、へ、変だと思われるかもだけど。

 お母さんは……私がお父さんと会うのを極端に嫌がるから……正直に話したら、先生、ちょっとうかつなとこ……あるから……お母さんに伝わっちゃったり、お父さんの前科のことが周りにバレちゃうかもと思って、かといってうまい嘘もつけなくて」

「なんでそんなこと俺に説明するの。家族構成ってそんな軽率に他人に漏らすもんじゃないと思うけど」

 奥田のすげない言葉に、弱り切った糸瀬は「……ごめん、助けてもらったのに、打ち明けないのは不義理かなって」と小さく謝る。

 奥田が吐息で笑い、

「……構わないけどな。うちの生徒なら、窃盗犯の父親くらい、俺なら意にも介さないだろうと思って当然だ」

「え、そ、そんなつもりじゃ……!」

 糸瀬の否定は悲鳴のようだった。

「違うの、今のは……ご、ごめんなさい。でも……どうして私のこと、信じて庇ってくれたの? たぶんだけど、私が一方的に奥田くんのこと知ってるだけで、奥田くんは私のこと……名前も知らない、よね? クラスとか合同授業が一緒になったこともなかったと思うんだけど……」

「……。玲於奈れおなとは同じクラスだろ、いま。だから、名前と顔は把握してた」

 奥田は氷のように冷え切った声で指摘した。

 糸瀬が小さく息を呑む音。

「……もう礼も謝罪も充分だから、俺に関わんないで。ついでに玲於奈にも。だいたいのヤツはそうしてるだろ。それじゃ」

 その言葉を最後に、片方の足音が遠ざかる。

 奥田がこの場を後にしたのだ。

 緊張が一気に弛緩して、糸瀬の苦い溜め息が静かな踊り場に落ちる。


(奥田くんも、お父さん絡みで何か事情があるようだ。しかも、それはすでに周囲の知るところであり、『玲於奈』という名の糸瀬さんのクラスメイトとも何らかの因縁がある。……彼はまるで謎の塊だな! 面白い)

 冷静に思考しながらも、大鶴が無意識のうちに浮かべていた上機嫌な微笑みの理由は、また別にあった。

 昨日、将棋部の部室での彼の言動から、大鶴は「猜疑心が強く、他人をまず疑ってかかる」という印象を抱いた。

 だが、今朝の彼はその真逆の行動をした。

 そう出来るだけの能力があろうとなかろうと、彼は他人を疑い、真相を推理して的中させること自体には拘りがないのだ。推理らしい推理もせずに、個人的に親しくもない同級生を信じて、窮地を救おうとしたのだから。彼は大鶴たちのような探偵ではなく、別のものに向いている人種だ。

(――昨日の今日で印象、ひっくり返されてしまったな)

 糸瀬に見つからないうちにときびすを返しながら、ははは、と清々しい笑いがこぼれる。

 今では大鶴をもってしても奥田という少年を一言でこういう子、と言い表すのは難しい。

 賢い人間も強い人間もこの世には星の数ほどいる。

 ――では、あの子は?

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