【BL】光点
ハムニバル
第1章
幼いころに制限されていたり禁止されていることに、大人になってから熱中する。そういうことはよく聞く話だ。二十代も後半に差し掛かった今、自分にそれが起こったとしても、不思議ではない。
きっかけ、と言っていいのかも迷うほど、本当に瑣末な偶然だった。押しに押していた撮影の合間の出来事だ。たまたまヘアメイク担当の女性がつけたテレビ画面に、彼がいた。初めて見る顔だし、名前も知らない。ただ、彼と俺とに共通項があるとすれば、テレビ画面に映る仕事を生業にしているということ。
ツアーアルバム発売決定というテロップが左下に表示され、彼は歌番組の司会とにこやかに話している。
彼のすぐ横には、同じような衣装を着た男性が横に四人並んで座り、トークに耳を傾けている。
「じゃあ今回は作詞も挑戦したの?」
「あ、はい。今回のアルバムにも収録されてるSundayって曲なんですけど、ほっと一息ついてるときの気持ちとか、次の休みどんなことしよっかなとか…まあそういう、僕にとっての休みの日がテーマになってます。」
「そりゃまた、次の休みが楽しみだね。」
「あ、はい。楽しみです。」
「それではDRIVE JETの皆さんで、ウィンターベルです。どうぞ。」
そのグループが移動してステージ画面に切り替わると、寒色に煌めくライトに照らされ、マイクを持った彼の顔がアップで映し出された。バラードなのだろうか。切なげなピアノのメロディーに乗って、他のメンバーが静かに踊り出す。そして歌い始めに彼が息を吸い込んだ瞬間、テレビ画面が暗くなった。
「はいオッケーでーす。」
ヘアメイクの女性の明るい声が飛んで、顔周りのケープを取られた。
「秋穂さんスタンバイお願いしまーす。」
後方のドアが開いて声をかけられた。
鏡の中の自分と顔を見合わせながら、彼が歌い出すのと同じようにして、息を吸った。
この撮影での役柄は、鏑木悠太というパワーカップルの男役だ。大手ゼネコンの総合職として、忙しく働く自分が大好きなエリートサラリーマンと台本にはあった。
そんな彼の自宅に、恋敵となる画家の青年が訪ねてくるという修羅場のシーンだ。
そもそも普通のサラリーマンとして働いたことがない俺が一握りのエリートを演じるなど、芸歴十年を越えた今になっても土台無理な話に思えてくる。反対に言えば、その無理を十年もやり続けて今ここにいるのだが。
鏑木悠太は分かりやすいナルシストで、高層マンションに住み外車を乗り回し、高級なスーツと腕時計を身につけ、美人で稼ぐ彼女を手に入れた自分にひどく酔いしれている。悪意はないが自然と周りを見下す言動が多く、選民意識が強い。主人公はそんな彼氏への気持ちが冷め始め、ひょんなことから出会った年下の画家の青年と恋に落ちる、というのが大筋のストーリーだ。
「お疲れ様でーす。よろしくお願いしまーす。」
画家の青年の役を演じるのは、大手事務所から数年前にデビューし、人気を確立したアイドルグループのメンバー、水瀬伊織だ。プードルのような巻き毛と、黒目がちな瞳は零れ落ちそうに潤み、一言で言ってしまえばかわいい。男でもかわいいを求められるのが最近のアイドルなのだろうか。楽屋に挨拶に来てくれたときも思ったが、生で見る水瀬くんには、とても成人男性には見えない純粋なあどけなさがあった。
「秋穂さん、差し入れいただきました!すっごい美味しかったです〜、ありがとうございます。」
彼も畑違いの現場にきている手前、先輩役者やスタッフたちに対し、綿密に気配りをしようとしているのが伝わってくる。
「秋穂さん!昨日の差し入れ、めっちゃ美味しかったです!ごちそうさまでした!あのお店、よく行かれるんですか?」
「ああ…けっこう前だけど、竹縄さんと一緒になったときに差し入れでもらって、美味しかったんですよね。」
「竹縄さんて、竹縄龍太郎さんですか?え、じゃあ、業火のときとかですか!?」
竹縄龍太郎氏と俺の共演作品が頭に入っていることに驚いて目を瞬かせていると、水瀬くんは肩が振れるか触れないかの距離まで近づいてきた。
「僕、役者としては全っ然…まだまだなんですけど、秋穂さんとかナカケンさんとか、大船俊介さんみたいな役者さんすごい好きで…あの、目指してます!」
「えー、そうなんですか。ありがとうございます。」
ナカケンことナカザワケントと大船俊介は、俺とほぼ同時期にデビューし、共演作品も多い方に入る同世代の俳優だ。三人で共演したこともあり、数は少ないがプライベートでも食事をしたり、飲みに行くこともある役者仲間でもある。まさかそこの情報まで掴んでいるのかと逡巡している間に、AD から俺と水瀬くんに声がかかった。
「あの、またあとで楽屋伺ってもいいですか!?」
「あ、はい。」
これから俺は水瀬くんと殴り合いのシーンを撮るというにも関わらず、水瀬くんは嬉しそうに笑っていた。
そんな俺の心配には及ばず、その後の撮影ではかわいいお顔には似合わない腕力で、しっかりと腕っぷしを披露してくれた。
スタジオ撮影にも関わらず、急な演出の変更が入った関係で押したその日の撮影は、日付を跨ぐ寸前での解散となった。
殴り合いのシーン自体は三テイク撮ったうちの三テイク目が採用され、その後の撮影もスムーズに進んだ。
テレビ画面では十分ほどでオンエアされるシーンを、半日から一日くらいの時間をかけて撮影する。ドラマを一本作るとなれば、第一話から最終回まで撮り終えるまで、ニヶ月から三ヶ月ほどかかる。
緊張した様子で水瀬くんが俺の連絡先を聞いてきたのは、互いにクランクアップが済み、ロケバスで待機していた時のことだった。
「え、いいですか?」
「や、もちろん。」
「あと俺、事務所的にSNSとか全部じゃないけど監視されてて…」
個人間のメッセージの内容も全て事務所に筒抜けになることを、大層に気が引けた様子で水瀬くんが伝える。プライバシーの侵害という概念や言葉もない事務所というのはこうして存在するわけだが、そのおかげで事務所そのものや所属タレントたちを守る結果を出しているのも事実だ。暴走するタレントたちにとって、それ相応の抑止力になっているのだろう。自分の所属事務所からは、そういった干渉をされたことが一度たりともないというのも、一抹の不安を覚えるものだが。
「そこは全然、大丈夫ですよ。」
「すみません。」
「でもなんていうか…意外だな。」
「えっ、何がですか?」
「ごめんね、正直はじめは…そこまで芝居に全力投球しないだろうなとか、勝手に思ってたんだけど。水瀬くんは芝居、好きなんですね。よく伝わりました。」
「えっ…。えー…。」
「あとすごい、話数ふえるごとですけど、上手かったです。目線とか間の取り方とか…。なんか俺がいうのも偉そうな話だけど。多分俺が、水瀬くんの歳の時ってもっと下手だったから。」
「え〜。」
え だけしか発さず、水瀬くんは目頭を赤くし、首を大きく横に振っていた。
ゴンゴン、とロケバスの出入り口あたりから音がしたかと思うと、スライドドアが開いてADが顔を出した。
「すいませーん、お二人いったん出てもらっていいですかー?榊さんのクランクアップの画とりますんでー。」
「あ、はい。」
じゃあ、と対面に座る水瀬くんを促すと、立ち上がった水瀬くんの頰に一筋の涙が伝う。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないですよ…。」
いつもより何トーンか低い声で呟きながら、水瀬くんは俺のあとに続いてロケバスを降り、主演女優に手渡す花束を渡されると、いつもの笑顔に切り替わっていた。
「榊あやのさんクランクアップでーす!お疲れ様でした〜!」
割れんばかりの拍手を送られながら、主演の榊さんが満面の笑みで花束を受け取り、水瀬くんと抱き合った。
ドラマ「非売品のヒマワリ」は、メインターゲットとしていたF2層だけに留まらず、年代性別問わず幅広い層に反響があった。一話から最新話までの平均視聴率は10%台に留まっているものの、配信番組での再生回数は常にトップ3にランクインし続けている。
クランクアップから程なくして伝えられたのは、最終回の放映日に情報番組への出演が決まったことだった。榊さんと水瀬くんと共に、朝昼夕の情報番組やバラエティに立て続けに出演し、番宣することになった。非売品のヒマワリが予想以上の反響だったために、急遽決まったのだろう。
テレビ局の地下駐車場に向かって、細い腕で大きなワゴン車を滑り込ませながら、マネージャーの井桁さんが欠伸をする。
「…井桁さん寝てないんですか?」
「いや寝てます、すみません。」
「…朝ごはん食べました?」
「逆に公平さん食べました?」
「食べてないですね。」
「えー、食べます?そこのビニールの中、パン入ってますよ。塩パン。」
「でもそれ井桁さんが食べようとしてたんじゃないんですか?」
「それおやつなんで、いいです。私もう松屋で食べたんで。」
シフトレバーの後ろに無造作に置かれたビニール袋を開くと、パンが二つにおにぎり一つ、チョコレートのお菓子とフルーツ系のグミが一袋ずつ入っていた。井桁さんは俺の専属のマネージャーとしてついてくれているわけだが、水瀬くんのように分刻みのスケジュールで埋まるような多忙さは、もう久しくなかったはずだ。それが一度こうして出演作がヒットを飛ばすと、お互いの食生活や睡眠時間も荒廃したものになっていく。
「いつもありがとうございます。いただきますね。」
「どうぞ。」
この手の番宣は立ち位置や番宣内容の簡単な指示が出るのみで、ほとんどぶっつけ本番だ。こういったことでもない限り、俺が生放送に出演することは滅多にないので、慣れ親しんだテレビ局であっても少々気が引ける。塩パンを齧っているというのに、塩っ気が感じられない程度には緊張していた。
用意されていた控室には榊さんが既に到着し、メイクも衣装も仕上がった状態で座っていた。
「あ、おはよ。」
「おはよう、早いね。」
「私ねえ、夕方の収録終わったら高飛びする予定なんだよね。」
「なに、ハワイ?」
「せいかーい。」
「ハワイ好きだねー。」
「誰と行くのかとか聞かないの?つい最近まで恋人だったのに〜。」
「そっちは俺のことあっさり捨てたじゃん。」
あはは、たしかに〜と榊さんは呑気に笑った。この人はこれで清純派として売ってはいるが、本当のところは役者としての気位も向上心も、ずば抜けて高い女優の一人だ。昨今ではモデル、歌手、アイドル、タレント、芸人などから役者に転身する人たちが多くいる中で、榊さんは中学卒業と同時に両親の反対を押し切り、東北から上京してアクターズスクールの門を叩いたと言う。鳴かず飛ばずの下積み時代を何年も味わいながら、朝ドラのヒロインを勝ち取り、非売品のヒマワリの主演も射止めた。彼女との共演は三度目だが、芸能界の酸いも甘いも知り尽くしている骨太な先輩だけに、背筋が正される存在だ。
「いおりんはもう入ってんの?」
「いや知らない。」
「やっぱさぁ〜、ああいう子って余裕ぶっこいてるよね〜。」
水瀬くんのことを言っているにしては、ずいぶん棘のある言い方だ。それこそ榊さんの言葉を借りれば、少し前までは様々な障壁を乗り越えて結ばれた、恋人同士だったのにも関わらず。
「え、なにその顔。」
「別に。」
「いやいや。なに?」
「珍しいじゃん。そんな怒るの。」
「いやいやいや。なんでうちらが待たされなきゃいけないわけ?マジ最悪。これだからアイドルあがりは。」
彼女はスマホを見たまま露骨にため息をつく。
俺は立ち上がって鞄からチョコレートを取り出した。塩パンだけでは足りないだろうと、先ほど井桁さんがくれたものだ。
歩み寄って榊さんに手渡すと、榊さんは不機嫌そうな面持ちを崩すことなく手を伸ばした。
「え、秋穂さんはさぁ、どう?ああいう子。」
「いい子じゃん。勉強熱心だし。」
「なんで?どこが?」
「…泣きの、芝居とか。俺はいいと思ったよ。」
再び榊さんの対面の椅子に腰かけ、チョコレートを机の真ん中に置くと、榊さんは袋ごとチョコレートを奪い取った。
水瀬くん演じる聡一が泣くシーンと言うのは、画家である聡一の手に障害があることが、ヒロインの美波に知られてしまうところを指している。
「別にあんなの普通じゃない?」
「いや、あれは勉強してたと思うんだんよね。」
「勉強って?」
「空蝉と夕月。」
は?という声が聞こえてきそうな表情で、口元だけで大きく笑みを作りながら、榊さんが俺を見つめる。
「空蝉と夕月」は、俺と榊さんが初めて共演した作品だ。十六年前になるので、互いにまだ十代かつ、初めての映画出演が叶った作品でもある。室町時代の大名家に生まれた姫君と、姫に仕える御家人との悲恋を描いた作品だ。俺は姫君の弟役で、榊さんはと言うと、貧しさから盗みを働き、父親が斬首されてしまう百姓娘の役だった。
「え、なんで?なんでそう思うの?」
「なんとなく。」
そもそも百姓の娘という役名すらない設定上、榊さんの出演シーンは晒し首になった父親を見て泣き喚く場面のみだ。ただ、煤で汚れて真っ黒な顔に、爪には泥を食い込ませ、ボロボロの端切れを纏った体を丸めて泣き喚く姿は、猛烈な虚無感と悲壮感を感じさせる説得力があった。
「え、あたし出てるの知ってたの?」
「なに言ってんの、知ってたよ。」
「いおりんにも教えたの?」
「教えてないよ。自分で調べて見たんでしょ。」
「えーうそー!どうしよー!超恥ずかしいー!」
榊さんは両手で顔を覆い、大きくそう叫んだ。
水瀬くんが榊さんの芝居を参考にしているかどうかは、正直言って定かではない。十年以上前の作品を引き合いに出したのも、自分の主観でしかない。ただ、端役で登場したただけの俺の出演作まで網羅している彼なら、あり得ない話でもない。
恥ずかしがって笑う彼女に同調しながらも、ほっと胸を撫で下ろしたい気持ちと、よくもやってくれたなと毒づきたい気持ちとで半々だった。榊さんが水瀬くんの話を始めた時も、いつになく感情的になる表情も、似合っていない口汚い言葉も、全てに違和感があった。
「お疲れ様でーす!」
思った通りのタイミングで、ドッキリ大成功のプラカードを胸に下げた水瀬くんが控室に入ってきた。
通常ドッキリ企画というのは、企画を受けたマネージャーから本人にある程度の内容を知らされているケースと、全く知らせないケースとがある。仕掛けられている人の内訳としては半々くらいなのだろうか。そもそもバラエティへの出演経験がそこまでない自分には、全くの初体験だった。
榊さんにはヒヤヒヤさせられたものの、それと同時に助けられた。突如として始まった即興劇に俺が乗れるように、しっかりとサインを送ってくれていたのだ。ハワイの話から一変して不機嫌に見せたり、声のトーンを落としたり張り上げたり。視聴者には自然に見える範囲で、俺には芝居をしていると教えてくれていたのだ。まあそれでも、ドッキリを仕掛けられる側になるというのは、気持ちのいいものではない。
「はい、それでは登場していただきましょう!今夜、最終話が放送となる非売品のヒマワリにご出演の榊あやのさん、水瀬伊織さん、秋穂公平さんにお越しいただいてます。お三方どうぞこちらにお願いします!」
アナウンサーの女性に促され、先頭を歩く榊さんに続いてカメラの前に出ると、カンペが書かれたフリップを持ったスタッフが走り寄ってきた。
「モーニングシャインをご覧の皆様おはようございます!榊あやのです!」
「おはようございまーす!水瀬伊織です!」
「秋穂公平です、おはようございまーす。」
「私たちが出演している非売品のヒマワリ、本日夜9時、9時から最終話が放映となってます!美波と聡一と悠太の三人が、それぞれどんな一歩を踏み出すのか、ぜひ見届けてください!よろしくお願いします!」
拍手と共に三人揃ってカメラに向かってお辞儀をすると、間髪開けずにアナウンサーが質問を飛ばす。
「ひばヒマ、大人気ですよね〜!皆さんその、ひばヒマが反響を得ている実感とかは何かありますか?」
「そうですね、ドラマの公式SNSのフォロワー数が80万人を突破したと言うことで、三人ともびっくりしてます!」
ノリも良くトークも上手い榊さんが、短い尺に収まるようハキハキとカンペの内容をかい摘んで話すと、スタジオのキャストたちが拍手を贈る。それに呼応するかのように、お笑い芸人の男性に向かってテンポ良くアナウンサーが話を振る。
「和田さんもひばヒマ、毎週楽しみにされてるそうですが、いかがですか?」
「やっばいです。ほんっとにもう毎週滝のように泣いてて。これ周りに言うとドン引きされてまうんですけど、俺は悠太派なんですよ〜。」
和田さんと視線を合わせる自分の横顔を、左斜めのカメラがアップで捉えているのを感じながら、控えめな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、嬉しいです。まあでも…僕も、聡一派ですね。」
「ちょ、悠太も聡一派ってなにー!?どゆことー!?」
「それではお三方にシャインポーズ、お願いしてもよろしいでしょうか?」
アナウンサーに促され、俺と水瀬くんが顔の前で両手を重ねながら榊さんの掛け声を待って隣を見るが、呆けたように固まっている。
「ちょっ…あっいいか。せーの」
「シャイン!」
「…ふふふ、シャイン!」
覇気のない俺の掛け声に続き、水瀬くんが爽やかにポーズをきめ、榊さんはその場に崩れ落ちそうになりながらも、なんとか声を張ってポーズをとった。一旦CMに切り替わり、急いでカメラの前から捌けると、笑い足りない水瀬くんが榊さんの肩を持って揺する。
「なんで肝心なとこ忘れるかな。」
「いやいや忘れてたわけじゃないよ?抜けただけで。」
不満げな俺に、悪びれた様子もなく榊さんは言ってのけた。控え室に向かってノロノロと歩きはじめると、後ろから水瀬くんが小走りに追いかけてくる。
「秋穂さん、さっきのドッキリの、すごかったです!あれ全部アドリブですよね?」
「いやアドリブも何も、本当にドッキリさせられましたよ。なんにも聞いてないからね?」
この二人はあくまで仕掛け人なのであって、俺をドッキリさせるのが仕事だったわけだから罪はない。
こうなるとマネージャーの井桁さんのことを恨めしくも思いたくもなるが、何か彼女なりの考えがあったのかもしれない。逡巡しながら控え室に入ると、榊さんは意地悪そうな微笑みを口に湛えながら、俺の腕に自分の腕を絡ませてきた。
「しかし上手いよね〜。咄嗟にあの映画引き合いに出してくるとは。あれ、東テレ制作だし映像もガッツリ使えるもんね〜。」
「…水瀬くん、俺、勝手に色々言ってたけど大丈夫だった?」
「え?何がですか?」
「榊さんの過去作、参考にしてるんじゃないかって話。」
俺と榊さんが控室で話していた時に、彼はどこかで定点カメラの映像を見ていたのではないかと踏んで尋ねると、水瀬くんは小さく口を開けた。
「あ、その話してたんですか?俺あのとき看板持って控室行けって言われただけで、お二人の会話の内容知らないんですよ。」
「え、今ってそう言う感じなの?」
「でも僕、榊さんの過去作も見てるんで間違いじゃないですよ。すごい参考にしてます。」
「たとえば?」
「空蝉と夕月ですね。」
聞くや否や、榊さんが手を叩いて笑い始めた。
「秋穂さんすごいね、ほんと。怖いくらい。いおりん、さっきのブイ見るの楽しみにしといた方がいいよ。」
水瀬くんの肩を叩くと、榊さんは笑いながら首を振る。褒められているのか囃し立てられているのか判別がつかない笑い様だった。
「これ、オンエアいつ?いおりんのグループの番組なんでしょ?」
「あっはい。裏エク‼︎って僕らの冠番組なんですけど、年末にスペシャルやるので、そこで…。」
「へえ〜年末かぁ。」
「年末もハワイすか?」
「年末はねぇ、モルディブ。」
「南の島好きだね。」
「一緒に行く?」
「行かないよ。」
他愛のないやり取りをしていると、控室のドアをノックする音が聞こえて顔を上げた。榊さんのマネージャーに続き、井桁さんが平然とした顔で入ってくる。
「お疲れ様です。」
「…お疲れ様です。」
物言いたげな俺に、井桁さんはお弁当の袋を差し出した。
「公平さんの好きな松花亭のお弁当ですよ。」
「…どうも。」
「それ食べたらここでこのままヘアセットだけ入りますんで、食べるとき気をつけてお願いします。」
10%ほど期待していた謝罪は一切なく、今着ている衣装で昼の情報番組に出るから、服を汚すなと忠告している。
「…井桁さん。さっきのドッキリ、触りだけでも教えて欲しかったんですけど。」
意を決して物申すと、彼女は感情のこもっていない声で、あー、と呻いて顔を傾けた。
「公平さんはぶっつけのが撮れ高あるんですよねぇ。」
「すごーい信頼されてるぅ。」
俺と井桁さんのやり取りを聞きながら、榊さんが愉快そうな顔でちゃちゃを入れる。
断じて、信頼とかではない。井桁さんの言葉はいつも、良くも悪くも言葉通りだ。素で慌てさせつつ的確な受け答えをさせる方が、撮れ高があると彼女は踏んだのだ。
「一歩間違えたら放送事故ですよ。」
「その時はその時でPと話してカットですね。」
「頼みますよほんとにもう…寿命が縮むから…。」
心からの溜息をつくと、水瀬くんのマネージャーさんが彼にスマホを手渡した。誰かから電話が来たらしい。
俺と榊さんに頭を下げながら、水瀬くんがスマホを受け取って電話に出た。
「あ、もしもし。どした?」
うんうんと頷きながら、水瀬くんは部屋の隅へ隅へと歩いていく。
「えっ?うん、そう。番宣で…いるよ。うんうん。えっ?あ、ほんとに?ちょっとじゃあ…聞いてみる。一旦切るね。」
水瀬くんは電話を切ってこちらを振り向くと、一目散にマネージャーさんのところに駆け寄った。
「すみませんあの、なんか今…局にいるみたいで。こっちに挨拶きたいって。」
「え?ああ〜」
男性マネージャーが、宙を見て動きを止めたかと思うと、控室に集まった面々をぐるりと見回した。
「すみません、うちの事務所の子なんですけど、ちょっと挨拶だけ伺いたいそうで…ここに呼んでも大丈夫ですか?」
一斉に、水瀬くんのマネージャーさんに向けて視線が集まった。
「よろしければお写真撮らせていただいて、インスタ掲載の許可だけお願いしたいな〜ってかんじなんですけど。榊さんと秋穂さんいかがですか?」
榊さんのマネージャーさんと井桁さんが顔を見合わせながら、首を縦に揺らす。
「うちは全然構いませんよ、あやのもいいよな?」
問われた榊さんはお弁当を頬張りながら頷く。
「秋穂さんの方も大丈夫ですか?」
「はい。公平さん、大丈夫ですよね?」
「あ、はい。」
話が決まると、水瀬くんは折り返しの電話をしようと再びスマホを手に持った。
「一人で来るって?」
「あ、はい。でも中野さんにも許可とってるみたいなんで大丈夫だと思います。」
こういうことは、アイドルという人たちと仕事をするときに、まま起こる。同じ事務所の仲間と、その共演者と写真を撮り、お互いのSNSに載せて仲の良さをアピールする手法だ。100%ではないが、相手がドラマの主題歌を担当していたり、同じ枠の次回作に出演予定だったりすることが多い。水瀬くんの所属事務所は爽やか路線の正統派アイドルを中心に、プライベートのSNSすらチェックが入るような厳しい事務所だ。徹底的にクリーンなイメージを崩さないが故に、榊さんや俺の所属事務所にとってもリスクやデメリットがない。こういう時は素直に乗っかるのが吉だ。
「すみません、ご協力ありがとうございます!」
水瀬くんは僕と榊さんに頭を下げると、居ても立っても居られない様子で廊下に出ていった。きっと、グループの垣根を超えて仲良くしている子なのだろう。
松花亭のお弁当を食べ終わりかけたその時に、控室のドアが開いた。
「お疲れ様です、失礼します。」
子供の頃、俺の家にはテレビがなかった。テレビだけではない。新聞も雑誌もパソコンもラジオも、世間との情報を共有するもの全て。だからというわけではないが、幼い頃からテレビの世界に興味があった。とりわけ、クラスメイトの女子たちが、夢中になって追いかけていたアイドルという存在。
なにがあそこまで彼女らを駆り立て、崇拝にも近い感情を抱かせるのか、知りたかった。
俺は結果として俳優の道を選び、身近にアイドルたちと接する機会も数えきれないほどあったが、今この瞬間まで彼女たちの気持ちは分からなかった。
「はじめまして。DRIVE JETのレンです。」
彼に微笑まれたこの瞬間すらも、俺はカメラが回っていないかを警戒した。これがまたドッキリの企画だったとしても、先ほどのように上手く立ち回れる自信など、全くなかった。
レンのことを、あの時点では丸切り知らなかったと言うわけではない。楽屋のテレビで彼を目にした後に、調べられるところは調べた。新グループ結成のオーディション番組で勝ち抜き、ボーカルの座を射止めたのが彼だ。DRIVE JETはデビューから三年経ち、様々な主題歌やタイアップ曲にも起用され、水瀬くんたちのグループにも引けを取らない人気を確立している。
呆然とレンを眺める俺の横で、物凄いスピードでお弁当を完食した榊さんが、口元を拭きながら立ち上がった。
「榊あやのでーす!よろしくお願いしまーす!」
「お食事中に押しかけちゃって、すみません。お会いできて嬉しいです。」
「こちらこそ!私の妹がドラジェのファンでね、次のツアーも楽しみにしてるんですよ。」
「えっ!ほんとですか?妹さんいらっしゃるんですね。」
「私と年離れてて今、高校生で。あの、あとでいいんですけど、サインとかもらえますか?」
サインと言われたレンは、水瀬くんのマネージャーさんに目配せすると、しばしの間を置いてマネージャーさんが頷いた。
「あ、じゃあ今、書きます。」
「ほんとですか?やったー!」
榊さんが歓声を上げると、榊さんのマネージャーがどこからともなく色紙とペンを取り出し、レンに手渡した。
「いや悪いね。あいつ妹のこと溺愛しててさ。でもいいのぉ?おたくんとこ、こういうの厳しいんでしょ?」
「ああ、榊さんのご家族なら大丈夫ですよ。レンの担当にも伝えておきますんで。」
榊さんと水瀬くんのマネージャーとが談笑している横で、色紙に向かっていたレンが顔を上げる。
「妹さんのお名前伺ってもいいですか?」
「あ、まりの。平仮名でまりの。」
まりのさん、と呟いてレンがペンを走らせると、水瀬くんが嬉しそうにその様子を覗き込んでいる。
「レンさぁ、字ぃ上手いね。習字とかしてた?」
「んー?してたよ。」
「そういえばレンのお父さんだっけ?学校の先生だもんね。」
「へえ〜、お父さん学校の先生なんだ〜!」
色紙を見ると、大きく筆記体で書かれたRENというサインの横に、目を見張る達筆な字でまりのさんへと書かれていた。
「出来ました!喜んでもらえると良いんですけど。」
「えーめっちゃ喜ぶ、ありがとー!」
榊さんが嬉しそうに色紙を手に持ち、満面の笑みで感謝の言葉を贈ると、皆それぞれが微笑ましくその様子を見守った。
ここに至るまで俺は、一言も言葉を発せなかった。
大喜びの榊さんを中心にして写真撮影が始まるが、表情もポーズも定まらない。
「あっ…。すみません秋穂さん、もうちょい笑顔いいすか…。」
案の定、水瀬くんのマネージャーさんが浮かない顔でスマホを掲げながら、俺に向かって言った。
「すみません。」
「じゃ、もう一回いきますよ〜」
固い笑顔になっているのをありありと感じながら、シャッター音が何回か続いた。水瀬くんのマネージャーさんが首を傾げながらも頷いたのを見届けると、一目散に俺は部屋の隅に向かって捌けた。
「は…はじめまして。秋穂さん。」
後ろから声がかかって、恐る恐る振り向いた。テレビの中にいたレンが、目の前に立っている。
「はい。」
職務質問をされた経験はないのだが、こんな感覚なのだろうか。悪いことをしていなくても、気まずくて後ろめたい。レンが何かを切り出そうと口を開いた時だった。
「レンさんて、おいくつなんですか?」
後ろから榊さんがレンに詰め寄ったかと思うと、レンは身を翻して行ってしまった。
レンは、二十四歳。俺の五つも年下だ。出身地は北関東で、幼少の頃からクラブチームに所属するサッカー少年だった。芸能の道に進んだのは、高校生の春休みに東京へ遊びにきた際にスカウトされたのが契機となった。出場したネット配信限定のオーディション番組では、圧倒的な歌唱力はさることながら、周囲への細やかな気遣いや、仲間を励ます優しい性格で、デビュー前から多くのファンを獲得していた。
ネットで見た記事に書いてあったことで、彼のことを少なからず知ったような気になっていた。しかし今こうして彼を目の前にすると、なんの言葉も出ない。緊張、それもあるが少し違う。何よりもただ、怖かった。
彼を知るのが、俺を知られるのが、とにかく恐ろしかった。
俺はトイレに行くと井桁さんに言い残し、控室から逃げ出した。
控室に再び戻る頃には、当前のことだがレンはいなくなっていた。昼と夕方の生放送も無事に終え、榊さんは羽が生えたかのように軽やかな足取りで帰って行った。
水瀬くんはというと、これから新曲のダンスレッスンに参加するという。
「秋穂さん、本当にお世話になりました。ご一緒できて本当に、本当に良かったです。」
「こちらこそ。水瀬くんのおかげでいい現場になってたとこあるし、ほんと助かったよ。また一緒にやれるといいね。」
俺なりの最大級の賛辞を贈ると、水瀬くんの頰に次々と涙を流れた。こんなにも素直で感受性が豊かすぎる子は、アイドルという枠組みを除いてもあまり見ない。その実直さを殺すことなく生かしたまま、彼をトップアイドルにまで押し上げた事務所をはじめ、マネージャーさんや裏方のスタッフたちの手腕を感じる泣きっぷりだった。俺の隣に立つ井桁さんが苦笑しながら、ポケットティッシュを水瀬くんに差し出した。
「あ、すいませ…。あの、最後に、お願いがあるんですけど。」
「うん。」
「もしまたご一緒できたときで、いいんで。僕には、公平さんって呼ばせてほしくて。公平さんは僕のことタケって呼んでくれませんか。」
「え、あ、いいけど…タケ?」
「本名です。僕、本名、川村武正っていうんです。地元のダチはみんな俺んことタケって、呼んでて…。」
「あ、そっか。いいよいいよ、タケね。」
慣れないながらにタケと呼ぶと、水瀬くんは鼻を真っ赤にしながら満足そうに頷いた。アイドルらしからぬ爆音で鼻をかみながら、水瀬くんはマネージャーさんに連れられ、控室をあとにした。
隣を見ると、井桁さんの肩が微かに震えている。
「…なんですか。」
「いや…なんですかあの子。超、超…おもしろいじゃないですか…。」
変なツボに入ったのだろうか。井桁さんはげらげらと笑い出した。
「地元のダチってもう…超ウケる。」
「やめなさいよ。」
「しかも本名、武正って。あのビジュで、武正って、似合わなすぎでしょ。」
「井桁さんだって真凛じゃないですか、名前。」
「真凛の何が悪いんですか?」
「武正だって良い名前じゃないですか。」
「いや悪いって言ってるんじゃないですよ、あのかわいい顔に似合わないって言ってるだけで。」
「そういうの偏見ですよ、良くないですよ。自分の真凛は棚上げして。」
「なんですか真凛を棚上げって。まあでも、公平さんは逆ですよね。本名のがしっくりくる顔なのに。◯◯。」
不意に自分の本名と言われて、それを思い出すのに少しの時間を要した。自分の本名など、運転免許や保険証に書いてはあっても、わざわざ見返すことはない。それに愛着や思い入れの欠片も見出せない、ただの文字列だ。
俺をこの業界に引き入れた事務所の社長が、秋穂公平という名前を俺にくれた。その時から俺はもう、秋穂公平でしかない。
「気に入ってますよ俺は。この名前。」
興味なさそうに井桁さんは相槌を打つと、どこかに電話をかけながら廊下へと出て行ったので、俺もそのあとに続いた。このまま井桁さんに自宅マンションに送り届けてもらえば、久しぶりのまとまった休みが始まる。ハワイやモルディブに行けるわけではないが、休息を取るには十分な時間だ。
「なんか…レンくん来た時ちょっと、様子おかしかったですけど。あれ、なんだったんですか?」
自宅に送ってもらっている車中で、唐突に井桁さんに尋ねられ、俺はあからさまに狸寝入りを決め込んだ。
「え、なんか知り合いとかですか?でもあの子のウィキ見ましたけど、出身地も全然ちがいますよね?」
必死の寝たふり作戦を意に介すことなく、井桁さんは続ける。
「武正にはあんなにデレデレしてたし、アイドル嫌いとかってわけじゃないでしょう?」
今をときめくトップアイドル水瀬伊織も、もはや井桁さんにとっては武正という固有名詞でしかないらしい。
「…いや全然、知り合いとかじゃないですよ。今日のあれが初対面ですよ。」
「え、でも。ちょっと変でしたよ、なんか。公平さんいつもああいう時、サービス精神すごいじゃないですか。」
「…そうですかね。」
「そうですよ。」
「…別に、気乗りしなかっただけですよ。たけま…タケの友達なんだー、友達いいなーって。」
「友達いるじゃないですか。ナカケンと大船くんが。」
「いやあれは…友達っていうより、同業者でしょ。なんだろう、こう、同じ商店街で店出してる的な…。」
「あー、たしかにそれは友達ではないですね。上手いこと言いますよね。」
フッと、前を見たまま井桁さんが鼻で笑った。
この人とこういうやり取りをしてもう数年経つが、初めて会った時から、何も変わらない。大きいものから小さいものまで、状況に応じて仕事をとってきてくれては、こうして俺の世話を焼いてくれる。それ以上にもそれ以下にもならない。
俺が学生服を着て気障な台詞を囁いたり、刀を振るって殺陣を見せても、前貼り一つで女優の上に跨り腰を振っていても。川辺に転がる石ころの一つを見ているような顔で、井桁さんは俺を見ている。
デビュー当時は事務所が発足したばかりだったこともあり、社長が俺のマネージメントを引き受けてくれていた。その社長が、俺の専属マネージャーにと大手事務所から引き抜いたのが、井桁さんだった。
自宅マンションの前に車が停まり、井桁さんにお礼を言って降りようとした時だった。
「ドッキリですけど。」
「はい?」
俺が聞き返すと、井桁さんは首をゴキゴキと鳴らしながら言った。
「あれやっぱ、教えなくて良かったです。でもまあ、5秒くらい悩んだんですけどね。」
「いや5秒は悩んだとか言う資格ないですね。」
どちらからともなく吹き出して笑い合うと、彼女と目が合った。
「じゃ。お疲れ様でした。」
「お疲れ様でした。ありがとうございました。」
ドアを閉めると、黒塗りのワゴン車はそのまま走り去っていた。
寝て起きるだけの自宅に、今晩からは籠りきりになれる喜びに胸がわずかに踊った。
帰宅して一目散にシャワーを浴び、冷凍庫の中を夕食になるものはないかと物色していた時だった。リビングのローテーブルに置いていたスマホが鳴った。
画面にはナカザワケントの名前が表示され、一分ほど経っても、まだバイブレーションは鳴り止まない。
「…はい。」
「あ、もしもし?どこいんの?」
「家。」
「マジ?今から行くわ。」
「え、うち今なんもないよ?」
「買ってくよ。なに食いたい?」
冷蔵庫には水と酒、冷凍庫には氷とカチコチに凍った唐揚げしかない。これから一人でのんびり過ごすはずが、食料のことをさっぱり忘れていた自分を呪った。
「…なんでもいいです。」
「じゃー、俊介ひろってくからそうねー、一時間くらいかな。」
「あ、俊介、くるの?」
「カチコミかければ来るっしょ。」
それだけ告げるとナカケンは電話を切った。
あと一時間か、と呟きながらソファに倒れ込み瞼を閉じた。ナカケンはヒット作には恵まれないものの、途切れることなく様々な媒体やジャンルで活躍している。モデル出身の俊介は、漫画原作の実写映画の悪役で大当たりしたかと思えば、海外ブランドのアンバサダーを務めたりと波に乗っている。
三人ともそれぞれに多忙だが、良くも悪くもタイミングを見計らって声をかけてくれるのが、ナカケンだった。ドラマ共演をきっかけにナカケンが作成した三人のグループトークでも、まめに近況を送ってきてくれる。
俊介は俊介で、地方ロケや海外ロケに行くと、俺とナカケンに必ずお土産を送ってきてくれたり、頻度は不定期だが、電話で近況を伝えてくれていた。
井桁さんにはそうではないと言ったものの、俺にとって二人は、数少ない気を許せる存在だ。
部屋を片付けている最中に、インターフォンから呼び出し音が鳴った。カメラ映像を確認すると、ナカケンと俊介がマスクも帽子もせずに立っている。エントランスのオートロックを解錠すると、玄関ドアの前で二人が来るのを待った。呼び鈴が鳴るものと思ってドアに寄りかかっていると、反対側から突然ドアを叩かれ、軽く飛び跳ねた。
「はいどうもどうも〜。」
「公平、久しぶり。」
久しぶりに見る俊介の和やかな笑顔のせいで、ナカケンを大声で非難しようとした口が閉ざされてしまった。
「…もうちょっと静かに入ってきてくれる?」
「ナカケン今ほら、任侠ものやってるから。」
「任侠ものっつーか闇金だよ。」
「そんな変わんないじゃん。」
あははと眉尻を下げながら俊介は笑い、手に持っていた紙袋を開いた。
「公平ほら。これ公平に食べさせたくて買ったんだよ。」
「うわ、ありがと〜。すごい美味しそう。」
「実家のばあちゃんか。」
ナカケンに頭を叩かれツッコミを入れられても、俊介はのほほんとした顔で微笑んでいる。俊介は一部界隈では妖精と呼ばれているだけあり、プライベートでは物凄く穏やかで呑気な人物だ。
「いや〜、友達のオンエア一緒に見るのって初めてかも。テンションあがるね。」
無邪気に言いながら俊介は上着を脱ぐと、俺ではなくナカケンに上着や持っていた手土産を渡し、当たり前のようにナカケンがそれを受け取る。ナカケンが俊介に弱みを握られているわけでは決してないのだが、世話焼きなナカケンと甘え上手な俊介は、いつの間にか熟年夫婦のような関係になりつつあった。
三人でドラマに出ていたときは、ほとんど俺の自宅を溜まり場にしていた。それもあってか、当然のようにナカケンはキッチンに立って皿を出し始め、俊介はソファに腰を落としてテレビをつけた。タイミングを図ったかのように、非売品のヒマワリのコマーシャルがテレビ画面に映し出された。
「ああこの子この子。水瀬伊織。かわいい顔してるよねぇ。」
親戚の子供の運動会でも見ているように、俊介が目を細めた。爆笑していた井桁さんの顔が脳裏に浮かび、思い出し笑いをなんとか押し殺していると、非売品のヒマワリのCMから画面が切り替わった。交通事故を起こした女性が電話をかけ、スーツ姿のナカケンが頼もしく応対してくれる自動車保険の宣伝だ。
「その自動車保険はぁ〜!キラリ輝く!パールダイレクト損保!」
自身のテレビ音声に重ねて、何かを包丁でスライスしながらナカケンが言う。
「え〜、これ前からやってる?初めて見た。」
「ひと月前くらいからやってるよ。俺はけっこう見たことある。」
「公平。グラスと酒持ってって。」
お声がかかってキッチンに向かうと、綺麗に洗われた頂き物のグラス三つに、見たことのないシャンパン、シルバーのボウルに山と積まれた氷が乗ったトレーを顎で示される。ほれ、と俺に促しながら、喋ることなく仕上げの塩胡椒をかけている姿は、惚れ惚れするほど男前だ。
「何してんだよさっさと持ってけよ。」
「ナカケンて人の世話焼いてる時が一番かっこいいね。」
「世話焼かれてる分際でえらそうに。」
「なに作ってるの?」
「どう見てもカルパッチョとパスタだろ。」
「さすが、イケてますね。」
「毎回思うけどお前さぁ、包丁研ぐなり買い換えるなりしろよ。マジで全然切れねえ。」
あれもこれもとダメ出しが入る前に、重いトレーを持ち上げ、キッチンから逃げ出した。慎重に歩を進め、やっとテーブルに辿り着くと、ソファに座る俊介が食い入るようにテレビ画面を見つめている。俺は画面を一瞥して、すぐに顔を伏せた。テレビにレンが映っていた。
「あれ、この子さ、一緒に写真撮ってたよね?これ。」
グラスや酒を机に並べている俺に、こちらにスマホを向けながら俊介が尋ねた。
スマホの画面には、レンが控室を訪れた時の写真が表示されている。投稿主は榊さんの公式アカウントだ。
「なに?」
出来上がったカルパッチョとパスタの大皿を運びながらナカケンが問いかけると、俊介がナカケンにスマホを差し出す。
「これこれ。」
「あーこれ、あれか。ドライブジェットの、レンだ。」
「そうそう、レン。」
彼をテレビで見るまでは、彼のグループのことはおろか、彼の名前も知らなかった。知っていて当然のことのように話す二人を前に、なんとか違う話題はないかと視線を彷徨わせるも、無駄な足掻きに終わった。否応なしに、テレビ画面にはこれでもかとレンの顔がアップで映し出されるので、言葉を失って見入ってしまった。
「ああほら、出てるじゃん。」
ナカケンが呑気にテレビ画面を指差している。歌番組ではなく、視聴者の恋愛エピソードを基に、ゲストたちが自論を展開するトーク番組だ。他のゲストにズームアップした画面の左下には、「結婚を意識する瞬間は?」とテロップが出ている。
「はい食べよ食べよ。」
肩を叩かれて我に帰ると、ナカケンが栓を抜いたシャンパンを、俊介が三人分のグラスに注いでくれていた。
ナカケンがグラスを持ち上げると、ナカケンが気の抜けた声で乾杯の音頭を取ってくれた。
「では。非売品のヒマワリ、クランクアップおめでとーございまーす。かんぱーい。」
「かんぱーい。」
「ありがとう、乾杯。」
グラスを重ね合うと、シャンパンを一口含んで飲み込んだ。早くもグラスを空にした俊介が、慣れた手つきで料理を取り分けるナカケンを捉えようと、スマホのカメラを向けている。
「レンくんどう?結婚。」
「あ、したいですね。何歳までにとかはないですけど、いつかしたいです。」
「まあでも今はもう仕事仕事やろ〜?」
「そうですね。」
「なんか、芸能界で憧れの人とかおらんの?会ってみたい人とか。」
「俳優の、秋穂公平さんですね。」
その言葉と共に、画面の右端に俺の宣材写真が映し出され、心臓が大きく跳ねた。撮れた写真を楽しそうに見返していたナカケンと俊介も、二人揃って動きを止めた。
宣材写真が出てくるということは、俺の所属事務所の許可もとっているということだ。なんの断りもなく許可を出した彼らに腹を立てる暇もなく、レンと大御所司会者とのトークが続く。
「俺も何回か会うたことあるけど、まー、美形よなぁ。芸能界キレイな人わんさかいてるけど、あの子はホンマに異次元やな。」
「それもそうなんですけど、あの、秋穂さんの出演された作品ってどれも本当に素敵で。いつかお会いしてみたいなって思ってます。」
彼が控室を訪れたときのことを思い出し、俺は大きく溜息をついた。写真撮影が終わった後、彼が俺に何かを言いかけていたのは、このことだったのだろう。
あの時、控室から逃げ出さず、ちゃんと話を聞いていれば。今朝のドッキリ企画よりも寿命が縮む思いをせずに済んだのだ。
番組がCMに切り替わると、シャンパンを煽ったナカケンがグラスを置いた。
「え、なにあれ。今のマジなやつ?」
「ドラジェってユアーズでしょ?ユアーズの先輩の名前出さないってことは、本気で言ってんじゃない?」
ドライブジェットや水瀬くんらが所属する芸能事務所、ユアーズエンターテイメントは、男性アイドルユニット最大手の事務所だ。対して、俺の所属事務所は三代大手事務所の一つ、シリウスプロダクションの傘下にある小さな芸能事務所、トワイライト。力関係的には向こうの事務所の方が圧倒的に優位だ。俺自身の名前にある程度のネームバリューがあったとしても、ユアーズ所属のアイドルが俺の名前を出すメリットは少ない。そうだと言い切ることは出来ないが、レンの個人的な意見でコメントしていたようだ。
「役者の仕事でも決まってるのかな?」
「いやそれにしても、公平の名前だすのはぶっ飛びすぎだろ。」
「公平なんも聞いてないの?」
「聞いてない、聞いてないけど。その、さっきの写真撮った時ね。レンが俺に何か言いかけたんだけど、俺がまったく話聞かなくて。多分、これのこと言おうとしてたんだと思う。」
辿々しく俺が説明すると、二人は顔を見合わせる。
「なんだそれ。お前ちゃんと話聞いてやれよ。」
「でもちゃんと挨拶はしたんでしょ?」
「…してない。ほとんどなにも、話さなかった。」
俺の告白に二人はまたも息ぴったりに顔を見合わせる。
「絶対やな奴だと思われてるじゃん、お前。」
「レンの連絡先とか分かんないの?ちょっとフォロー入れとけば?」
水瀬くん改め、タケの顔を思い浮かべるが、そうこうしているうちにナカケンがスマホを手にどこかに電話を始めた。
「あのさぁ、ドライブジェットのレンってさぁ、連絡先とか分かる?分かんねーの?」
社交的なナカケンは業界内のあらゆる飲み会に呼ばれ、交友関係も広い。一件、二件、三件と電話を繰り返していく。そうしていくうちに、電話をかけるナカケンの声色が妙に余所余所しくなった。
「ああどうも、こんばんはー、ナカザワケントでーす。電話でごめんね。今、大丈夫?」
居た堪れず、塩加減が絶妙なナカケンお手製のパスタやカルパッチョを堪能していると、ナカケンが厳しい表情で通話中のスマホを俺に差し出した。
「レン。」
俊介が堪えきれない様子で、声を立てずに笑った。
恐る恐るスマホを受け取ると、ナカケンは眉間に皺を寄せながら口をパクパクとさせた。早く謝れと言うことだろう。
「…もしもし、秋穂です。」
「あ、もしもし、お疲れ様です。レンです。今日はありがとうございました。」
「…いえ、こちらこそ。」
無感情な受け答えしかしない俺に向かって、ナカケンだけでなく俊介まで表情を曇らせた。
「あ、えっと…お話があるって伺ったんですけど、もしかして…今日のオンエアのことですかね?」
「あ、はい。」
「控室伺った時にお話したかったんですけど、タイミングが悪かったですよね。僕が勝手にあんなこと言ってしまって、ご気分害されてたら申し訳ないです。」
営業マンのような丁寧かつハッキリとした口調で言われ、返す言葉を失った。普段ならスラスラと、腹にもない言葉がテンポよく出てくるというのに。
「…すいません、あの。」
「はい。」
「サインって、僕にも頂けないですか?」
恐らくレンも、ナカケンと俊介のような反応になっているのだろう。レンはどこにいるのだろうか、電話の向こう側からは何も聞こえてこない。異様に静かだった。
「…サインて言うと、それは、僕のサインですか?それとも他のメンバー…ですか?」
「あ、いえ、あの。レンさんの、サインです。」
俺がレンさん、と口にしたところでナカケンが声を上げて笑い出した。俊介はホラー映像でも見せられているような顔で眉根を寄せている。
「僕のサイン…欲しいですか?」
「欲しいです、とっても。」
食い気味に俺が答えると、レンが抑えめに苦笑する声が聞こえた。
「あの…ちなみに今、どちらにいるんですか?」
「自宅です。ナカザワケントと大船俊介も、います。」
「あっ、大船さんも。皆さん、仲良いんですね。」
「はい、まあ。」
「あの、ダメ元でお聞きするんですけど…僕って今から、お邪魔しちゃ、まずいですかね?」
「あ、え…。」
我ながら気色の悪い声で呻くと、ナカケンが無理やりスマホを奪おうと腕を伸ばしてきた。しかし渾身の力でそれを阻み、ナカケンと俊介とを見比べた。
「ちょっと、待って待って。レンさんが、ここに来てもいいかって、聞いてらっしゃるから。」
「はあ?」
「え、来るの?レン?」
「分かったから早く貸せ。」
これ以上は見ていられないとばかりに、後ろから俊介に羽交締めにされたかと思うと、ナカケンに指を一本ずつ引き剥がされ、スマホを取り上げられた。
「あ、もしもし?オレオレ。ごめんね、無理しなくていーよ。」
前髪をかき上げ、いつになく焦った表情で取り繕うナカケンを、俊介に取り押さえられながら見守るという滑稽な状態になった。
「え?いやいやいや。そんな、いいんだよ!いいんだって、こっちこそごめんね急に。うん、うん…。えっ!?」
ナカケンは絶叫すると、慌てた様子で立ち上がった。
「え、そうなの?いや俺らは全然いいんだけど、なんせこいつがもう様子おかしくて。」
様子がおかしいという言葉に、後ろで俊介が深く頷いているのが分かった。ナカケンは俺を睨みつけたままレンに相槌を打っている。
「うん、うん…。分かった。あーあのね、ここは605。じゃあ、うん。待ってるわ。」
電話を切るなり、ナカケンは俺の元に詰め寄ってきた。
「どうしたんだお前。お前いつもはもっとつまんないだろ。」
「いや逆に今の俺、面白いの?」
「だいぶな。」
「面白い通り越してちょっと気持ち悪いよ公平。」
「え、来るって?」
面白いだの気持ち悪いだのと言われながらも尋ねると、ナカケンは険しい顔で頷く。
「お前知ってた?あっちも半年くらい前からここのマンションにいるらしいぞ。」
そんで今まさに家にいるってよ、とナカケンが付け加えた。
とんでもない新事実に、ひゅっと喉笛が鳴った。
「え、マジ?まあでも、あるあるだよね。」
「あるあるだな。俺もラブパフェの杏樹ちゃんと同じマンションなの一年くらい気づかなかったし。」
木を隠すなら森、の通りだ。芸能人は芸能人が多く入居するマンションに住む。だからこそ、さして不自然ではない。しかし、自分がレンを知る前から、彼と同じ建物の中で寝起きしていたとなると、衝撃は甚大だ。ソファの前にしゃがみ込み、機能を停止したお掃除ロボットのように固まる俺を、俊介が叩く。
「公平はさ、レンのなんなの?ファンなの?」
「…そう。」
「きっかけは?一緒に仕事したことあるの?」
「…テレビで見て。」
「テレビ…。じゃあさ、レンが付き合ってくださいって言ってきたら?どうする?」
唐突に投げかけられたとんでもない質問に、露骨に動揺しながら俺は首を傾げた。
「え…なんで。分かんない。」
「分かんないのね?」
「いややっぱ、普通に付き合いたい。」
俺はどんな顔をして、それを言ったのだろうか。二人はやはり顔を見合わせ、床に崩れ落ちるようにして震えながら笑った。
「やばくない?こんな公平初めてじゃない?」
「やばい、マジでキモい。」
「公平。マジで、普通にしなよ。付き合いたいなら。引かれるよ。」
「いやもう引いてるだろあれは。」
二人が大声で笑い転げると、インターフォンの呼び出し音が鳴った。
レンも帰宅してからシャワーを浴びたのだろうか。普段はくるりと巻かれている毛先が真っ直ぐに伸びていた。ノーメイクにも関わらず、素肌はきめ細かく艶があり、目の下もハイライトを乗せているように白く輝いている。
「あ、あの。すみません、急に伺って。」
玄関先に立たされたまま、まじまじと顔を見つめられるレンが、困ったように笑う。
「あ、入っても大丈夫ですか?」
「…どうぞ。」
インターフォンが鳴ったと同時に、ナカケンと俊介は俺を
放り出して寝室に駆け込んだ。どうせ聞き耳を立てながら、声を押し殺して笑っているのだろう。
「あれ、ナカケンさんたちは…。」
「なんか、どっか行きました。」
「そうですか…。気を遣わせちゃいましたよね。」
レンは申し訳なさそうに呟いて、部屋の様子をちらちらと伺いながら、緊張した様子でリビングに足を踏み入れる。先程まで三人で囲んでいたテーブルには、空いたグラスや皿が出しっぱなしになっている。
「晩ごはん食べました?」
「あ、はい。」
「普段、お酒とか飲まれますか?」
「あ、いえ全然。一杯でも飲むと真っ赤になるんですよ。」
ああ、と間の抜けた相槌をうつと、遠巻きにバタバタと足音が聞こえ、ポケットに入れていたスマホが震える。メッセージの通知だった。
ドンキいてくる。がんばってね。
間の抜けた脱字を見るに、急いで送ったのだろう。気を利かせて外出させてしまい、ほんの少し申し訳ない気持ちになった。
「…あの、秋穂さん、サインなんですけど。」
「はい。」
「僕にも、書いて頂けたり…しないですか?」
「え?」
「色紙、二枚持ってきたんで。もし良かったらなんですけど。」
レンはそう言うと、持っていた手提げ袋の中から色紙を二枚取り出した。
「ああ。書きます、書きます。」
「ほんとですか!ありがとうございます!部屋に飾ります。」
パッと目を輝かせて喜ぶレンの姿を、これでもかと言うほど凝視した。歯を見せて笑うのを見たのは初めてだった。テレビの中でも、水瀬くんや榊さんと話しているときでも、レンは静かに微笑んでいるイメージが強かった。
「あ…すいません。テンション上がって。」
「いや、ちゃんと笑うんですね。クールなイメージだったので。」
「あはは…事務所の人にも、よく怒られるんですよ。」
「どうして?」
「…僕のキャラ設定っていうのがあるらしくて。大声出したりはしゃいでたりすると、イメージと違うことするなって、怒られます。」
「…そうですか。」
アイドルという立場上、グループのコンセプトやメンバー個人のイメージというのはどうしても付き纏う。それも最大手、ユアーズのアイドルグループだ。カメラが回っていてもいなくても、メンバーの一挙手一投足に口を挟むのは、致し方ないことなのだろう。
「…すみません、テーブルの上、片付けるんで。ソファで座って待ってもらえますか。」
「あ、僕もお手伝いします。」
レンは言うなり上着を脱ぎ、丸く畳んで手荷物と一緒に部屋の隅に置いた。慌てて俺も腕まくりをしてテーブルの前にしゃがみ込んだ。
「これみんな、秋穂さんが作ったんですか?」
「まさか。ナカケンですよ。そっちは俊介が買ってきてくれたやつです。」
「ナカケンさんて料理できるんですね。」
「飲食店で長く働いてたそうです。」
「そっか、すごいなぁ。」
「すごいですよね。」
皿やグラスを二人でキッチンに運び終えると、シンクの前にレンと並んだ格好になった。斜め後ろからレンの視線を感じながら、皿やグラスに水を浴びせかけた。
それほど長い時間ではない沈黙に、無駄に瞼がぴくぴくと動く。ただ食器に水を浴びせながら立ち尽くす俺を、レンは不審に思っていることだろう。
三人分のグラスや皿を手洗いするか、遥か昔に使ったきりの食洗機を使うか迷った挙句に、水栓ノズルに手をかざして水を止めた。
「…お願いできますか、サイン。」
「あ、はい。もちろん。」
俊介にされた質問が頭をよぎり、自分の返答を思い出してから、馬鹿馬鹿しいと切り捨てた。こんな距離の詰めかたをして、何になると言うのだろう。ナカケンや俊介が言うように、レンを前にした俺は究極に気色が悪い。普通にしろと言われた言葉を、今になって自分自身に言い聞かせた。
ローテーブルを囲んで二人で腰を下ろし、差し出された色紙にペンを走らせた。写真集や出演作の関連書籍、抽選企画の景品、その他個人的に求められたものを合わせれば、相当な数のサインを書いてきた。たった一枚書くくらい造作もない。
「できました。」
レンが榊さんの妹に渡していたような達筆な文字ではないが、そこそこの完成度に落ち着いた。
「ありがとうございます!」
卒業証書でももらうように両手で受け取り、レンは深々と頭を下げた。レンの色紙を見ると、まだ真っ白なままだった。取り繕うようにレンが再び油性ペンを持つ。
「あ、すみません。宛名をなんて書いたらいいかなって。」
「いや、宛名なくてもいいですよ。サインだけでも。」
俺がそう言うと、レンは閉口してしまった。まさか転売するとでも思われたのだろうか。
「あー、じゃあ公平で。公平でお願いします。」
「公平さん。」
「はい。」
よし、と小さく呟いてからレンは一つ深呼吸をした。
自身のサインを勢い良く油性ペンで書くと、レンは手提げ袋から筆ペンを取り出した。真剣な面持ちで筆ペンを走らせ、力強い行書体で俺の名前を書き上げた。
「お待たせしました。どうぞ。」
「おお。本当、達筆ですね。ありがとうございます。大事にします。」
「俺も、このサイン家宝にします。」
レンは頷きながら、噛み締めるようにして笑った。
僕から俺に一人称が変わったのを見るに、少しばかり心を開いてくれたのだろうか。
思えば客人に飲み物一つ出していないことに気が付き、俺は席を立った。
キッチンカウンターからは、俺が書いたサインを手に取って眺める後ろ姿が見える。
ケトルで湯を沸かしつつ、インスタントコーヒーの在処を探っていると、急にレンが声を張り上げた。
「あっ!すみません、テレビつけてもいいですか!?」
「え?どうぞ。」
なにか見たい番組でもあったのだろうか。他人事のように思いながら時計を見ると、あと一分と経たずして二十一時になるところだった。迷うことなくレンがチャンネル操作をすると、非売品のヒマワリの最終話冒頭が映し出された。
第一話から誰もが分かりきっていたことだが、俺の演じた鏑木悠太はヒロインの美波に振られる。振られながらも、最後には元婚約者の幸せを思い、恋敵である聡一の背中を押すという、ありがちな役所だ。それだけ聞くと単調なドラマにも思えるが、悠太は聡一と美波のために奔走し、一度はすれ違った二人を結びつける舞台を用意する。悠太の会社が建てたビルのオープニングセレモニーに、大量のヒマワリの絵を展示するのだ。ほとんどは近隣の小学校に依頼して展示された小学生の作品だが、一番大きなキャンバスに描かれたヒマワリは、美波を思って聡一が描いたものだ。
「ヒマワリなんて、嫌いだよ俺は。集合恐怖症だし、真ん中の種が集まってるところなんて、見れば見るほど気持ち悪い。」
会場に足を運びながらも立ち去ろうとする聡一を、悠太が走って追いかけ、息を切らしながら言う。
「俺は絶対にこれからもヒマワリなんか好きにならないし、見たいとも思わない。お前のことと同じ。大っ嫌いだよ。」
聡一は振り返り、苦しそうな面持ちで悠太を見つめる。
「でも、美波はお前のヒマワリが見たいんだよ。」
聡一の右手は、轢き逃げ事故の後遺症による神経障害に苛まれていた。信号を無視して横断歩道に侵入した車に撥ねられ、空中から地面に投げ飛ばされた挙句、更に右手をタイヤに轢かれた。元々はピアニストを目指していた音大生だったが、右手の感覚障害は生涯残るだろうと宣告され、その夢を断念せざるを得なくなった。そうしてリハビリの一環で描き始めた油絵が、彼にとって唯一の慰めになっていき、値札が付く作品として認められ始めた最中に、美波と出会った。
「怖いんです。」
聡一がか細い声で呟き、膝から崩れ落ちる。
「大切に思えば思うほど、壊れそうで。」
レンは何を思っているのだろうか。食い入るように画面を見つめている。
「鏑木さん、俺に言ったでしょ。なんにも持ってないくせにって。本当のことを言われて腹が立ちました。あなたは、なんでも持ってる人だから。」
肩を竦め、自嘲しながら微笑む聡一の背中は、小さく弱々しい。オーダーメイドのスーツに身を固め、艶が光る革靴を履いた俊介が、聡一に歩み寄って腰を屈める。
「美波さんまで俺から離れて行ったら、俺は、もう。だったら自分から」
「俺から奪っといて、結局お前は逃げるのかよ。」
聡一の透き通った瞳が、悠太を見据える。
「お前がどうなろうが、俺の知ったことじゃない。そうやってずっともがいてろよ。俺には好都合だ。」
悠太はそう告げると、聡一の前から姿勢良く歩いて立ち去る。悠太はこの仕事を最後に、地方支社に異動が決まっている。口では聡一にああ言っておきながら、美波との関係をきっぱり清算すべく、自身で異動願を出したのだ。
あともう少しで聡一と美波が感動の再会をするか、というところで、急にテレビの電源が落とされ、画面が真っ暗になった。見るとテレビの前に座ったレンが、無表情にリモコンを持った手を下ろした。
コーヒーカップを両手に持ってリビングに向かうと、レンは固く唇を結んだまま、黒いテレビ画面を見つめている。
「見ないんですか?」
「…録画してあるし、配信でも見られますから。あとでじっくり、見させてもらいます。」
録画、とオウム返しに呟くと、レンは気恥ずかしそうに視線を泳がせる。
「や、その、集中して見たいって言うか。いや、本物の秋穂さんそっちのけでドラマ見るのも失礼というかもったいないというか。」
ふと、レンが人間であることを思い起こさせるほどに、親近感が湧いた。視線を右往左往させながら、つらつらと呟く様は、ステージで光り輝く普段の姿とはかけ離れていた。どちらかと言えば、ナカケンと俊介に気持ち悪いと罵られた自分に近いものを感じた。
「ふっ」
堪らず笑うと、レンが目を見開いた。
「えっ、笑ったぁ〜」
茶化しているような顔ではなく、動物園でパンダでも見た子供かのような表情と声色だった。
「そりゃ笑いますよ。」
「いや嬉しいです、ありがとうございます。」
「嬉しいんですか。」
「推しに笑ってもらえるなんて喜びの極みです。」
恐らく何千何万という人に推されているであろうアイドルからの推し呼ばわりは違和感があった。
レンは微笑みながら、俺の肩あたりに視線を落とした。
「あの…」
レンが言いかけたところで、計ったようにインターホンの呼び出し音が鳴った。互いの間に沈黙が流れたが、特に反応することなく俺はレンに体を向けた。
「ごめんなさい、続けてください。」
「あ、いや。ナカケンさんたちですよね?ご挨拶だけさせてもらってから、俺は失礼します。」
今度こそ、レンの話にしっかり耳を傾けるはすが、彼は口早にそう言うと立ち上がった。何を言おうとしていたかは分からない。ただ少し、浮かない表情だったのが気にかかる。
仕方なく立ち上がり、インターホンの解錠ボタンを押した。いそいそと荷物をまとめている背中に向かって声をかけた。
「連絡先、教えてもらえませんか?」
ユアーズの所属アーティストとして知っていながら聞くのも気が引けたが、レンが自分に対してそう悪い感情を持っていないことも分かり、大きく出た。
対してレンは、わずかに瞳を揺らしながら首を縦に振り、俺のスマホを受け取るや否や、素早く電話番号を打ちこんだ。
「…あの、色々あるだろうし、返事できるときでいいんで。」
スマホの検閲が入ることも事前に聞いているし、俺以上に多忙を極めているのも承知している。それを含めて言うと、レンは小さく首を振った。
「俺は大丈夫です。」
短くそう言い切ると同時に、鍵の空いていた玄関ドアからナカケンと俊介が入ってくる物音が聞こえて、レンは目の前を走り去っていった。
二人に深々と頭を下げるレンの背中ごしに、二人がニヤニヤと口元を綻ばせながら俺を見ている。
「変なことされなかった?」
「いえいえ、そんなこと全く。お会いできて良かったです。」
「レンくんこれ買ってきたから一緒に食べようよ。」
「あ、いえ、すみません。今日は失礼させていただきます。」
残念そうな俊介をナカケンが諌める中、レンは延々と腰を折って頭を下げている。
「ここ住んでんだもんな?また来てよ。ここ俺んちじゃないけど。」
「はい、その、良ければ、ぜひ。」
振り返ったレンと目が合った。
「…うん、また。連絡します。」
俺の方にしっかり体を向けて再び一礼すると、レンは玄関ドアから姿を消した。なんだか追い出されるようなレンの格好に、酒が回っているのであろう俊介は口を尖らせる。
「なに。いいじゃん、帰らせなくても。俺も喋りたかったのに。」
「バカお前、レンは気まずいだろ。」
そう言いつつ、ナカケンはチラリと俺に視線を投げかけ、堪えることなく吹き出した。
「で、なに。上手くいったの?」
「お陰様でサインもらえました。」
「あとは?」
「連絡先を、教えてもらった。」
「おお、いいじゃん。そんで?」
「…いや別にそれだけ。」
また笑われるのかと思いきや、二人は安心したように頷き、無遠慮に靴を脱ぎ散らかした。
「まあ上出来でしょ。」
「なにが。」
「お前がほんと何するか、不安と期待半々だったからさ。」
取り乱していた自覚はあるので、不安は分かる。ナカケンのいう期待というのは、単純に面白がっているという意味だろう。
レンが帰ってからというもの、二人はまるで思春期の中学生でも相手にするかの如く、俺に生暖かい眼差しを向けながら一晩中笑い者にした。
非売品のヒマワリの最終話放映から、並行して動き出していたCMや映画の撮影が始まった。
高速道路を駆け抜けて現場に向かう車の窓には、広大な空や山々が流れていく。長期の撮影にもなると東京を離れることも多いが、この雄大な青空には毎度のこと圧巻されてしまう。ポン、と軽快な電子音が鳴ると、群馬県に入ったことを音声ガイダンスが告げた。
「…群馬県ですね。」
「ああ…」
「ご家族、お元気ですか?」
「…恐ろしいほどお元気ですね。」
「弟さん、お家建てたんでしたよね?」
「建ててはないですねあれは。建売なので。」
「建売いいじゃないですか。最近の建売は、断熱構造とかにも力入れてるみたいですよ。」
「…そうですね。」
俺が建売住宅について話を広げようとしても、気のない返事で会話を切り上げられる。特段、話好きというわけでもないのだが、井桁さんにはもっと俺との会話に興味関心を向けて欲しい。仲が良いわけでも悪いわけでもないのに、そんな願望がある。
「群馬のどこでしたっけ?」
「…言っても多分、分かんないですよ。伊勢崎ってとこです。」
「それ山の方ですか?山ではない?」
「山、ではないですね。」
「暑いのどこでしたっけ、高崎?」
「寝てていいですよ。」
遠回しに黙れと言われ、わずかに落ち込みながらペットボトルのお茶を一口飲んだ。
「…レンとはどうですか?上手くいってますか?」
含んだお茶を吹き出しかけながら横を向くと、井桁さんはニヤリと笑っている。
「…なにが、上手くいくって?」
「いやバレてないとか思ってたんですか?」
「いやいやいやバレるも何も、ないから。なに言ってんの?」
敬語も忘れて盛大に動揺する俺に、井桁さんは小さく溜息をついた。
観念した俺はお茶をドリンクホルダーに置き、井桁さんより大きな溜息をついて見せた。
「ちがうんだって。マンションがね、ほら。同じでしょ?それでなんか、レンが料理とか掃除とかすごい得意で。俺ほら、そういうのダメでしょ?だからその、ちょっと、教えてもらってるみたいな。」
「へえー。通い妻。」
「ちがうよ、話を聞いて?俺はレンに教えてもらって、一緒にやってるの。」
「別にそんなのYouTubeとか見て学べばいいじゃないですか。」
「いやだから、レンがね?レンの厚意でうちに来てくれて指導してくれてるってこと。」
「いや分かんないです。あの子そんな暇なんですか?」
「暇?暇ではないよね。」
「忙しいアイドルに自分ち来させて、家事を教えさせてるんですよね。三十過ぎた男が。」
ぐうの音も出ない第三者的目線のお言葉に、返す言葉も見つからない。言った本人も全く悪びれていないし、さも当然といった顔でアクセルを踏み続けている。
「別に、咎めるつもりはありませんよ。恋愛は自由ですから。ただ、ちょっとびっくりしてはいます。」
「何に?相手が男なこと?」
「いや別にそこは。」
「じゃあ何?」
「色ボケ具合がはんぱじゃねぇなって。」
吐き捨てるような言い様に、脳内で時が止まる。しかし彼女は淡々と続けた。
「ユキノとか井上貴子に靡かないんだから、始めはやっぱり、ああ女は対象外なのかなって思ってはいましたよ。でも公平さん、なんもなかったじゃないですか。この十年。何一つとして。」
たしかに言われてみればこの十年、本当に何もない。
週刊誌やネットニュースに自分の色恋沙汰が載ることはあっても、身に覚えのないデタラメばかりだ。井桁さんが名前を挙げた、歌手のユキノや女優の井上貴子とも、交際関係を仄めかすような記事こそ書かれたが、それも全くの事実無根だ。
「いざこうなると、あなたがここまでポンコツなんだとは思わなかったって話です。」
「色ボケ、ポンコツ…。」
「もう付き合ってはいるんですか?」
「…付き合ってないです。本当に。」
「なんでですか?言えばいいじゃないですか。レンも満更じゃなさそうなんでしょ?」
「いや全然分かんない。レンがなに考えてるかも分かんないし、俺も俺が分かんない。」
正直な心情を大仰に繰り返し、乙女のごとく顔を手で覆うと、横から平然ととんでもない質問が飛んでくる。
「やったんですか?」
「…あなたそれ、俺のこういう性格知ってて聞きます?」
「そうですね。たしかに今のは不躾な質問ですね。じゃあ、どこまで行ったんですか?」
「…キスとか恋愛的な絡みは、一切ないですよ。こう、事故でね。手とか肩が触れる、とかはありましたけどね。」
我ながら落ち着き払って答えると、井桁さんは心底つまらないことを聞いた顔になって、左に方向指示器を出した。
「…分かりました、割とマジでもう寝てていいですよ。」
車は左車線からゆっくりとなだらかな坂道を下り、料金所の前を徐行しながら進んでいく。井桁さんと俺を出迎えたその静かな街は、山頂に雪が残る山々が四方を囲んでいた。寝ていろと言われたので、目を閉じながら言った。
「お土産、おすすめとかありますか?」
問いかけに答えない人の代わりに、車の走行音だけが車内に響く。
「ねえ。お土産。」
やっかみながら返答を促すと、井桁さんは結んでいた唇を小さく開いた。
「ネギとこんにゃく。」
心の底から面倒くさそうに言われた二つの特産品をそのまま復唱し、俺は再び目を閉じた。
【BL】光点 ハムニバル @hamnival
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