第4話 光を育てる畑
リゼットは朝早く起きると、古びたスコップを手に、広場の端にある空き地へ向かった。
かつてはパンの香りが広がっていた広場も、今ではただの石畳。
その隅っこにある小さな土地は、雑草が生い茂り、石ころがごろごろしていた。
誰の目にも“使いものにならない場所”に映っていたが、リゼットにとっては——ここが唯一の希望だった。
かつてのパン屋の敷地には、もう入ることを許されていなかった。
彼女がパンを焼ける日は、まだ遠い。
リゼットは、スコップを土に差し込んだ。
「それなら、ここから始めるんだ……」
掘っても掘っても、すぐに石にぶつかる。
草の根は固く、手袋をしていても指先が痛んだ。けれど、心の中には確かな言葉があった。
——夜に願いをかけて、水をあげなさい。
——星の小麦は、光と想いを糧にして育つの。
祖母の夢の中で聞いた、やさしい声。
それだけが、今のリゼットを支えていた。
昼は土を耕し、夜は星を見上げて祈る日々が始まった。
雨が降れば、種を植えるために作った土の列
が崩れ、泥水が種をさらっていった。
野ウサギがやって来て、足跡と掘り返した跡を残していく。
それでもリゼットは、静かに畑に向き合い続けた。
畑のまわりに小枝で柵を作り、溝を掘って水はけを工夫した。
風が強い夜には、古いシーツを布の屋根にして畑を覆った。
星がいちばん輝く夜はこね鉢に井戸水を張り、星の光が映るその水を、そっとすくって畑に注ぐのだった。
星と、過去のぬくもりをあわせるようにして。
「大丈夫。きっと、星の光は届いてる。……わたしも、ここにいるよ」
それは、まるで小さな命との対話だった。
夜になると、リゼットは畑のそばに腰を下ろし、ノートを開いた。
「今日は風が冷たいけれど、星がよく見える」
「昼間に、小さなてんとう虫がいた」
「足音がした。きっとウサギ。また柵を直さなきゃ」
「まだ芽は出ない。でも、きっと土の中で頑張ってる」
誰かに見せるわけでもない。けれど、それは確かに、リゼットの願いの記録になっていた。
そして、星の光がいちばん強く輝いた夜——
種をまいてから、ちょうど二週間が経っていた。
土の表面をそっと撫でるように見ていたリゼットは、ある変化に気づく。
——そこに、ほんの少し、土の割れ目ができていた。
のぞきこむと、そこには指先ほどの細い芽。
緑ではない。白でもない。
その姿はまるで——夜空の星が、地上に降りてきたようなひとしずく。
銀の光をまとう芽が顔をのぞかせていた。
「……ありがとう」
思わず、そうつぶやいていた。
目の奥が熱くなる。
こらえきれず、ぽたりと涙がこぼれた。
けれど、それは悲しみではなく、ようやくめぐり会えたものを、そっと抱きしめたような——そんなあたたかい喜びの涙だった。
翌朝、畑にはもうひとつ、そしてまたひとつと、小さな芽が顔を出していた。
リゼットは支柱を立てて、夜露から守る布をかけた。
風よけの板をくくりつけ、水の通り道を掘った。芽が倒れないように、声をかけながら手のひらで土をなでる。
どの芽も、少しずつ光を帯びていた。
まるで、「ちゃんと聞いてるよ」と答えてくれているかのように。
気がつけば、その手は傷だらけだった。
けれど、リゼットは一度も「つらい」と思ったことはない。
——この土の中に、あの朝の香りが眠っている。
そうして、ある朝。
リゼットが目を覚ましたとき、広場の空気がふわりと変わっていた。
畑に近づくと、そこには光の海が広がっていた。金色の麦の穂が風に揺れ、星のきらめきをまとったようにきらきらと輝いている。
リゼットは手のひらをそっと伸ばし、小麦に触れた。
触れた指先に、かすかな温もりが伝わる。胸の奥がじんと熱くなった。
——パンの、焼きたてのぬくもり。
リゼットは空を見上げ、胸の中でそっと言った。
「おばあちゃん、お父さん、お母さん、またパンを焼けるよ。」
あの日失ったと思っていたすべてが、確かに、ここに戻ってきたのだった
風が麦のあいだを通り抜けるたび、
それはまるで、空から届いた“返事”のように、やさしく彼女の背中を押していた。
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