「そうだ。今日、家泊まっていきなよ。」帰る道すがら、彼はこう提案した。


私はどきっとして足を止めた。


「それって、あの、コンビニとか寄った方がいい?」


「食べ足りなかった?俺はいいかな、家に何かしらあるだろうし。」


首を横に振った私を見て、彼はつかつかと家に向かって歩いていった。私はため息をついて、その後ろに続いた。


「俺、実は結構布団にこだわってるんだよね。これとかもブランドのやつでさ、かなりふわふわだよ。」


部屋に入るなり、彼は布団を指差した。実際に触ってみると、確かに私が使っている布団よりもはるかに柔らかく、私が押したことで生まれた凹みはゆっくりと戻っていた。


「ほんとだ。でもこんなに柔らかいと、骨盤が歪みそう。」


「でも、もう関係ないでしょ?」彼も布団をぺしぺしと叩いて言った。


確かに、骨盤がどうとかをちゃんと気にし始めたのは、ダンスを始めてからの話だ。ダンスを辞めるのなら、そんなに神経質になる必要はないかもしれない。


しばらく彼と話して、お互いに眠気を感じた頃、彼は布団を指差した。


「どうぞ、俺は床で寝るから。」


そう言って彼は横になった。


私も布団に入って、横になってみた。何かに沈み込んでいるのに、何からも反作用を受けていないかのような、不思議な感覚だった。寝返りを打って顔を枕にうずめた。かすかに汗の香りがして、ニンニクの匂いが追い出されていくのを感じた。


「どう?」


下の方から声が聞こえた。


「悪くないね。」


そう言って、私は目を閉じた。




踊っている夢を見た。音楽に合わせて、一心不乱に体を動かす。頭の先から足の先まで、思い通りに動かすことが出来た。私は誰よりも自由だと思った。


しばらくすると、周りに人が数人いることに気づいた。誰かはわからなかったが、その人たちも踊っていた。私はその人たちより上手く踊りたいと思った。必死に体を動かした。段々と体が重たくなり、思うように体が動かなくなった。呼吸が苦しくなって、視点が上手く定まらなくなった。とうとう私は膝をついて、肩で息をしていた。私は誰よりも不自由だった。


足音が聞こえて、私の前に誰かが立ち止まった気配がした。


「やっぱり、上手く踊れなかった。」私はぼやいた。


「誰より?」


見渡すと、いつの間にか私と彼以外には誰もいなくなっていた。


「まだ息は苦しい?」


吸って、吐く。呼吸は整っていた。


「でも、もう疲れたんだよ。ずっと踊ってたし。」


「あんなに食べたのに?」


昨晩食べたのは、でたらめな熱量を一杯のどんぶりに詰め込んだ、豚骨ラーメンだった。


「まだ体は動かない?」


立ち上がった。体の何処にも、エネルギーが巡っていない場所はなかった。


「私、踊るよ。何か見たいものは?」


「好きなように。お互い、それが一番楽しいでしょ?」


私はただ思うがままに体を動かした。体のどこがどう動いているかなんて、心底どうでもよかった。音楽さえも聞こえなかった、聞こえなくても問題なかった。まったく本当に、どうしてこんな簡単なことを忘れていたんだろう。私は誰よりも、世界で誰よりも自由になった。

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