『小休憩』1番目の物語【不安症の小説家とそれを支える編集者の話】

利糸(Yoriito)

不安症の小説家とそれを支える編集者の話

 どうして、この人はこんなにも不安定なのだろう……。


 打合せが思ったよりも長引いてしまった。けれど先生は居合わせた作家さん達とその担当さん達、みんなと楽しそうに談笑していて私はホッとする。慣れない遠出をして、予定よりも長い打合せになってしまって、疲れているのは間違いないのに。

 先生は有名でもないが無名でもない、そんな立ち位置で小説を書いている。年の割に幼く見える所為せいか年上からも年下からも可愛いがられることが多い人だった。

「そろそろ先生を送って帰ります」

と、みんなの輪から先生を連れ出す。

 廊下に出て、私は携帯をデスクに忘れたことに気付き、先生に断ってひとり編集室に戻る。

 廊下に戻った時、先生の後ろ姿が見えた。

 さっきまでみんなに囲まれてとても楽しそうに笑っていたのに。

 本人も「楽しかったよ」と言っていたのに……。

 廊下にひとりにした途端とたんまとう空気が一変している。

 以前に聞いた話。

 本人いわく、

「さっきまでいた場所と、今いる場所との落差があまりにも大き過ぎて、不安になる」

 ということが、先生の中で起こるらしい。

 私にはその感覚が分からない。

 私にとって私がいける場所はすべて同じ。地続きに繋がっている場所だ。徒歩でも、車でも、電車でも、バスでも、自転車でも。どこに行ったって、すべて同じ。私がいて、友達がいて、仕事仲間とか、取引相手とかがいる、私と他の人達が生活している空間。

 けれど、先生にとっては違うらしい。

 他人がいる場所。自分がいる場所。昨日。今日。家の中。家の外。

 全部、違う場所。

 例え話をしよう。

 休みの日、某夢の国に行ったとする。朝から乗り出して、閉館時間まで遊び倒す。帰りの電車の中で空虚感に襲われる。夢から覚めたような感覚。夢から、現実に戻る時のあの何とも言えない感覚。

 その感覚は分からないでもない。

 それに似たような感覚らしい。が、ただ、どこからが夢でどこからが現実とか、そんなものはなく、常に違う世界を渡り歩いているような感覚、らしい。

「先生!」

 先生の肩が跳ねた。いきなり大きな声で呼ばれてびっくりしたようだ。

「帰りましょう」

 と言うと、少しホッとした顔をして先生はうなずいた。

 信用されているらしいことが素直に嬉しかった。

 しかし、そこからの帰り道、先生は常に不安そうに辺りを見回し、周囲を警戒しているようだった。まるで、誰かが今にも自分を傷付けに来るとでもいうかのように。

 そんなことはそうそうあり得ないのに。

 先生はあまり思ったことを口にしない人だ。

 言っても意味のないことだと、本人は思っているようだった。

 この人はずっと、自分の世界に閉じこもって生きてきた。

「さ、先生。着きましたよ」

 電車とタクシーを乗り継いで辿たどり着いた先生の部屋に私は上がり込む。先生の部屋は私にとって勝手知ったる他人の家だ。

 1LDKのマンションの部屋は綺麗に片付いている。

 私はソファの上のクッションをつかむと家に着いたというのに所在無さげな顔をしている先生の腕にそのクッションを押し付けた。抱えるほどの少し大き目のクッションだ。

「……」

 先生はクッションを抱え、目をぱちくりさせている。

 先生は、自分の感情を自分でうまくコントロールできていない。

 先生にとって一番安心できる場所は自宅である。しかし、自宅に着いたからと言って外にいる間抱えていた不安がすぐになくなるかというとそうではない。

 すぐに抜け出せる時は抜け出せるが、そうでない時は家の中だろうが不安を抱えたままになる。

 私は、そんな先生を一刻も早く落ち着かせたいと思うのだ。

 私は先生をソファに誘導ゆうどうし、座らせてから毛布を一枚羽織はおらせた。

「僕……寝るの?」

「寝なくてもいいですよ。録画したアニメ、溜まってませんか? テレビのリモコンここに置いておきますね。電気ケトルも用意しておきます。ティーバックにスティックティー、スティックコーヒー、インスタントコーヒー、お菓子類も少し置いておきましょう。手を伸ばせば届くところに全部置いておきますね。先生はゆっくり休んでください。私はこれから夕飯の買い物に行ってきます」

「……行ってらっしゃい」

「行ってきます! あ! 何かあったら連絡くださいね。遠慮えんりょせずに!」

「……」


 部屋を出て行くその人を見送り、僕は目の前のローテーブルの上を見た。

 種類過多のお茶類、菓子類。

 いたれりくせりである。

 静かな部屋に電気ケトルが湯を沸かす音が響く。

 僕はリモコンに手を伸ばした。

 抱えているクッションは適度に弾力だんりょくがあり、手触りにこだわって買った甲斐かいあって抱えていてとても心地がいい。

 テレビを点け、デッキにも電源を入れる。

 電気ケトルの湯が沸いたのを知らせるカチッという音がして、少しビクッとした。カップにはあらかじめスティックティーが一本開けられている。カップの中に湯を注ぐとふわっと甘い香りが広がった。

ぬくい……」

 しばらく、テレビに集中していた、と思う。けれど、ふと部屋のすみを見る。全体を見る。

 日が陰ってきて部屋の中が暗くなってきていた。

 酷く、空虚感に襲われる。

 僕は腕の中にあるクッションを抱き締める。

「大丈夫、大丈夫……」

 いつだって不安だった。

 小さい頃から他人の言っていることはほとんど理解できなくて。人と話をすれば目の前に見えるのは壁ばかりだった。

 他人の存在をうまく認識できている自信がなかった。

 僕の世界には僕しか存在していなかった。

 その不安を口に出すことができなくて、そうして僕は小説を書き始める。小説の登場人物達は代弁者だった。自分の不安を現実に吐き出すことを恐れた僕の代弁者。

 TVが光を放っている。

 僕はクッションを抱え直し、毛布を頭からかぶって思いをせる。

 僕を、見つけてくれた人。

 あの人もまた、僕にとっては外の人だった。

 知り合ったばかりの時は僕に対して戸惑いもあったようだ。けれど、あの人は根気強く僕を理解しようとしてくれた。そんなあの人を僕は理解できなくて……。それでも、関わって行くうちに分かったことがある。あの人の言葉にいつわりはないということ。嘘をつかないとかそういうことではなく。心に、気持ちに、嘘がないというか……なんというか。

 すごい人だと思った。

 ただ、それだけ。

 僕はまばたきをする。

 TVを見ていないまま流していたことに気付き、記憶のある所まで巻き戻す。

 何だか温かくなってきた。と思ったらまぶたが落ちてくる。

「……」

 僕はTVを消した。

 ソファの上で横になる。

 まぶたを閉じると間もなく睡魔が忍び寄って来た。


 私は玄関の鍵を開け、部屋に上がる。

「ただいま戻りましたー。あ、みのむし」

 暗い部屋の中、先生がソファの上で丸くなっているのが見えた。

 毛布にくるまり、まぶたを閉じた顔だけが見えていた。その顔はおだやかで私はホッとする。不安な気持ちは落ち着いたようだ。

 カーテンを閉めて、電気を点けた。

 先生の眉間にちょっとシワが寄った。けれど起きる気配はない。

 それが、とてもうれしい。

「すぐにご飯作りますね」

 つぶやいて私はキッチンへと向かった。

                                  完

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