どこ?

はろ

どこ?

『どこ?』


 年代物のガラケーが震えて、彼からの短いメッセージが届く。『今君はどこにいるの?』という意味だろうか。

 5W1Hの概念が完全に崩壊した疑問文は、彼の焦りと怒りの大きさの証かもしれない。私の勝手な行動に、彼はとても戸惑っているのだ。


『内緒。楽しみに待ってて』


 私がそう返事すると、またも激しくガラケーが震え始める。けれど私はそれを無視して、遠い海沿いの街へと行くための電車に飛び乗った。今日だけは、どうしてもわがままを聞いてほしくて。


 彼と出会ったのは、彼が八歳の頃だ。

 彼は可哀想な人だった。『可哀想』などという陳腐な言葉にまとめてしまうと、これまで懸命に生き抜いてきた彼に対して失礼な気もするけれど、とにかく出会ったその瞬間から、私は彼を可哀想だと思い続けているのだ。

 具体的に言えば、とにかく家庭環境が最悪だった。彼のお母さんは子どもを育てるには若く、貧しく、無知で孤独過ぎたし、さらにそのためにすがらざるを得なかった男が、最低最悪の人間だった。

 彼の戸籍上の父親ということになったその男は、とても口に出すのも躊躇われるようなやり方で、たった八歳の頃から彼を苛み続けた。あの男の、簡単に手が出る、あの自制心のなさ、傲慢さ、欲を抑える術を知らない、愚かさ、獣にすら勝る悍ましさ。

 彼と出会ったのは、彼がたった一人でその全てと戦っている最中だった。私はとにかく彼が可哀想で仕方なく、彼が立ち向かう苦しみを、肩代わりしてあげたいとすら何度も思っていた。世界のあまりの残酷さを彼の小さな身体が受け止めきれなくて、ついに壊れてしまいそうな夜には、実際に肩代わりしたこともある。

 出会った当初は、多分私は彼の友だちのようなものだったと思う。けれどそうして寄り添い、年齢を重ねるうち、自然といつしか私は彼の恋人になった。


「恋人?プレゼントの一つもくれたこと、ないのに?」


 ふいに、私の隣にいた背の高い女性がちゃちゃを入れてくる。彼女の名前は香菜といって、私の友だちだ。彼とは面識がないが、実は彼女は彼のお母さんに顔や名前がとても似ている。だからこそ、会ったら彼が辛くなるんじゃないかと思って、一度も会わせたことはない。


「そんなことないよ。ぬいぐるみとか、美味しいケーキとか、恋愛映画のチケットとか、買ってくれたことあるし」

「えー、あれ、プレゼントだったの?自分のために買ってるのかと思ってた」

「違うよ、私のため。私にはわかるの」


 私が断言すると、香菜はどこか含みのある顔でにやにや笑う。冷やかすように「らぶらぶだねえ」と言ったあと、少し間をおいて、ぽつりと呟いた。


「なら、ずっと一緒にいてあげればいいのに」


 その言葉に、私は少し切なくなる。もしかしたら、そうしたほうがいいのかもしれないと、私も何度も迷ったから。

 けれど、それではいけないという予感がするのだ。彼の中で、私は役目を終えつつあるような感覚がある。『感覚』だけで別れを告げられるなんて、彼にとってはたまったものではないかもしれないけれど。それでも、私は別れなければいけないと感じている。

 そしてそのために、今日、昔彼と行った海沿いの街へ行くのだ。


 平日の昼前だからか、或いは田舎町に向かう鈍行だからか、列車内はガラガラだった。


「で、どこに行くんだっけ?」

「あのねー、彼のおじいちゃんが住んでるとこ」

「え、おじいちゃん?いたんだ?」

「いるよ、そりゃ。おばあちゃんもいたけど、五年くらい前に亡くなったみたい」


 香菜とともに座席に座り、窓から差し込む心地よい日差しを浴びながらのんびり会話をする。

 彼のおじいちゃんは、その海沿いの街で暮らしている。もう十年以上前に会ったきりで、その時は無愛想でぶっきらぼうな人だなとしか思わなかった。けれど思い返せば、寡黙ながら優しい目をしていたし、分かりにくいながら常に彼のことを気遣っていたような気がする。

 父親だった男によるあらゆる暴力に晒され続けて育った彼に、やっと救いの手が差し伸べられたのは彼が十四歳の頃だった。気が付いてくれたのは、彼の当時の担任の先生。児童相談所への通報からやがて警察沙汰にもなり、最終的には親元で暮らすべきではないと判断された彼は、海辺の街で暮らす祖父母のお世話になることになった。

 地方ではあるがそこそこの都会で生まれ育った彼にとって、その潮の香りのする静かな街は異質な環境だった。あの街に、彼と二人で初めて足を踏み入れた瞬間の、何とも心細くささくれ立ったような感覚を、私もまた今でもよく覚えている。

 そもそも、痛みの根源が除去されたからといって、すでに血を流している場所が急に完治するわけはないのだ。あの頃、彼は今よりずっと精神的に不安定な状況で、心を固く閉ざしていた。


「結局ね、あそこにはあんまり長くはいられなかったの。だって彼、ほら……あのクソ野郎のせいで、大人の男の人が苦手でしょ。だからおじいちゃんにもひどい恐怖感を抱いちゃって、結局施設で暮らしたほうがいいってことになったんだよね」

「ふーん。それは、おじいちゃんが怖い人だったからってこと?」

「ううん。私もね、当時はちょっと怖い人なのかなと思ったこともあったんだけど……おじいちゃん、そのあとずっと、彼を心配して施設に手紙をくれたんだよね。それだけじゃなくて、クリスマスとか誕生日とか、イベントごとにプレゼントも送ってくれたり……心の底から、彼のこと、思ってくれてるんだと思う」


 とはいえ、彼はその手紙を今までろくに読んだこともない。プレゼントだって、開けもしなかったり、施設の他の子にあげてしまったりした。

 祖父母はつまり彼の母の両親ということになるが、彼はまずお母さんのことを全く信用していない。赤ん坊の頃からネグレクトと言って問題がないくらいほったらかしにされ続け、やっと家庭と呼べるようなものが手に入ったと思ったらあんな父親が付いてきて、しかもその男による暴力をお母さんは見て見ぬふりし続けたのだから、無理もないだろう。

 そしてお母さんを信用できないから、自動的に祖父母のことも信用できないのだ。彼にとって、血の繋がりはむしろ不信の理由になってしまう。これは理屈の問題ではなく、彼の心の深くまで根付いてしまった感覚なのだと思う。

 しかし私は、彼に隠れてこっそりその手紙を読んでいた。そして、肉親の当たり前の愛情を、彼にも注いでくれる存在がいるのだということを心の底から嬉しく思った。

 だから何度も、彼のガラケーにちゃんと読んだほうがいいってメッセージを送ったのに。けれど私が言えば言うほど彼は頑なになって、手紙を破ってしまったり燃やしてしまったりした。

 僕には君がいればそれでいい、君まで僕を見捨てるのかって取り乱すから、正直当時はちょっとつらかった。今思えば、私ももっと彼の心の状態を気遣うべきだったと思うけど。

 

 そのような過酷すぎる家庭環境で育ったのだから無理もないことだけれど、彼はずいぶん長い間心に問題を抱え、これまで何人ものお医者さんやカウンセラーにお世話になってきた。

 けれどまず言いたいのは、彼は闘い続けてきたということ。気力を失うことは何度もあったけれど、それでも彼の中には立ち直りたいという意欲が存在し続けた。だから彼は、悍ましい化け物にもたらされた泥のような苦しみの中でも、少しずつでも前に進み、今日まで生きてきたのだ。

 彼は今年の春で二十三歳になった。まだまだ苦しみは深いが、それでもまたもうひと段階、症状が改善する節目のときを迎えようとしている。


「どこか、心の拠り所になるような場所……いや、場所じゃなくてもいい。趣味でも、人でもいいんです。そんなものはないですか。あなたの心の中以外のどこかに」


 特に心の問題の場合、お医者さんやカウンセラーとの相性は重要だ。相性の良し悪しで症状が全く良くならなかったり、逆に劇的に改善したりする。

 彼は今のカウンセラーの先生にもう五年もお世話になっている。かなり相性がいいらしく、先生のことを深く信頼しているらしいことが伝わってくる。

 そんな先生が、先日彼にそんなことを聞いたという。つまり、心の拠り所を見つけることが、彼がさらに苦しみから解放されるためには必要だということなのだと思う。

 そんなものない、全く思いつかないと彼は私に言った。どこか現実を拒絶するみたいに。けれど私はすぐに、彼のおじいちゃんのことを思い出した。

 私は彼のことをとても深く想っている。多分、誰よりも深く。けれど――私なんかの愛情を知ることより、心の底から彼を想ってくれる肉親がこの世に存在することを彼が知ること、そしてそれを受け入れることのほうが、よほど彼にとって救いになるだろうことを私は知っている。


 その時、また激しくガラケーが震えた。

 この古いガラケーは、彼が幼児だった頃に彼が持っていたのと同じ物だ。

 水と菓子パンだけ用意して毎日彼を長時間一人きりにしていたというお母さんは、連絡手段としてこれを彼に与えた。これが震えたらお母さんとお喋りできるんだと思って、彼は健気にいつもガラケーを握りしめていたのだという。けれど、それが鳴ることは滅多に無かった。

 つまり、これは彼にとっては悪い思い出の象徴のはずだ。にも関わらず彼がこれを使って私と連絡を取りたがるのは、悪い思い出を乗り越えたいという気持ちの表れだと思う。

 カシャンと音をさせてガラケーを開くと、ディスプレイにこんなメッセージが表示されている。


『僕を捨てるつもりなの?』


 昔の記憶が蘇って少しヒヤリとするが、彼はもうあの時の彼と同じではないことを私は知っている。


『そうじゃないよ。知ってるくせに。私はもうすぐあなたにとって必要じゃなくなるの。そしてそれは、あなたにとってとてもいいこと』

『まだ必要だ』

『そう言ってもらえるのはとってもうれしい。でもね、私がいる場所じゃないところに、あなたの本当の幸せがあると思うの。あなたの心の拠り所になるところに』

『どこ?』


 列車は長い時間をかけて、やっと海沿いの街へと着いた。駅から海岸までは多少距離があるはずなのに、ホームに降り立った瞬間から潮の香りがする。

 この香りを嗅いだら、彼の胸は酷く騒いでしまうかもしれないと心配していたけれど、思ったよりずっと穏やかな気持ちのままであることに私は安堵した。

 気が付いたら、香菜はいなくなっていた。

 彼の心の中は、今とても静かだ。少し前まで、そこにはもっとたくさんの人がいたのに。けれどみな役目を終え、いつの間に消えていった。

 香菜は、お母さんの代わりに彼を愛してあげるために生まれたのだと思う。けれど彼の方で受け入れる準備が整わないようだったので、結局その本来の目的が果たされることはなかった。彼が立ち直りつつある今、香菜はもう二度と現れることはないのかもしれない。


 人の心は不思議だ。

 心理学上では、私は――私達は、彼の心が彼自身を守るために産み出した、一種の防衛機構でしかないということになっている。

 けれど私自身には、そんなこと到底信じられない。私は確かに、ここに魂を持って存在するような気がしている。

 そして同時に、そうであってほしいという気持ちもある。だって魂があれば、消えたあとも幽霊なりなんなりになって、彼を見守っていられるかもしれないから。


 私はそっと主人格の座を手放す。すると表層に意識を上らせた彼が、自分が今どこにいるかを理解する。海沿いの街の駅の、人のまばらなホーム。晴天の空。潮風と、遠くにかすかに聞こえる波の音。

 

『覚えてるでしょ、おじいちゃんが住んでる街』


 ガラケーにメッセージを打ち込む。彼が狼狽えながら、私の意図を理解していくのが伝わってくる。

 家を出る前、彼のおじいちゃんには連絡を入れてある。おじいちゃんはすごく喜んで、食事を用意しておくって言ってた。

 心の中の私たちではない、あなたを受け入れて、想ってくれる人が現実に生きているのだって、全身で理解して欲しい。

 あなたの居場所は、ここにあるんだって。


『愛してるよ。ずっと一緒にいるよ。

 幸せになってね』


 ゆっくりとメッセージを打つ。

 彼が惜しみ、あるいは悲しみながらも、先に進もうとしているのを感じて、私は静かに彼の中から消えた。

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