STRIPPED DOWN : Unreleased & Rarities
烏丸千弦
Zee Deveel Official Bootleg
TR-01 - Heart of Gold
彼が刻むBPMがだんだんと速まっていく。あの手この手で俺を攻めたてたあと、やがて彼自身が俺の上で切羽詰まる、その表情を見るのが好きだ。上質なマットレスが小刻みに弾み、肌を伝う汗の粒が揺れる。窓の外の雑踏も、音量を絞ったまま流れるポッドキャストも聴こえない。聴こえているのはベッドのスプリングがリズミカルに撓む音と、ユニゾンする彼の鼓動と息遣いだけ。
快楽の果てに辿り着こうかというとき。彼のその瞬間の声を聴き漏らすまいと、俺は意識を集中させた。彼の背中に両脚を絡め、きゅっと力を込めてやる。微かな呻きとともに、彼の熱さが俺のなかで爆ぜる。ベッドが弾む音は、まるで曲の最後のスネアみたいにテンポを落とした。シンバルロールの余韻を残すように彼が静かに動きを止め、俺の上に頽れる。
ふわりと鼻先を擽る、タバコ・バニラの香り。俺は手を伸ばし、彼の髪を撫であげた。――男の性欲は支配欲とイコールだというけれど、この瞬間、支配しているのは俺のほうだといつも思う。
「――テディ? 帰るのか?」
「うん」
シャワーを浴びたあと。ジーンズを穿いていると、ユーリがいつものように少し心配そうな目で俺を見た。俺は簡潔に頷いて、ソファに掛けてあったTシャツを頭からかぶった。
「なんだ、泊まっていくと思ってたのに。……ルカになにか云われたか?」
「ううん、そんなことないよ。ただちょっと……なんとなく」
お気に入りのライダースジャケットに袖を通しながら曖昧にそんな返事をし、俺はなにか云いたげなユーリに背を向け、部屋を出た。
俺とルカ、ユーリの三人がオープンリレーションシップという関係を選んでから、そろそろ六年が経とうとしている。
なんでそんなことになったかというと、十五の頃から俺の恋人であるルカが、精神的に不安定で手のかかる俺の面倒をひとりではみきれないと判断したからだ。――でも、それももう過去の話。そう云っていいと思う。
これまでルカにいちばん心配をかけたのは、スマック――ヘロインに捉まってしまったことだろう。自分ではそれほど頻繁に使っているつもりはなかったが、俺は気づかないうちに立派な依存症に陥っていた。それをユーリが見抜き、彼とルカは協力して俺をヘロインから抜けださせるため尽力してくれた。
なのに、まさかのアクシデント*¹が俺を襲った。それをきっかけに、俺は三年も断っていたヘロインに再び手をだしてしまった。
けれど、俺はもうヘロインに溺れたりしない。ヘロインだけじゃない、他のドラッグも使うつもりはない。もう二度と。まあ、残念ながら禁煙はうまくいかなかったし、スプリフ*²くらいは吸うかもしれないが――俺は多くの人々に助けられた。ルカとユーリだけではない。スリップ*³してしまった去年の十一月、俺は依存症を専門とする静かな湖畔にある施設に、一ヶ月間滞在した。そして医師やカウンセラーの導きを得て、心の奥底に巣食っていた根本的な問題とも向きあえた。
だからもう、以前のように周囲に余計な負担はかけない。そしてそれは、俺を傍で支えるために、ルカがユーリの手を借りる必要がないということなのだ。
愛車のボンネビルで夜のプラハを駆る。ティールブルーメタリックに塗装したバイクとヘルメットは、ライトをつけていなければダークブルーの景色にそのまま融けていきそうな気がする。ヴルタヴァ川沿いを西に向かって走ると、ずっと向こうにライトアップされたプラハ城が浮かんで見えた。
俺はスピードを落として石畳のスロープから川辺へと降りていき、バイクを停めた。
川沿いにはいくつものボート乗り場がある。ヴルタヴァ川のリバーボートクルーズは観光客に大人気らしい。だが俺はクルーズ船に乗るより、こうして川を眺めるのが好きだ。まあどっちにしろ、十一時を過ぎたこの時間はクルーズ船など出ていないが。
川辺に人影はない。暦のうえでは春とはいえ、三月の夜はまだ冬の息を残している。けれど、冷たい風がまだ残る火照りを攫ってくれるのは心地好かった。俺はジャケットの前を開けてポケットから煙草を取りだし、火をつけた。燻らせた白い煙が濃い青に吸いこまれてゆく。
ヴルタヴァ川は街灯の琥珀色を
自分では〝ファックバディ〟なんて悪ぶっているが、実は心配性で世話焼きなユーリと過ごすのも、生真面目なくせに面倒くさがりで、偶にちょっと抜けているルカと暮らすのも、俺にとって大切な時間だと思う。俺は、ルカもユーリも俺のことを愛してくれていると知っている。そして、いつまでもこんな関係を続けているわけにはいかないということも。
ユーリのことは好きだ。俺にとってユーリは憧れの、理想の男でもある。こんなふうになれたらよかったのにと、何度思ったかしれやしない。俺と同じトラウマを抱えていながら、ユーリは強く逞しく、知恵もまわるし頼り甲斐もある。それにドラマーとしてのユーリも、ベースを弾く俺にとって大切なリズムコンビネーションの相棒だ。
だけど――
考え事をしているうちにあっという間に短くなった煙草を棄て、俺は川に向かって歩いた。
ヴルタヴァ川の流れが琥珀色の光を千切る。俺はリバーポートのスリップウェイを降りていき、しゃがみこんで冷たい水に指先を浸した。ひんやりとした感触が、胸の奥で渦巻くなにかを落ち着かせてくれた気がした。
ユーリとの関係を終わらせる――それを考え始めたのは、もうけっこう前のことだ。
でも、もしもユーリと別れ……っていうのも変なものだ。離れてもう会わなくなるわけじゃないし、なんと云えばいいのだろう。もうセックスしなくなったら、って、こんな言い方はずいぶん軽く聞こえる気がする。そんなのじゃない、もっと意味のある、深い関係だったはずなのだけれど――
なんにせよ、俺とユーリはバンドメイトでもあるわけで。関係を終わらせたら音楽にも影響があるのではないか、友人として仲間として、変わらずやっていけるのだろうか……という不安が、俺の決心を曇らせていた。でもこんな関係をいつまでも続けているより、ユーリだってただひとり、愛し愛される関係になれる相手をみつけるべきだと思う。そう、俺がそれを、ルカにあげたいのと同じように。
――こんなこと、なんて云ってきりだせばいいのだろう。
俺はもう一度水面を撫で、ゆっくりと立ちあがって深い溜息をついた。左手のほうを見あげると、明るくライトアップされたプラハ城が、川面にあたたかな光を落としている。
そろそろ帰ろうか。そう思ったそのとき、背後で微かな気配と足音がした。振り返った先に、誰かが立っているシルエットが見えた。いったいいつの間に――一瞬びくりと警戒したが、暗がりで目を凝らしてみたその姿は、帽子をかぶりくたびれたジャケットを着た、小柄な老人だった。
老人はゆっくりとこちらに歩き「
「
俺がそう返すと、老人はにっこりと笑みを浮かべて立ち止まった。
「お若いの、こんな時間に川なんて眺めてどうしたね。まさか、身を投げるつもりじゃないだろうね?」
老人のチェコ語には微かな訛りがあった。身を投げるなんて云われ、俺はそんなふうに見えたかと少し笑った。
「大丈夫、飛びこんだりしませんよ。川、好きなんです。見てると落ち着く」
老人は目を細め、俺をじっと見つめた。その視線には、どこか人を値踏みするような鋭さがあった。だが敵意などは感じない。俺はなぜだか、この老人に興味をもった。
「そうか。それならよかった。まあでも、こんな時間に川辺でひとり佇んでるなんて、大抵なにか悩んでるか迷ってるかだわな」
その言葉に、俺は思わず苦笑した。否定する理由もない。俺は肩を竦め、正直に答えた。
「まあ、そうです。ちょっと……人生の整理整頓でもしようかなって」
老人が小さく頷く。スリップウェイを戻り、俺はゆっくりと老人に歩み寄った。また川に向いた俺の隣で、老人はポケットから小さな金属のケースを取りだし、細いシガリロを口に咥えた。マッチを擦って火をつける仕種が丁寧で、まるでなにかの儀式のようだ。自分ももう一本吸おうかと思ったが、漂った甘い香りをかき消すのが忍びなくて、やめておく。
「整理整頓、か。そりゃあ難しいことさな。特に、恋やら仕事やら、人との関係が絡むとな」
見事に言い当てられ、俺はちらりと老人を見た。老人は川を見つめたまま、ゆっくりと話し始めた。
「儂も若い頃、川辺でそんなふうに悩んだことがあってな。家族や、恋や、未来について……いろんなことがあった頃のことさ。答えも先も、なにも見えんかった。こんな時代に自分はいったいどうしたらいいのかと、ずいぶん迷ったもんだよ」
俺は黙って頷いた。老人は七十歳くらいか、それより上に見える。チェコがまだチェコスロバキアと呼ばれた社会主義時代、『プラハの春』や『ビロード革命』の、あの激動の時代を肌で知っている世代だ。ビロード革命は一九八九年。一九八八年生まれの俺は想像するしかないが、きっと語られている歴史の陰でいろいろなことがあっただろう。
それに――俺は、遠慮がちに尋ねてみた。
「あの……ひょっとして、もともとチェコの人じゃない? 違ったらすみません……アクセントが少し、ポーランド訛りに聞こえたんで」
「ほお、よくわかったな」
老人が少し驚いた顔でこっちを向いた。
「俺も、ヴロツワフにいたことがあるんです。他にもあちこち、子供の頃から転々としてて……」
老人はうんうんと、なぜか嬉しそうに頷いた。
「転々とするのに飽きて、プラハに落ち着いたか」
「ええ、そんな感じです」
「儂はクラクフの生まれだよ。……大学生の頃、つきあっていた幼馴染みと、もうひとり、同志として共に情熱を分かちあった女性がいてな。ふたりとも儂にとっては大事な人だった。決していいかげんな気持ちでいたわけじゃない。だがとうとう、どちらかを選ばなくちゃならんときがやってきた。時代もそれを儂に急かした。反体制デモに参加したりしてたんで、目をつけられてしまったんだ」
俺は黙って聞いていた。どちらかを選ぶ――もちろん偶然でしかないが、今こんな話を聞くなんて、いったいどれほどの確率で起こることだろう。
「儂は悩んだ。もう当局に睨まれるような運動はやめて、幼馴染みとひっそり慎ましく暮らすか。それとも身を隠して、同志と共に戦い続けるか。……だが儂は、どうしても選ぶことができなかった。そうして宙ぶらりんなことをやっているあいだに、ふたりとも失ってしまった」
川を眺めながら過去のことを話し、老人は甘い香りのするシガリロをゆっくりと味わい、煙を吐いた。「川を見ていると落ち着くと云ったね。それは、この川がなにもかも知っているからだよ。ずっと長い
俺は頷いた。頷くことしかできなかった。老人の話はその背景も含め、俺の悩みなんかとは比べ物にならないほど重すぎる。
老人は話を続けた。
「なあ、お若いの。人生、いつなにが起こるかわからん。なにも起こらなくたって、人と人には別れってやつがつきものだ。同じ人生を泳いでいたつもりが、ちょっと石を投げられただけで流れを分かつこともある。自ら選んで支流に入ることもな。だが実は、別れそのものはそれほど大きな問題じゃない。どんなに大切な人だったとしてもだよ」
老人がなにを云いたいのかが読めず、俺は小首を傾げ、その深い皺の刻まれた顔を見た。
「どんなに遠くに離れたって、その人の存在が自分のなかで変わるわけじゃない。……肝心なのは別れ方だよ。ちゃんと伝えるべきことを伝えて、相手の思いを受けとめて、お互い納得して別れるのが大事なんだ。……あとからでもいい。離れてしまってから胸に重いものを残さないよう、ちゃんと思いを言葉にするんだ。……伝えられるうちにな」
老人は足許に棄てたシガリロを踏み消し、じっと水面を見つめた。俺もそれを倣うように、静かに流れ続けるヴルタヴァ川に目をやった。
そして、なんとなくまた老人のほうを向くと――
「えっ?」
今しがた立っていた場所に、もう老人はいなかった。
俺はきょろきょろと辺りを見まわした。暗いとはいえ、視界が利かないほどではない。だがどの方向を探しても、老人の姿をみつけることはできなかった。
全速力で走ったって、ものの数秒で見えなくなるほど離れるとは思えない。まさか幻を見たのかと一瞬思い、いや、そんな莫迦なと首を振る。
そうだ、確かこの辺りに――俺は老人が立っていた位置まで戻り、ポケットからスマートフォンを出した。そしてまるで探偵の真似事でもするようにライトで足許を照らし、目を凝らす。
だが、老人が吹かしていたシガリロの吸い殻は、どこにも見当たらなかった。
バイクに跨り、夜空を明るく照らすプラハ城の見えるほうへと風を切る。すると、道はもう示したと云わんばかりにプラハ城がふっと夜に紛れ、辺りが暗くなった。俺はチェフ橋の手前で左に折れ、さらに右へ左へとカーブに沿って進んだ。広い道の両側にはアール・ヌーヴォー様式など、歴史ある建物が並んでいる。
プラハ城のライトが落ちたということは、もう深夜零時だ。けれど規則的に並ぶ窓はまだ、いくつも明かりが灯っていた。――ユーリはもう眠っただろうか。ルカはまだ起きていて、またPCに向かっているかもしれない。そんなことを思い、俺はくすりと笑みをこぼした。独りになりたくて出てきたはずなのに、今は無性に人恋しかった。
――自分の考えをもっとちゃんと整理して、ユーリにはっきり気持ちを伝えよう。
ひょっとしたら、俺はユーリを傷つけてしまうかもしれないけれど。でもどっちつかずのままでいて、その結果ふたりを悩ませ続けるような真似はもっと厭だ。伝えるべき言葉を誠実に伝えて、ユーリもルカも俺も納得して、バンドにも支障のないように――難しいかもしれないけれど、ユーリならきっとわかってくれる。
そんなことを思いながら、俺はボンネビルを操ることに集中した。まもなく見えてくる、ヴィノフラディの
◎𝖹𝖾𝖾 𝖣𝖾𝗏𝖾𝖾𝗅 𝖮𝖿𝖿𝗂𝖼𝗂𝖺𝗅 𝖡𝗈𝗈𝗍𝗅𝖾𝗀/ 𝖳𝖱-𝟢𝟣 - 𝖧𝖾𝖺𝗋𝗍 𝗈𝖿 𝖦𝗈𝗅𝖽
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※1〈DOUBLE TROUBLE〉
≫ https://kakuyomu.jp/works/16816927861467853798
※2 スプリフ・・・Spliff。ジョイント(Joint)のように大麻だけを巻くのではなく、ふつうの紙巻煙草に大麻を混ぜたもの。北西ヨーロッパ辺りではジョイントよりスプリフのほうが主流な吸い方になっている。
※3 スリップ・・・Slip。依存症からの回復中に、一時的に薬物やアルコールを使ってしまうこと。継続的に薬物などを使い、完全に以前の依存状態に戻ってしまう場合はリラプス(Relapse)という。
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