ナイトワーク ~夜勤者は今夜もあなたにつぶやく~

suiho

第1話 きっかけって本当に些細なところから始まるんですよね・前①

 ホテルの仕事と聞いて、一般の人が思い描く仕事内容はどんなものだろう。

 例えば「綺麗で」「華やかで」「フロントに立つだけ」の楽そうな仕事だという感想だろうか。立っているだけ、話しているだけ、フロントの様子を窺う程度の移動。確かにそのどれもが当てはまる。立っている時間の方が長いし、チェックインの手続きを含めば、お客さんと話す時間はそれなりだ。フロント周りの様子も見なければならないが毎分というわけじゃない。数時間に1回程度で、何度もフロントを見て回るわけじゃない。

 知らない人がホテルの従業員を見れば『楽そうな仕事だな』と感じるのも無理はない。実際楽そうだと感じてホテル業界を目指す人間も少なくない。

 だがこの場を借りて言わせてほしい。ホテル業というのは決して『楽な仕事』ではないとうことを。


「……ただいま」

溝間みぞま先輩。お疲れ様です。どうでした506号室」

「激おこぷんぷん丸だった。とりあえず部屋に出たGは排除したけど、Gが出たような部屋にはいられないって、当然だけどな」


 俺こと溝間千晴みぞまちはるは支給されている紺のスーツの上着を脱ぎ、事務所に置かれているキャスター付きの回転式椅子の背に上着をかけて座り込む。

 俺が勤めているグッドステイホテル京都は100室を保有するビジネスと観光を目的とした客層向けのホテルだ。基本となる部屋の広さは15平米でユニットバスタイプのバスタブは大の大人でも足を十分に広げられるほど広く作られている。テレビ、加湿空気清浄機、インターネット環境も完備されているので、自宅にいるような居心地の良さで疲れを癒すのにも最適となっている。

 ただ最近改装工事を行ったばかりだったので、普段いじらない部屋のあれこれを触ったために隠れていたGが這い出て来たようなのだ。


 後輩である佐東洋さとうようにはかなりオブラートに言い換えて伝えたが、お客さんは俺の言った500倍はキレていた。確かに予約した部屋にGが出れば怒るのも無理はないが、掃除したのも建物の管理も俺が全責任を負ってるわけじゃない。あくまで俺は夜勤業務としての一時的責任者でしかない。返金の話も上がりそうになったが、なんとかお客さんの怒りを抑えながら、部屋のグレードを上げることを約束した上でのルームチェンジで手を打ってもらった。

 オブラートに包んでも事の重大さは佐東にも伝わったようで、彼は真剣な表情で次の手を予測する。


「となるとルームチェンジっすね。あ、でも今日の空き部屋」

「ああ、今日はもう空いてる部屋は一室しかない。俺たちが仮眠部屋で使うはずの部屋」

「ええ! じゃあ今日は仮眠部屋ナシっすか!」

「残念ながらそうなる」


 佐東のあからさまな落胆に、俺も落胆しそうになるが問題は解決していない。パソコン上でのルームチェンジ操作は佐東に任せるとして、俺はこれからルームチェンジのための部屋のリメイク、つまり軽清掃と人数分のアメニティの準備、その後にGの出た部屋にもう一度出向いてお客さんの荷物を運びながら、新たな部屋の案内もせねばならない。その間の話し相手も込みでだ。

 相当キレてたから最高速度で部屋のリメイクをしなければ二次爆発を起こしかねない。


「とりあえずパソコン上のルームチェンジ操作頼むわ。カードキー作成はこっちでやっとくから」

「……すみません先輩。俺が電話取ったのに」

「夜勤やり始めてまだ間もないだろう? こういうのは先輩にまかせときゃいいんだよ」


 とはいえ、ここからが勝負だ。俺は手早く新たな部屋のルームキーを造り、事務所にあるアメニティを片っ端から掴み取っていく。多めに取っていったのはせめてもの謝罪の証である。ただのルームチェンジだけでは「これで終わりか?」と足元を見られる可能性がある。よって高価なアメニティの準備も欠かさない。


「じゃあちょっと行ってくるけど、その間のフロントは頼んだぞ」

「……お金の閉めは?」

「そんな情けない顔しなくとも一緒にやるって。なんかあったらとりあえずお客さんには待ってもらってくれ」


 佐東に言い残して俺は事務所を出ていく。

 時間は0時ちょうど。ホテル業界の夜勤業務はこのあたりで始まり出す。

 立った二人だけで何百人というお客さんの安全を守るための業務が。

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