予兆

諸星モヨヨ

第1話

 生徒から、好きな食べ物について聞かれたあずま 伸一しんいちは一呼吸置いて答えた。

「すき焼き、かな」

「どうして?」

 間髪入れずに聞き返す女子生徒に、東は呻吟する。

 確かに、どうしてすき焼きが好きなのか。理由を聞かれると、答えに困る。

 ラーメンやカレーライスを衝動的に食べたくなることはあっても、すき焼きが無性に食べたいと思うことはほとんど無い。気に入ったすき焼き専門の店があるわけでも、肉の種類や、味付けにこだわりがあるわけでもない。しいて言うなら、食べるときは決まって卵をくゆらせる程度のものだ。

 にもかかわらず、どうしてすき焼きが頭に浮かんだのか。

 東は鼻梁を人差し指でかきながら、昼食時の教室をぼんやりと見回した。

 生徒達は、それぞれの班ごとに机をつきあわせ、各々が持ち寄った弁当を食べている。

 換気のために開け放たれた窓からは涼しい秋のそよ風が入り込み、どこかの生徒の持ってきた弁当の香ばしい油の香りを東の元へ運んできた。


「そうか」

 東は納得したように呟いた。

「気配、というか予兆だな」

 女子生徒は首をかしげる。

「先生の家ですき焼きが出るときは、必ず、何かいいことがあった時なんだ」

 父親が出世したときや、自分がいい成績を取った時は必ず、夕食はすき焼きだった。

「台所から、すき焼きの匂いが漂ってくると、決まって何かいいことがある。だから、すき焼きが好きなんだよ、先生は」

 自分に言い聞かせるように呟いた後で、返答に困っている生徒に気づき、東は微笑んだ。

「ないのか?」

「私? 私は・・・・・・卵焼きかな。ママの作る卵焼きがめっちゃすき。ベタかもだけど」

 東はうなずいて、自分の弁当を口に運んだ。

「でも、最近卵焼き作ってくんないんだよね・・・・・・」

「たしかに、俺んちも最近入ってない」

 隣で聞いていた男子生徒が声を上げると、周りの生徒も同じようなことを口走り始めた。


 東は生徒同士のやりとりをほほえましく見つめながら、一歩視線を引いた。

 身を引いた東の視界の隅で、不意に動く物があった。

 一人の生徒が立ち上がっていた。すらりとした高身長の女子生徒、千頭せんとう 有海あみだった。

 昼休みが始まるまでは、自分の席で過ごすのがルールだったが、東は特に声を掛けず静観した。

 時たま、席を離れて友人同士で話し込む生徒や、勝手に教室を出て行く生徒がいたが、千頭 有海に限ってそれはない。

 すたすたと、窓の方へ歩いて行く彼女の姿を見た東は、少し寒かったのかと思った。

 有海は東の視線に気づき。ふっと微笑んで頭を下げる。窓から吹き込む秋の風が、彼女の長い髪の毛をほんの僅かにたなびかせていた。


 彼女はゆったりとした足取りで、窓辺に近づくと、

 窓縁に手を掛け、

 そのまま外へと飛び出した。


 何が起きたのか、全く分からなかった。相変わらず、教室は昼食を取る生徒達の喧噪で満たされ、開け放たれた窓からは穏やかな風と陽光が差し込んでいる。

 異変に気づいている者は誰一人いなかった。それほど有海の行動は自然で、日常の一部に溶け込んでいた。

 東も数秒の間、口に含んだ料理を咀嚼し、ここは3階の教室ではなかったか、と間の抜けた疑問を頭に思い浮かべた。

 窓の外では、その疑問に答えるように、ばんっと、重い物が地面に叩き付けられる音が響いた。



つづく

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