Palimpsest

@saika0911

第1話 死体の隣で

死体は、そこにあるべきではなかった。

 けれど、まるで誰かが意図的に置いた彫像のように、不自然なほど静かに横たわっていた。


 夏の終わりにしては肌寒い朝だった。風のない曇天。湿り気を含んだ空気がゆるやかに地面を這い、どこか遠くでカラスが鳴いていた。

 白線ぎわに伏す男の体からは、既に温度が失われて久しいことがわかる。

 喉元から胸元にかけて、深く抉られた切創。赤黒い血は乾ききり、アスファルトの粗い粒子に染み込んで、その境界線すら曖昧になっていた。


 僕は、その遺体を囲む警察の規制線の外側で、ひとり佇んでいた。

 立ち去ることも、近づくこともせず。

 ただ、まるでその場に招かれたかのように、自然にそこにいた。


 「……君、寒くないか?」


 制服の男が、書類の束を抱えたまま声をかけてきた。

 その瞬間、僕はようやく気づいた。自分の手が、震えていないことに。


 寒さに無感覚だったのではない。

 恐怖も、驚きも、僕の身体には宿っていなかった。

 あるのは、ただ――静けさだった。


 「大丈夫です」

 僕は、そう答えた。自分でも驚くほど落ち着いた声だった。


 男は少しだけ眉を寄せて、それ以上は何も言わなかった。


 遺体の身元は、神谷圭吾。五十七歳。

 かつて地方新聞の折込広告で見たことがある顔だった。

 “家族の未来を守る終活セミナー”と銘打たれた無料相談会。

 けれど、その実態は老人たちの不安を逆手にとった巧妙な搾取だった。


 「国の制度じゃ足りないんです」

 「いざという時に、家族を守れるのは“今”の準備だけなんです」


 そう言って、高額な会員制のプランや不要な墓地の紹介、架空の保険商品を売りつける。

 どれも合法ギリギリ。契約書は完璧だった。むしろ“完璧すぎる”のが問題だった。


 僕はそのすべてを、被害者の子どもたちの証言から知っていた。

 SNSの書き込み、削除されたレビュー、数少ない告発記事――

 正攻法では裁けない相手。

 それが神谷圭吾だった。


 だから、彼が死んでいるという事実に、僕は“驚き”ではなく、“納得”を感じた。

 この男が罰せられることは、当然であるべきだと思っていた。

 何より――


 僕は、この男が死ぬ未来を、既に知っていた。


 捜査員の一人が近づいてくる。

 僕がその場にいた理由を尋ねた。


 「通りがかりに、異臭がして。……それで」


 それは嘘ではない。

 血と腐臭、アスファルトと汗の混じった生々しい臭気が、確かに鼻腔を刺していた。


 「気づいた時、どう思いましたか?」


 この質問には、少し言葉を選んだ。


 どう思ったか――本当は、安堵した。

 だがそれを答えれば、何かが壊れる気がした。


 「……怖かったです」

 僕はそう言った。


 捜査員は頷きながら、メモを取りつつこう付け加えた。


 「現場の隊員の話では、“震えていなかった”って報告があったよ。随分、落ち着いていたようだ」


 僕は少し笑って、肩をすくめた。


 「……実感が湧かなくて、逆に、動けなかったんだと思います」


 本当は違う。

 僕は、数日前にこの男を殺していた。


 ナイフの角度を測り、足音を消して、通報されないよう計画を練った。

 事故に見せかけて、それは実行されたはずだった。


 それでも――

 世界は、何事もなかったかのように巻き戻された。


 スマートフォンの通知履歴、削除したはずの写真、元に戻ったカレンダー。

 最初は夢だと思った。だけど神谷圭吾が再び生きていて、そして今日、また“死んだ”のだ。


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