風が揺れるコートの上で

虎野離人

プロローグ

鳴り止まない歓声の中、彼は一人、音のない世界にいた。


 照明のまぶしさがコートの床に滲んで、足元がどこか揺れているように見えた。

 空調の冷たい風が吹き抜けるたび、肌にかいた汗が粘りつくように冷たくなっていく。

 視界の隅に見える電光掲示板のスコアは「61-60」。

 残り時間、3.6秒。


 中学最後の全国大会、準決勝。

 神谷陸は、味方のタイムアウト明け、ボールを手にしていた。


 ベンチで告げられたのは、シンプルな作戦だった。

 「神谷が運んで、自分で決めろ。任せた」

 コーチの信頼。仲間たちの視線。

 すべてが自分に向けられていた。


 その瞬間、自分が“コートの中心”であることを、陸は理解していた。

 そして——心のどこかで、それを怖いと思った。



 審判のホイッスルが鳴る。

 ボールが手に落ちた瞬間、世界がまた動き出す。


 フロントコートへ駆け上がる。

 敵のディフェンスがブロックに来る。スイッチ、プレッシャー、声。

 すべてが陸の動きに集中している。


 けれど、彼の身体は迷いなく動いた。

 ドリブルのリズム。視線のフェイク。

 スクリーナーの裏をすり抜け、敵の間を割ってペイントゾーンへと侵入する。


 そして——

 ジャンプ。


 誰もが陸が放つ“あのフローター”を知っていた。

 中学全国でも指折りのテクニック。決まると誰もが信じていた。


 けれど。


 手から離れたボールは、リングに触れることなく、ゴール裏の支柱をかすめて外れた。


 静寂。

 1秒、2秒、何も聞こえなかった。

 やがて、相手ベンチの歓声が爆発する。

 陸の足が、床に戻る音がやけに大きく聞こえた。



 ベンチに戻ったとき、誰も彼を責めなかった。


 「ナイスゲームだったよ」

 「ドンマイ。しょうがない」

 「お前がいたからここまで来れた」


 でも、彼はそのすべての言葉を受け取れなかった。

 口元が笑おうとして、すぐに引きつる。

 膝が震えて、バッシュの音が止まない。

 ベンチの端、タオルで顔を覆いながら、彼はずっと泣いていた。

 悔しくて、情けなくて、怖かった。


 そして、心の奥でひとつの扉を閉じた。


 ——俺は、もう、バスケをやらない。



 それからの数ヶ月、陸はボールを一度も触らなかった。


 部室にも顔を出さず、最後の引退試合も欠席した。

 シューズも、ウェアも、タンスの奥に封印されたまま。

 仲間たちからの連絡も、次第に減っていった。


 春。

 青空が広がる新しい季節。

 彼は「男子バスケ部がない」ことを条件に、青峰学園への進学を決めた。


 これで本当に終わる。

 あのコートから離れられる。


 自分にそう言い聞かせながら、入学式当日の朝、陸は制服のポケットに手を入れた。


 中には、いつかの試合で拾った小さなキーホルダー。

 ボールの形をしたそれを、陸はふと見つめる。


 「……バカみたいだな」


 独り言のように呟いて、それをまたポケットに戻した。

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