オマージュ

楠木次郎

1

 小学六年生の白石しらいし純一じゅんいちは"カオナシ"が嫌いだった。

 カオナシは『千と千尋の神隠し』に出てくる、黒い影に白面を付けたキャラクターである。純一はカオナシの、金で千尋の気を引こうとする気持ち悪さと、拒絶されて復讐しようとする卑屈さを嫌悪した。哀れで情けなく、救いようがなかった。

 『千と千尋』自体は素晴らしく、彼のオールタイムベストに入った。奇天烈で愛らしいキャラクターと純朴な少女が労働を通して成長するストーリー。細部に至るまで拘り抜かれた映像が、心を掴んで離さない。

 好きなキャラクターはハクだった。おかっぱ頭とポーカーフェイスが自分と似ている。純一は口には出さなかったが、密かにそう思っていた。普段から口調や歩き方を真似していたので、周囲の人間も同意してくれるはずだった。

「純一ってカオナシに似てるよな」

 クラスメイトの鈴木すずきが教室中に響き渡る声で言った。

 学年で一番足が速い鈴木は地位が高く、彼の発言は瞬く間にクラス全員の総意となった。

 その日から純一は「純一」という名を奪われ、カオナシになった。声真似をさせられたり、無視されたり、腹に油性マジックで口を描かれて力一杯殴られたりした。

「おいカオナシ、餌だぞ」

 鈴木が校庭にいたアマガエルを手掴みで運んでくる。純一は羽交締めにされて身動きが取れない。二発の殴打がみぞおちに入った。耐えきれず口を開くと、カエルを突っ込まれた。冷たい舌触りと不愉快な体液の味。すぐにでも吐き出したかったのに、顎を掴まれて無理矢理咀嚼させられた。

「カオナシ、カエルの言葉喋れよ」

 鈴木や周囲にいたクラスメイトが命令する。純一は必死にカエルの声を発した。げらげらと下品な笑い声が遠くに聞こえる。意識は既に朦朧としていた。

 客観的に見ればクラスメイトたちの行動は虐めそのものだったが、純一を傷つけること自体は目的ではなかった。彼らの暴力は、映画へのオマージュだった。鈴木たちも『千と千尋』を愛していた。好きな映画のワンシーンを真似してみたい、アニメのスペクタクルを再現してみたい。そこに悪意はなく、偉大な作品に対する敬意だけがあった。

 クラスメイトたちは休み時間を使って、オマージュを繰り返した。主人公からモブに至るまで、あらゆるキャラの台詞を暗記し、動き方を覚えることでリアリティを上げていく。

 リアリティは純一にも求められた。白の絵具を顔面に塗りたくり、カオナシの能面を再現する。涙が流れると"白粉"が落ちるので、どんなに殴られても「泣くな」と命令された。

 純一は抵抗することをやめて、カオナシの物真似に専念した。演技が上手くできると鈴木たちは喜び、オマージュ遊びが比較的早く終わった。カエルを食べて、カエルのような声を出し、土でできた苦団子を食べて嘔吐する。

 日に日に演技の練度は高まったが、時折窓から飛び降りたいと思うようになった。それは突発性の希死念慮で、すぐに鎮静するものだったが、純一はこのために『千と千尋』を見なくなった。希死念慮が芽生えるのは、決まって本編を鑑賞しているときだった。

 もう『千と千尋』が好きではない。純一は感情の変化に気づいた。『千と千尋』が憎い。ジブリが憎い。彼はDVDをガムテープで巻きつけて、永久に封印した。

 

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