【BL】の、弟。

ハムニバル

第1話 の、弟。

好きな季節は、春以外だ。春じゃなければどの季節だっていい。始業式からの一週間がとにかく地獄だ。新しい教室に新しい担任教師、新しいクラスメイトに沸き立つ同級生たち。想像しただけで鳥肌が立つ。今日だって、よくぞこの校門の前まで辿り着くことが出来た。このまま真っ直ぐ行けば住み慣れた中等部だが、左に曲がれば地獄の入口が待っている。内部進学なのだから、そこまで環境の変化はないと思われるかもしれないが、違う。それはすぐに襲いかかってきた。


「あ、弟じゃん。」


「え?あれ弟?」


「弟だよ弟!あちゃーってかんじだね。」


わずか十秒ほどの会話にも関わらず、四回も弟という単語が登場した。そんな会話がそこかしこから聞こえてくる。憐れんだり蔑んだり嘲笑されたり。突き刺さる視線を遮るように下を向いて歩いても、色んな声が聞こえてくる。ポケットに手を突っ込んでイヤフォンを取り出し、手早く耳に突っ込むと、前へ前へと足を踏み出した。




初めて袖を通した高等部のブレザーは、肩幅も袖も少し余り、自分の背には着丈も長く不格好だった。お下がりを着せられているのが丸分かりだった。


ここは初等部から大学まである一貫校で、地方都市の学校法人として明治時代に創立したという。兄も僕も中学受験をして入学したわけだが、入学後の学生生活は大きく明暗が分かれた。


兄のことを簡単に話せば、成績優秀・運動神経抜群・明朗快活といった具合で、非の打ちどころがない人物だ。この学校始まって以来の秀才だとか逸材と呼ばれ、端正な顔立ちでも人目を引いた。当然、周りの推薦から始まった生徒会選挙でも圧倒的な支持率で生徒会長に当選した。やってみたいと未経験で始めた弓道部でも、すぐに実力をつけて頭角を出し、兄が部長に就いた年の入部希望者は、前年度の倍にまでなったという。


「ねえ、ねえちょっと!」


制服の具合を見るに、三年生だろうか。廊下側の窓から身を乗り出し、一人がこちらに向かって手招きし、あとの二人は愉快そうに笑っている。上級生を無視する僕は、さも陰険そうに見えているだろう。無視しているわけではなく、怖くて動けないだけだと分かれば、今度は意気地なしだと呆れられるのだろうか。


「広時の弟ってマジ?」


「あの名前なんて読むの?ゆたか?」


動くことも声を上げることも出来ず、僕はじっと机の木目模様に目を凝らしていた。


「え、なに?耳聞こえねーの?」


「ほんとに広時の弟?血、つながってないんじゃねーの?」


下卑た笑い声が廊下から飛んできた。睨みつけることすらできずに固く縮こまり、地蔵のように座り続けていると、大きく音を立てて教卓側のドアが開いた。


まるで怒っているかのような轟音に、教室中の同級生たちと、大爆笑していた三人の上級生は閉口し、ドアの方を振り向いた。


入ってきたのは見たこともない男子生徒だった。




「はい皆さん進級おめでとう~。春休み明けで惚けてる子が多いと思うけど、びしっと襟を正して、高校生活スタートさせましょうね~。」

 

多感な中高生の扱いを心得ているのかいないのか、新しい担任教諭は掴みどころのない人だった。何度か中等部と高等部との合同行事で見かけたことがあるので、恐らく兄の事もよく知っているのだろう。僕をちらちらと見ている瞳の中に、「あれが弟か」という感情が透けて見えた。


「はい、じゃあ自己紹介しましょうね。高等部から編入の人もいるんで、しっかり顔と名前覚えてください。」


高等部から編入というワードが出た途端、何人かが僕の隣の席を振り返るのが見えた。さっきも言ったが、こんな人は見たことがない。中等部にいなかったという意味でもそうだが、それだけではない。こんなに顔が整った人間を、画面越しでなく間近に見たのは初めてだった。


背も高く、華奢な体つきながら手足が長く、堂々と高等部の制服を着こなしている。


くっきりした二重瞼に長い睫毛が目元を華やがせ、ツンと高く伸びた鼻筋と、不満そうに尖らせた唇が気位の高さを窺わせる。まったく頭に入らない自己紹介でも、彼の番になった途端、教室にピアノ線を引っ張ったような緊張感が走るのを感じた。彼は気怠そうに立ち上がった。


「…麻布西高校から来ました、井枝清貴です。よろしく。」


麻布と言えば東京だ。こんな田舎に東京からやってきた王子様は、それ以上を語ることなく席に着こうとしたが、担任が慌てたように出席簿と彼とを見比べて止めた。


「井枝くん、君の席はそこじゃないだろう。」


「空いてたから座りました。」


「みんな五十音順で座ってるんだから、自分の席に座りなさい。」


「ここがいいです。」


いけませんか?と冷淡な声で続けると、担任の戸田先生は黙ってしまった。普通、こんなにも簡単に引き下がるものだろうか。どう考えたって彼のワガママだろうに。


「…テスト期間中は自分の席に座るんだぞ。」


「分かりました。」


自分も含め、教師も生徒も、誰もが井枝清貴に圧倒されていた。色素が薄いのか、飴色の瞳は鋭く尖り、不服そうに閉じた唇はまさしく薔薇の色。不遜な態度も優美にすら見える。新学期から不穏な雰囲気が漂う中、自己紹介は再開され、あれよあれよという間に僕の番がきた。


「相良由考です。よろしくお願いします。」


心臓の拍動が激しすぎるあまり、体全体が揺れているような錯覚がした。立っているのもやっとの僕に、まばらな拍手が弾ける音と女子たちの小さな笑い声が聞こえてくる。


「広時先輩のライン教えて下さーい。」


一人が僕に向かってそう声をかけると、大人しく拍手していた女子たちまで加わり、笑い声は一層大きくなった。やはり何を言い返すことも出来ず、僕は黙って椅子に腰を落とした。


「ノリ悪~。」


「オバケみたい。」


また、机の木目模様を凝視した。それでも多少はホッとしていた。もうこれ以降は人前で話すこともないと思うと、心底安らいだ。


「あの、ちょっといいですか?」


井枝清貴が挙手をして、甲高い笑い声は途絶えた。まるで、小鳥の群れが捕食者を捉えたかのように。


戸田先生は狼狽えた様子で井枝に向かって首を傾げた。


「井枝くん、どうしま、どうした?」


明らかに、敬語になりかけてやめた。戸田先生は何か弱みでも握られているのだろうか。


「朝からよく聞こえてくるけど、広時って誰ですか?」


真っ直ぐ、槍で突きぬくような視線を向けられた戸田先生は、額に手を当てて笑い始める。


「ああ、去年まで生徒会長だった相良のお兄さんだよ。優秀な生徒で有名だったんだ。」


井枝清貴は、戸田先生の返答に眉根を寄せて目を細めた。


「弟ドンマーーーイ!」


丸めた教科書でも使っているのだろうか、それはよく響く野次が飛んできた。


「ははは、おまっ、やめろよ!」


火に油を注ぐかのような制止に、戸田先生まで一緒になって朗らかに笑った。和気藹々と笑う同級生たちも、まるで青春ドラマの一幕のようにキラキラ輝いて見える。僕と、僕の隣に座る井枝清貴を除いて。

直後、井枝清貴が立ち上がった。


「…井枝くん、どうしたかな?」


最早、不良生徒に対峙する新任教師の図だ。転校初日にも関わらず、教室の空気をひっくり返し、強い意志をぶつける井枝清貴は、なんらかに爆裂な憤りを感じているようだった。


「何がそんなに、面白いんだよ。」


彼がぐるりと周りを睨め付けると、再び静寂に包まれる。

井枝清貴は僕に一瞥をくれ、再び戸田先生に向き直る。


「ここではこういうのが普通なんですか?」


戸田先生は頬を強張らせながら、腫れ物を扱うような顔で井枝清貴に歩み寄る。戸田先生が何か言うよりも前に、腫れ物の方が先に口を開いた。


「大勢で一人を笑い者にするのは、いじめじゃないんですか?」


いじめ、というワードが出るや否や、僕と同じくして戸田先生が目を見開いた。


「いじめは〜。さすがに言い過ぎだろう。」


「兄貴とちがう弟は、クラスでみんなの笑い者にされてもいいってことですか?」


戸田先生は手で眉間を揉んで項垂れ、しばし沈黙した後に勢い良く顔を上げた。


「それは…そうだよな。相良、悪かった。先生の考えが足りなかった。みんなも…今後は先生も厳しく注意するから、気をつけるように。」


絞り出すように戸田先生が言うが、井枝清貴は席につかず、感情が収まりきらないと言った顔で後ろを振り返った。


「まずお前が謝れよ、お前。誰だか知らねえけど。」


さっき教科書を丸めて叫んだ木戸亮介が、井枝清貴の追求から逃れる術なく目を泳がせている。

さっきまで笑っていたクラスメイトたちの視線が、一気に木戸に集まった。


「木戸でしょ?早く謝りなよ。」


そうだよ、早く謝りなよ。小さく呟くような声が連なって、木戸は苦虫を潰したような顔になりながら立ち上がった。


「…反省してまーす。すいませーん。」


僕は、起こっている事態の渦中にいると分かっていながら、振り返らなかった。中等部の頃から平伏すしかなかった木戸に、曲がりなりにも謝られているこの状況が、信じられなかった。

すると肩をトントンと叩かれた。井枝清貴の手が、僕に触れている。見上げると、井枝清貴は僕の顔をやはり不満そうに覗き込んでいる。

 

「あんなんでいいの?」


赤べこの人形のように、単調に頷くと、井枝清貴はやっと席に着いた。


あの始業式から2日も経たずして、このクラスで井枝清貴という存在は揺るぎないものになった。

 

「井枝くん、LINE教えてくれない?」

 

「なんで?」

 

昼休みに仲間を引き連れ、屈託なく話しかけてきた女子に、井枝清貴は間髪入れずに聞き返した。

クラスの中でも派手目なグループの女子たちの表情が、皆一様に強張る。

 

「えっ…うちのクラスのグループLINE、入ってもらいたいなって。」

 

しどろもどろにそう答えた女子を、井枝清貴は無表情に見つめている。

 

「それって入んないとダメなの?」

 

「ダメっていうか、うちのクラスみんな入ってるから…。」

 

みんな、という言葉に胸のあたりが冷たくなった。

クラスメイトが言うみんなの中に、自分が含まれていないことなど、何度も経験してきたはずなのに。

教科書を読むふりをしてやり過ごそうとするにも限界を感じ、席を立とうと体を起こした。

 

「由孝。」

 

自分の名前なのに。

一瞬、誰が呼んだのだろうかと戸惑った。恐る恐る声の主を振り返ると、さも当然のような顔をして僕に問いかけた。

 

「由孝も入ってんの?クラスのLINE。」

 

井枝清貴の後ろに控えている女子たちの表情が、見る見るうちに気まずいものに変わっていく。その様子に痛ましさすら感じながら、僕は首を振った。それまで無表情を貫いていた清貴が、わずかに眉根を寄せた。

咄嗟に女子の一人が振り絞ったような声を上げる。

 

「ちがうよ。相良くんにも、後から聞こうと思ってて…。」

 

怒りや悲しさなどはなく、ただただ申し訳なかった。容姿や成績や運動神経を抜きにしても、僕がほんの僅かでも兄のような人柄だったなら。ノリも良く、笑い混じりに軽い冗談を言い合えるような、話しかけやすいクラスメイトだったなら。憧れの人を前にした彼女たちに、あんな顔をさせずに済んだのだ。

そう思ってはいても何の行動に移せないでいる僕を他所に、井枝清貴は再び彼女たちに向き直って言い放つ。

 

「悪いけど、必要性感じないから。入らない。」

 

誰もが思ってもみなかった展開だったのだろう。井枝清貴の前に立ち尽くした四人は、愕然としながら無言で踵を返そうとした。

 

「でも俺には教えてほしいんだけど、連絡先。」

 

ぶっきらぼうに井枝清貴が言うと、四人は一様にぴたりと足を止めた。

 

「ダメ?」


そう小首を傾げて尋ねながらも、表情から各自のスマホを目にも止まらぬ速さで取り出した。

 

「…ゆあ?苗字は?」

 

「松井結愛だよ、覚えてね。」

 

「松井ね。覚えた。」

 

また一人また一人と、井枝清貴は同じようなやりとりをして、女子の名前を頭にインプットしていた。先ほどとは打って変わって嬉しそうにはしゃぐ彼女たちを一瞥し、僕はほっと胸を撫で下ろした。

 

「ねえ、他の子にも教えたりしていい?」

 

「無理。教えたら絶交。」

 

突如として飛び出た絶交というワードに、四人はカナリアのように甲高い笑い声をあげる。井枝清貴もやはり年頃の男子だからだろうか、始業式のような刺々しさは身を潜め、柔和な表情で彼女たちと微笑みを交わしている。

四人とも連絡先を交換し終えると、彼女たちは満足げに笑い合いながら教室を出て行った。


午後の授業から帰りのHRまで、僕と井枝清貴は特に会話を交わすことなく、ただ隣に座って過ぎゆく時間を共にした。なぜ僕を、由孝と名前で呼んだのか。なぜグループLINEに入っているのかと聞いたのか。すぐ右隣に向かって尋ねれば分かる答えを、延々に考えた。兄の話題を耳にするうちに、出来の悪い弟の名前まで覚えてしまったのだろうか、とか。単純に隣の席だから、意識して覚えようとしてくれたのだろうか、とか。

 なんであったにしろ、水を浴びせられたような胸の冷たさを忘れるには十分すぎるくらいだった。

部活に向かう者と帰宅する者とで、教室からほとんど人がいなくなったところで、左肩に誰かの指がトントンと優しく触れたのを感じた。たしか、河合恵里奈さんだ。さっき井枝清貴を囲んでいた女子の中に、彼女もいた。尤も、彼女は黙って立っていただけだが。彼女も僕と同じく中等部からの内部進学組だが、同じクラスになるのは初めてだ。河合さんはくるんと巻かれた毛先をいじりながら、バツが悪そうに小さな口を開いた。

 

「…昼休み、ごめんね。でも後から誘おうとしてたのは本当だから、信じてほしい。」

 

「…そんな、いいよ。」

 

声がひっくり返らないよう慎重に答えると、河合さんは小さく折り畳んだルーズリーフの切れ端を差し出してきた。

 

「あたしなんて嫌かもしんないけど、これあたしのIDだから。」

 

「えっ」

 

「別に用なくてもダル絡みでもいいから、なんか送ってね。」

 

早口にそれだけ言い残すと、河合さんは教室のドアに向かってズンズンと歩みを進めていった。

IDと言われたルーズリーフの切れ端には、小さく丸っこいローマ字の羅列が並んでいる。人生初の女子の連絡先が僕の手の中にあると思うと、単純な嬉しさと時限式爆弾を抱えているような不安感とがせめぎ合う。

 

「やり方分かんねえの?」

 

右隣から欠伸混じりに井枝清貴が言った。帰りを急ぐ様子もなく、大きく伸びをした。

ご推察の通り、僕がこのローマ字を手にしたところで、河合さんにダル絡みどころか挨拶すら送る術も分からない。

 

「スマホ貸してみ。」

 

言われるがままリュックからスマートフォンを取り出して手渡すと、井枝清貴は面食らったように僕を見返す。

 

「いや、ロック外せよ。」

 

「してないよ。」

 

「え?そうなの?」

 

家族との連絡や調べ物、音楽再生に使うくらいなもので、見られて困るようなこともないスマホだ。わざわざ画面にロックなんて、かける必要がなかった。

井枝清貴が僕の手からルーズリーフの切れ端を奪い取ると、一分も経たずしてスマホが返ってきた。

 

「あ、ありがと。」

 

井枝清貴が目を伏せて頷くと、彼の長いまつ毛が頬に影を落とした。

「綺麗だな」という幼稚で素直がすぎる感想が頭に浮かんで、僕は大きく目を逸らし、タイミング良く入室してきた英語の先生を凝視した。


帰りのホームルームが終わると、僕と井枝清貴はどちらからともなく二人並んで教室を出た。

無言のまま下駄箱で靴を履き替え、玄関ドアをくぐったところで彼の方が先に口火を切った。


「なあ。スマホ、見た?」

 

問いただすような声色に、みっともなくビクついた僕は急いでスマホを取り出した。通知マークがニ件付いていた。

一つは河合さんからのメッセージで、Vサインしているピンク色のうさぎのスタンプで、ウサギの横には大きく「よろしくね」と書かれている。もう一件は見覚えのないアイコンだが、名前には井枝清貴とある。

驚いて顔を上げると、そこには既に井枝清貴の姿はなく、校門に向かって歩みを進めていた。慌てて駆け出し、その背中に追いついた。

 

「井枝くん!これ、井枝くんだよね?」


「そうだけど。」


「ありがとう。」


思っていた以上に声色に感情が乗ってしまった。変に思われただろうかと彼の表情を伺うと、歩きながら二人で顔を見合わせ、見つめあってしまった。


「いいの?」


「…なにが?」


「勝手に俺のも追加したから。」


「…そんな、いいよ。」


自分からは聞きたくても聞けなかったから、むしろ連絡先を教えてもらえて嬉しいだとか。さっきは河合さんと話せるキッカケを作ってくれてありがとうだとか。自己紹介のときに自分なんかを庇ってくれてありがとうだとか。

僕は彼に、もっと自分の口から伝えるべきことが山ほどあるはずなのに、頭も口も上手く回らない。

それを知ってか知らずか、井枝清貴は驚くほど柔らかい表情で微笑んだ。

 

「じゃあ、いいけど。」


これは妄想だとか、勘違いの域を出ない仮説だ。

この学校に編入してきた彼を、たったの二日間だけだが、僕は隣の席で見ている。担任の先生だって、河合さんや他のクラスメイトだって、彼のこんな笑顔を見た人はいないのではないか。

彼は今に、あの宝石みたいな笑顔をクラスメイトやら学校中の人たちに向けて振り撒くのかもしれない。それでも今この瞬間だけは、井枝清貴の笑顔は自分だけのものだと思うと、心臓の拍動があからさまに早まった。


珍しくよく鳴るスマホと僕とを、母が怪訝そうに見比べている。父の職業は転勤が多いせいだろう。元々僕たち家族は父親がいない生活には慣れている。そのため家庭の中でも兄の存在は大きく、いつも母を労って家事を進んで手伝ったり、常日頃から母や僕を笑顔にするような言葉がけや楽しい話をしてくれる人でもあった。

その兄が、この春に大学進学と同時に一人暮らしになったこともあって、僕も母も二人で食べる夕食にはまだ慣れない。

 

「…由孝。」

 

「ん?」

 

「なんか今、何回か鳴ってたよ。携帯。」

 

「うん。」

 

「なんかゲームとか、そういうのの通知?」

 

「うん。」

 

「課金とかやめてよね?」

 

「うん。」

 

 うん。と繰り返すだけの単調な会話に加えて、しれっと嘘までついてしまった。同じ質問をされたとしても、兄なら面白い答えをしてみせ、母を笑わせて場を和ませているところだ。兄と自分の落差をここでも大きく感じさせられた。

 

「ごちそうさまでした。」

 

いつもは兄がそう言ってから、思い出したかのように言っていた。母は「洗濯物、カゴにあるやつ持ってってね」と言いながら僕の食べ終わった皿を運んでいき、腕まくりをしたところで立ち上がった。

 

「洗うよ。」

 

 母がまたしても不思議そうな顔で僕を振り返る。

 

「なに、どうした?」

 

「俺だって、洗うくらいはやるよ。」

 

多分、母は分かっているだろう。

出来の悪い次男なりに、猿真似でも長男に近づこうと憐れな努力をしていることを。

母は僕たち兄弟に優劣をつけて嗜めるような、露骨な人では決してない。ただ、事実として兄と僕は、人格も能力も、世間からの評価も大きく違う。

僕の些末な猿真似ごときで、こんな皿洗いなんかで何も報われないことは分かっている。それでも、母に笑って欲しい。広時に向けるような笑顔を自分にも向けて欲しい。

もしもまた母の子供に生まれてこられるなら、由孝ではなくて、僕は広時になりたい。


おつかれ

今なにしてんの?

豚カツ食いすぎて気持ちわりい

死にそう


井枝清貴から送られてきたメッセージは、本当に他愛もない、河合さんが言うところのダル絡みだった。

河合さんからのメッセージには「こちらこそ、よろしくお願いします。」と返事をしたが、今のところ返信はない。

つまらない返事をしてしまった不安はあったが、自分からそれ以上に話を広げる勇気もなくそのままだ。

まずは井枝清貴に返事をしようとした途端に、スマホが震えた。うっかり手から落としかけて危うく持ち直した。

通知画面には、ERINAがあなたを招待しましたというメッセージの下に、「1B」というトークルームが表示されていた。

 

「あ…。」

 

河合さんからクラスのLINEに招待されたらしい。間抜けな声を上げながら、僕は井枝清貴とのトークルームを急いで開いた。


大丈夫?胃薬あったら飲んだ方がいいよ。

クラスのLINEに招待されたんだけど、どうしたらいいか分からず困ってます。


ずいぶん長いなと感じつつも、これ以上簡略化することも出来ず送信ボタンをタップした。

体感としては1分ほどの間を置いて、再びスマホが震えたかと思うと、画面を見た僕は僅かに指先を震わせた。

メッセージではなく、井枝清貴からの着信だった。

 

「もしもし…?」

 

「ごめん。…今、大丈夫だった?」

 

胃がもたれて気持ち悪いのだろうか、昼間とは打って変わって、弱々しい井枝清貴の声が電話口から聞こえてきた。


「全然、大丈夫。こっちこそごめんね、返事遅くて。」

 

「別にいいよ。」

 

「井枝くんこそ大丈夫?なんか声、辛そう。」

 

「マジ最悪。欲かいて食いすぎた。」

 

「ふっ、はは。」

 

彼の憮然としたその言い方に、自然と僕は声を上げて笑ってしまった。

電話口の向こうからの沈黙で我に帰ると、首筋の辺りから一気に血の気が引いていくのを感じた。

 

「ごめん、辛いのに笑ったりして。」

 

後悔と反省が伝わるはずもないが、自室の部屋の壁に向かって頭を下げながら謝罪すると、ようやく井枝清貴の小さな声が聞こえてきた。

 

「笑った顔見れなくて損した。」


「え?なにが?」


ふうー、と溜息のような音が聞こえたかと思うと、いつものハッキリした低い声で彼は言う。

 

「…グループLINE、入れば。」


「あ、え。井枝くんは、入らないの?」


「由孝も入るんなら。」


由孝、と彼が僕を呼ぶ声には、良い方の意味で感情の起伏がなく、まるで何年もそう呼びかけていられたかのように、自然な響きだった。


「じゃあ、入るよ。」


「ん。」


「あのさ、なんで、名前で呼んでくれるの?」


「…呼びたいから呼んでる。嫌だったら」


「嫌じゃないよ。」


食い気味に否定すると、フッと鼻で笑われた。


「そっちも清貴って呼べば。」


「えっ…自信ないな。」


「自信がいるのか。」


「いるよ。」


また、鼻で笑われた。それでも何故か嬉しかった。

クラスメイトと電話で話すのは、初めてだった。


「なんか、電話のがよく話すな。テンポがいい。」


「そうかな。」


「学校だと緊張すんの?」


「うん…そうかも。」


「たまたま同じ学校に通ってる、同い年の奴なんだからさ。そんな気張らなくってもいいんじゃね。」


「…井枝くんは人と話す時、相手にこう思われてるんじゃないかなとか、不安にならない?」


「なんない。相手にどう思われても別に。俺が相手をどう思うかだから。良いやつだなって思ったら優しくしてやりたいし、ヤな奴だなって思ったら気遣いとかはしない。」


「あーでも」と井枝清貴は思い出したように続けた。


「どんな奴でも、目を見て話すよ。日本のことわざにもあんじゃん、目は口ほどにってやつ。相手の目見れば大体、俺のこと色眼鏡で見てるだけか、分かるから。」


ことも無げにそう言い切る彼の声に、どうしようもない羨望と違和感を覚えた。色眼鏡というのは、彼を異質なものとして捉えているという意味だろうか。


「…色眼鏡って言うのは…」


「いろいろだよ。こういう見てくれとか性格とか、家のこととか。あ、あとバカだから俺。」


人目を引く容姿や揺らぐことがない真っ直ぐな性格は、よく分かるし、家のことというのも多分事情があるのだろう。ただ、最後の言葉には理解が追いつかず困惑した。

 

「バ、バカ?」


「バカだよ俺。漢字書けねーから。」


「漢字が?」


「うん。俺、麻布の中学も一年しか行ってない。それまでシアトルいたから。」


シアトル、というとアメリカだ。要するに彼は帰国子女ということになる。


「すごいね…。」


「いやだから漢字書けねえんだって。」


「漢字書けないとバカ…っていうのは、ちがうんじゃないかな。」


「いやボロクソ言われるぞ。平仮名で名前とか書くと。平仮名ですら苦労したのに。」


「でも、英語はその、ペラペラなんでしょ?」


「そりゃな。」


「その方がずっとすごいよ。それに漢字なんてまだ全然、今から勉強したって間に合うんじゃないかな。」


「え、そうなの?」


胃もたれのせいもあるのだろうが、不安そうにそう聞き返されて、思わずまた笑ってしまった。


「笑ってんじゃねえよ、深刻なんだよこっちは。」


すかさずキツい口調で咎められるが、口元の緩みは治らなかった。


「ま、いいけど。教えてもらうから、由孝に。」


「そんな、俺が教えるので良いの?」


「ちらっと聞いたけど、お前は成績いいんだろ。」


良いか悪いかで言えば良い方に入るのかもしれないが、兄には遠く及ばない。兄は入学から卒業まで、常に首席をキープしていた。

ただ、今だけはそんな事実も気に留まらなかった。彼との会話を続けることだけに夢中だった。


「漢字なら、教えられるかも。」


「頼むわ。」


そこからまた他愛もないことを少し話し、電話を切ってから初めて、1時間以上も彼と話していたことを知った。

部屋の電気を消して、ベッドに潜り込もうと横になると、スマホが震える音がした。


漢字これな。というメッセージに続いて、画像が送られてきた。かわいいキャラクターの絵が全面に描かれた冊子には、大きな文字で「はじめての漢字ドリル(小学一年生)」とプリントされている。

一人でベッドに入っても、一人になった気がしなかった。画像を見返して、可笑しくて笑いながら目を閉じた。こんなにも満たされた気持ちで眠りにつき、また朝になれば学校で彼に会える。地獄のような気分で迎えた高校生活が、今は楽しみで仕方がなかった。



「清貴。」


始業式から一ヶ月が経った。

隣で堂々と居眠りをしている彼に向かって小声で呼びかけるが、返事はない。


「清貴。」


もう一度呼びかけると、腕の隙間から清貴の片目が覗いた。


「当てられてるよ。」


「…なに。何しろって?」


「ここ、ここ読んで。」


教室中の視線を一身に集めながらも、全く動じた素振りも見せず、眉間に皺を寄せた清貴が、僕の教科書を覗き込んだかと思うと、僕の手から教科書を奪い取った。


「よ、世の中に…なにこれ。」


「物語。」


「ものがたり、といふ?ものあ…なるを。いかで、み、ば、やと、おもひ、つつ。つれづれ…つれづれなる…由孝。」


「昼間、宵居などに。」


「ひるま、よいなどに。」


「井枝くん、そこまでで結構ですよ。ありがとう。続きは…相良くんお願いします。」


察した様子で、古典の先生が微笑みながら清貴の音読を止めた。教科書を返してもらって立ち上がると同時に、案の定、後方から失笑する声が小さく聞こえてくる。


「姉、継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど」

 

「初等部に編入のが良かったんじゃね?」


「漢字読めねーくせにイキってんのヤバいよな。」


小声で話しているつもりなのだろうが、笑い声も清貴を揶揄する言葉も、腹が立つほどよく聞き取れた。清貴は完全に目が覚めたのか、自分の教科書を食い入るように見つめている。


「我が思ふままに、そらにいかでか覚えかたらむ。」


「バカボンってマジだったんだな。」


「バカボン?」


「バカなボンボン。略してバカボン。」


押し殺すような下卑た笑い声に、堪らず僕は木戸たちの席に向かって体ごと振り向いた。

自分がどんな顔をしているのかは分からなかったが、木戸はわずかに目を見開いてから僕を睨みつけた。

 

「聞こえないんだけど。」


前を向いたまま、よく通る声で清貴が言い放つと、たちまち木戸は清貴の方を見て閉口した。


「バカなボンボンでも分かるように読んでくれてんのがさ、聞こえないんだけど。」


先生も生徒も、誰もが唖然とした顔をしていた。僕と清貴と、木戸を除いて。



「お前さぁ、なに俺のことガンつけてんの?」


木戸の家は、県内で手広く福祉施設を展開する会社の経営者一族だ。家のことや、彼が三兄弟の末っ子だと言うのは、本人から聞いた。木戸は、中等部でできた最初の友達だったからだ。

しかし今となっては、男子トイレに連れ込まれ、怒鳴られながら胸ぐらを掴まれるような仲になった。


「理事長の孫にくっついて強くなったつもりかよ。ああ?バカなボンボンに尻尾ふるしか能がねえくせによ。」


バカなボンボン。

バカは漢字の読み書きが拙い清貴への子供じみた中傷でしかないが、ボンボンに関しては間違いではない。

入学から1ヶ月以上過ぎた最近になって知ったことだ。

関東圏を中心に幼稚舎から大学までを擁している氷星学園の他に、氷星医科グループ、氷星製薬という三つの巨大組織からなるグループ企業を束ねる人物。氷星グループの理事長、井枝雅貴氏にはたった一人の孫がいる。

それが清貴だった。

 一般家庭出身の僕からすれば、大人が働いてやっと買うような高級ブランドを、当然のような顔で日替わりに身につけている木戸は、ボンボンと呼んで然るべき人物だ。そんな木戸が皮肉を込めてボンボン呼ばわりする清貴は、僕にとっては雲の上のような存在の御曹司だったのだ。

先生がやたらと清貴のことを壊れものを扱うように接しているのも、木戸たちが大っぴらに清貴に手を出すことはできずにいるのも、彼の出自に大きく起因している。

僕と彼が、互いを名前で呼び合っているのも、本来なら甚だおこがましいことだ。


「調子乗ってんじゃねえよ失敗作のくせに。」


出来ることなら、バカなボンボンはお前だと言い返したい。

そう頭に浮かんできても、声に出すことも叶わない。木戸の言う通りだ。清貴に尻尾を振るしかできない、失敗作だと思われても仕方がないような奴なのだから。

 

「お前さぁ、次また俺に刃向かったら殺すからな。」


「…浮かれてた。」


「あ?」


「浮かれて、調子に乗ってるように、見えたよね。」


いつものように、押し黙って耐えるだけと思われていたのだろう。僕を睨みつける瞳の中に、当惑の色が滲んでいるのが見えた。木戸の目を改めて見れば見るほど、頭の中が洗い流されたように思考が明瞭になるのを感じた。


「浮かれてたんだ。クラスのLINEに誘ってもらったり、どうでもいいこと話して長電話したり。そんなこと、やったことなかったから。浮かれてた。」


木戸は、いつも引き連れている取り巻きの仲間を連れてこなかった。トイレに連れ込んで、集団で僕をボコボコに殴ることだって出来たのに。


「…一年の時、木戸から声かけてくれた時も、同じだった。嬉しかった。」


木戸の手が僕の喉元から離れると、力なく落ちた。


「忘れてないよ。嬉しかったよ。」


予鈴の音が、遠巻きに聞こえてくるが、僕も木戸も、立ち尽くしたまま動かなかった。


「刃向かったりなんてしない。しないから、清貴のことバカって言うのは、やめてほしい。清貴、漢字ドリルも頑張ってるから。」


「……漢字ドリル?」


「うん。小学生のやつ。」


「…なにそれ。お前が教えてんの?」


「教えるも何も、なぞるだけだからね。ひたすら。」


「……そりゃ良かったな。」


嘲るわけではなく、小さく悲しそうな声で、木戸は呟いた。


「うん、良かったよ。」


一歩前に出て、僕は木戸の俯いた顔が見えるように、少し膝を折った。

 

「また木戸と、話もできたし。良かったよ。」

 

木戸の頬が、蛍光灯の光に青白く照らされている。


僕を捉えた焦茶色の瞳が、揺らいだ気がした。ほんの、一瞬のことだったが。


「教室、戻んのかよ。」


「戻るよ、戻らないの?」


木戸は天井を仰ぎ見ながら目を閉じ、無言で首を横に振った。


どうするのか尋ねると、木戸はこちらを睨みつけ、早口に言った。

 

「バックれるに決まってんだろ。」


吐き捨てるように答える木戸に形だけ頷いて返し、踵を返して歩き出した。廊下に出る一歩手前で僕は足を止め、木戸を振り返った。


「なんか、言っておこうか?お腹痛くて、保健室で寝てるってことにしておく?」


「……お前はなんて言って戻るんだよ。」


「え…だから…。お腹痛かったって、言う、かな。」


「二人で腹痛えとかおかしいだろ。なんかもっとマシな理由考えろよ。」


いつも通りの粗暴な言い方に辟易しながらも、一理あると感じた僕はトイレの手洗い場に引き返した。


「…なんかないかな、マシな理由。」


「ねえからバックれるっつってんだよ。別にお前だけ戻ればいいだろ。俺は戻んねえから、余計なこと言うな。」


「岡田とかにはなんて言ってきたの?」


「なんも言ってねえよ、なんで俺がわざわざあいつらに断り入れなきゃいけねぇんだよ。てかお前さ、いつもそうやってちゃんと喋れよ。黙られるとムカつくんだよ。」


早口で捲し立てられ、僕はポカンと口を開けたまま固まった。その直後、腹の底から何かが湧き上がってきて、思いがけず声を上げて笑った。幽霊でも見たような顔で僕を見ていると木戸と目が合い、急激な羞恥心に襲われて目を背けた。


「…お前さあ…。」


「ごめん。」


「じゃなくて。そうやってちゃんと喋って笑えよ。」


さっきまで胸ぐらを掴まれて凄まれていた相手からの、思ってもみないアドバイスに僕は思わず面食らった。


「広時なんかより全然いいだろが。笑った顔。」


そう言って、木戸も少し笑った。僕は何も答えることなく歯を食いしばるようにして閉口した。木戸の顔は、見る見るうちに血の気が引いていく。


「えっ、なに、急に。なんだよ。」


「…なんで、そんなこと、言うんだよ。俺のことずっと、無視したり、悪口言ってたくせに。」


さっきまで笑っていたものが今度は涙を流して文句を言ってくるのだから、さすがの木戸だって戸惑っている。堰を切ったように流れて落ちるそれを拭おうと、木戸はトイレの個室に駆け込み、トイレットペーパーをまるごと持ってきた。


「ドンマイって、笑ったりしてたくせにさ。なんで…誰も、誰も。広時より良いなんて、一回だって、言われたことないのに。なんでそれを…木戸が言うんだよ。」


トイレットペーパーを奪い、僕は顔面に押し当てた。涙で散り散りに破けて、目の周りの皮膚を擦りあげるような痛みが走る。


「なんでって…。俺だからだろ。」


木戸は眉間に皺を寄せながら、僕の肩を片手で掴んだ。


「お前と一番長いのは俺だろが。」


構造上の問題で、目から涙が溢れれば、鼻からも容赦なく流れ出る。垂れ流した鼻水もそのままに、僕は木戸を見上げた。


「…俺にも、ちゃんと喋って笑えよ。」


掠れた声でそう言った木戸の唇が、震えていた。涙で霞む視界からも、それはハッキリと見えた。


僕を振り切るようにしてトイレから木戸が立ち去ると、壁に背を預けたまま、ズルズルとその場に座り込んだ。

木戸があのあと教室に戻ったのか、宣言通りにバックれたのかは知らないが、僕は涙がおさまるのを待って教室に戻った。授業をバックれる、という誉められたものではない行いも、人生初の経験だった。


赤みが引かない目と鼻を気にしながら、足音を立てないように教室に近づいたところで、中には誰もいないことを悟った。


「あ、情報か…。」


よく確認していなかった。自分がサボった現代文のあとは、情報の授業だったらしい。とすれば、クラスのみんなは二階の視聴覚室に移動している。さすがに二限も立て続けにサボるわけにはいかない。僕は自分の席から教科書と筆記用具を引っ張り出して、二階に向かった。


あまり躊躇することなく視聴覚室のドアを開けると、何人かがこちらを振り返った。その中にいた河合さんが、僕に向かって手招きをする。


「今、先生どっか行ってるから。ここ来なよ。」


ここと言われたところは河合さんの隣の机だった。

椅子に座って周りを見回すと、木戸の姿はやはりない。そして、清貴の姿もない。

横から河合さんが僕の分のプリントを手渡してくれながら、心配そうに僕の顔を覗き込む。

 

「ねえ。木戸になんかされたの?」


「いやちょっと、話してただけ。」


露骨に言葉を濁してしまったが、河合さんは察した様子でプリントの傍線部分を指差した。


「パワポで時事ネタのスライド作るんだって。早くやんなよ。」


傍線部分には政治経済ニュースをもとに独自の観点から問題点をまとめ、統合と解釈した上でまとめるとある。

カタカタとテンポ良くキーボードを鳴らしながら、モニターを見つめる河合さんは、女子高生ながらに会社員のような風格を持っている。

検索サイトのニュース欄と睨めっこしながら、僕は再び視聴覚室を見回した。木戸と清貴が不在であることを加味しても、いくつか空席があることに気付いた。


「…なんかちょっと、人少ない?」


小声で右隣の河合さんに向かって尋ねると、河合さんはやはりモニターから目を離さず続けた。


「オリエンテーションの役員だけ、課題免除で資料作りしてるらしいよ。」


「オリエンテーション?」


「来週、美琴山のキャンプ場いくやつ。」


そういえば、始業式で配られた行事予定に、そんなものがあった。もう来週にまで差し迫っているとは気が付かずにいた。


「井枝くん役員だから行ったよ。」


河合さんは若干不満げに告げると、唇を少し尖らせた。


「あたしも一緒に役員したかったなぁ。」


「え、それいつ決まったの?」


「相良と木戸がバックれてた時に、あみだで決まった。」


木戸と授業を抜けていた時間が、担任の戸田先生が受け持つ現文だったためだろう。授業の延長でオリエンテーションの役員決めをしていてもおかしくない。


「清貴、大丈夫だったかな…。」


「別に普通だったよ。」


保護者かよ、と河合さんは続け、呆れたように笑った。

たしかにそうだ。別に僕がいなくても清貴は清貴で、思った通りに行動するだろうし、上手く立ち回れる人だ。

自分の発言に軽く恥入りながら、僕もキーボードに向かって手を伸ばし、当たり障りのないニュースの記事を選んでスライド作りに取り掛かった。



清貴に再会したのは帰りのHRになった。

視聴覚室から戻った僕と、社会科準備室から戻った清貴、そしてどこかから何事もなかったような顔で木戸が教室のドアをくぐる。

清貴ははじめに僕の方に歩み寄ると、頭から足元まで見下ろした。


「…ごめん、木戸と話してたら、長引いて。」


先に謝ると、清貴は何かを言いかけたように開いた口を閉じた。タイミング良く、戸田先生が入ってきて席に着くよう促される。

清貴は僕の肩をぽんと叩いて、隣に腰掛けた。

たったそれだけのことなのに、僕は再び泣き出しそうになった顔を隠すように席に着いた。

戸田先生は手元の資料を教卓に並べ、一呼吸ついてから顔を上げた。


「えー、さっき役員に集まってもらって、オリエンテーションの資料が出来上がりました。」


前列から順々に白い冊子が手渡され、僕の手元にも行き渡ったそれを開くと、1ページ目には呑気なクマのイラストともに班員構成が記載されていた。四人から五人で一組ずつ、AからFまでの六班で構成されている。

B班の中に自分の名前を見つけて、僕は目を瞬かせた。井枝清貴、木戸亮介、相良由孝、河合恵里菜、藤井玲奈。

どう考えても、何らかの操作が加わっているとしか思えないメンバー割だった。


オリエンテーション当日は、いつもの登校時間より30分早く設定され、校門の前に指定のジャージを着用して集合とあった。

人混みの中から最初に声をかけられた相手は、同じ班の藤井さんだった。


「弟〜!こっちこっち!」


なんの悪気もなくそう呼ばれ、僕も当たり前のように小走りに近寄った。


「お、おはよう…。」


「おはよー!ねえレナ前髪これ平気かなぁ?スプレーしてきたんだけど、ベタベタしてない?」


「して、ないよ。」


「てかさぁ前髪それうざくない?レナがちょいアレンジしよっか?」


「え…。」


言い淀んでいる間に藤井さんはリュックから櫛とスプレーを取り出して、僕のおでこ目掛けて冷たい空気を噴射した。


「えーかわいいー、絶対おでこ出した方がいいよぉ。」


目元まで伸びた前髪がスプレーでぴたりと固められ、おでこを涼しい風が掠める。


「なんか…髪がバキバキしてるよ」


「ちょい今梳かすから」


前髪から耳に向かって藤井さんが櫛を通すと、幾分か自然な毛流れになったのが分かった。


「えーレナ天才かもしんない。」


藤井さんが甲高い声をあげて楽しそうに笑い、唐突に頰をつままれる。


「ねえレナもさー、よしたかって呼んでもいい?」


藤井さんのイタズラっぽく笑う顔は無邪気そのもので、唇から覗く八重歯があどけなく可愛らしい。きっと、たくさんの愛情を受けてきた人なのだろう。笑顔に嘘がない。


「いいけど…。俺の名前、知ってたんだね。」


「清貴がヨシタカヨシタカって連呼してるから覚えたよ。」


流れるように清貴の名前が出て、僕は口ごもった。

木戸との一件があって以降、清貴とは挨拶程度の当たり障りのない会話しかしていない。一度だけかかってきた電話も、それっきりだ。


「由孝」


背後から声がして振り返ると、あまり似合っていないジャージ姿の清貴が立っていた。


「河合と木戸は?てか、なんだその前髪。どうした。」


「レナがやったー、イケてるっしょ。」


「ない。元に戻せ。」


藤井さんに冷たくそう言い放つと、清貴は河合さんと木戸の姿を見つけて手を振った。藤井さんにセットしてもらった髪を褒められ、わずかでも調子に乗っていた自覚があっただけに、僕は急いで前髪を掻きむしるようにして散らした。藤井さんが隣で残念そうな声をあげる。


「えー。せっかくかっこよかったのに。もったいなー。」


「ごめん。」


ちょうど集合時間になったのだろう。先生が班ごとに整列するよう先導し始めた。清貴はというと、木戸の隣に立って小声で何かを話していたかと思うと、肩を叩きあいながら笑っている。僕が最後尾でうろたえている間に先生たちの話は終わり、班ごとに歩いて山間のキャンプ場を目指すことになった。


いつも下ろしている長い髪をお団子のように結んでいる河合さんが、僕の横を歩きながら前方を歩く清貴たちに目を凝らす。


「あの二人はなんなの?急に仲良くなったの?」


「そうみたい。」


僕と河合さんと藤井さんが着いてきているか、後方を振り返りながら確認しつつ、木戸と清貴は山道を蹴散らすように歩いている。


「清貴とられちゃって寂しい?」


憐れむように眉を下げた藤井さんが僕に尋ね、苦笑した。


「…とられてっていうか、元々…」


「由孝ぁ」


自分のものではないからと続けようとしたところで、後ろを向いたまま歩く木戸に、数年ぶりに下の名前を呼ばれた。


「女と喋ってんじゃねーよ。」


乱雑にそう言うと、木戸が荒っぽく手招きをした。

反応に困っていると、僕より先に両隣の女子二人が先に噛み付く。

 

「はあ?なんなのあんた。小学生?」


「女じゃなくてレナと恵里菜って名前あるんですけど。ウザ。」


間髪入れずに浴びせかける言葉は、男子のそれよりも鋭く冷たく響く。しかし木戸は意に介した様子もなく、僕の方まで走り寄ってきて、僕の手首を取って引きずった。


「お前さ、ああいうギャル系が好きなの?」


「ギャ…」


「俺はどっちかって言うとレナのがいい。河合は怖い。」


聞こえてるんですけどー、と河合さんが後ろから合いの手を入れる。


「…河合さん、優しいよ。」


精一杯そう返すと、今度は反対側から清貴に肩を抱かれた。


「河合から直々にLINEゲットしたもんな。」


え、それマジ?と木戸が大きく口を開けて呼応すると、清貴はケラケラと笑う。

 

「なに、河合のこと狙ってんの?」


「若干…。」


真顔で返す木戸に吹き出しそうになると、清貴は突然山に向かって叫び出す。

 

「木戸ドンマーーーイ!!」


こちらを振り向いて清貴はニカッと笑うと、清貴の背中から、パァンと弾けるような音が響く。木戸が引っ叩いたのだ。


「いってぇな!ほら由孝もドンマイって言ってやれよ!お返ししろお返し!」


「別に本気で狙ってねーし!何がドンマイだ!」


「ほら由孝!」


山の緑に陽が差して、清貴の顔が照らされ、眩しくて目を細めた。


「ド、ドンマーイ!」


吃りながらも精一杯の大きい声で叫ぶと、胸の中に風が走ったような清涼感に包まれた。

木戸は目を見開いたあと、清貴と同じような顔で笑いながら、僕の背中にも一発食らわせた。


それほどの時間を要さずして辿り着いたキャンプ場では、一息つく間も無く昼食の準備に取り掛かることになった。

あの定番メニューの材料を囲むようにして、各々の班員たちがキャンプ場の椅子に腰掛けていく。

一つのテーブルを挟むように男女で分かれて座ったかと思うと、なぜか僕は木戸と清貴の間に挟まれていた。


「で?この中で料理できる人っているの?」


「俺。」


睨みをきかせながら河合さんが尋ねると、清貴が鼻高々に答えた。


「逆に河合とレナできねーの?」


「あたしはできる。レナはヤバい。」


藤井さんは河合さんの回答にニコニコしながら頷いている。


「木戸と相良は?」


「俺はムリ。お前できる?」


「…できないです。」


少し前に皿洗いをして母に褒められているようなレベルなので、潔く答えた。


河合さんは机の上にずらりと並べられた野菜や調味料を手に取った。


「まずね。カレーとポテサラとコンソメスープを作るわけ。」


他の班は和やかな雰囲気の中で調理に取り掛かろうとしている中、僕たちの班だけが向かい合って座り、緊迫した空気を漂わせている。

 

「皮剥いて切って煮て味付けしてっていう工程を、三品分並行してこなさなきゃいけないの。」


カレーとポテトサラダとコンソメスープ。質素なわけでは決してないが、豪華というわけでもない、シンプルなメニューのはずだ。しかし河合さんに強硬な面持ちで説明されると、それは困難な作業のように感じた。


「最初に私と井枝くんで野菜の下拵えして、カレーとコンソメスープ作るから。木戸と相良とレナは、私が呼ぶまでここで待ってて。」


「こいつら呼んでどうすんの?」


「ポテサラ用のジャガイモ潰させる。」


「なるほど、無駄がないな。」


清貴が感嘆した様子で頷くと、河合さんは立ち上がって腕まくりをしながら、藤井さんの方を振り返る。


「レナ、どっか行っちゃダメだよ。木戸と相良とここにいてね。」


「はあい。」


河合さんと清貴が具材を持って炊事場に向かうと、途端に木戸が吹き出した。


「なんだあれ、母ちゃんじゃん。」


「恵里菜のママってさ、ちょ〜忙しいお医者さんなの。恵里菜、三姉妹の長女だし、昔からしっかりしてんだよ〜。」


「へえ…。そうえばお前らって、幼稚舎あがりの純血なんだっけ?」


「そ。うちら出会って十二周年。あんたらなんて2ヶ月でしょ?そう簡単に恵里菜はあげないよ。」


「いらねえし、とらねえ。」


仲が良い二人だと思っていたが、幼稚舎からの「純血」だったとは知らなかった。純血というのはその名の通り、両親とも氷星学園の出身であるという意味だ。

そもそも幼稚園にお受験をして入るという慣習がないこの地域で、幼稚舎から氷星に通う子供は、もれなく純血の子供たちであることが多い。結束力の強い純血たちは昔から親同士で交流があったり、地元の名士が多いことから保護者会の役員にも名を連ね、多額の寄付金を氷星に投じるほどの財力を持つとも聞く。


「木戸んちってハーフ?」


「そう。」


片方の親が卒業生ならば「ハーフ」、両親とも他校の出身であれば「野良」。氷星はハーフの割合が最も多く、全体の六割を占める。残りの三割が野良、そして一割が純血だ。


 

「由孝は野良なんだっけ?」


「うん。」


「へー。じゃあ実力派だ。やるじゃん。」


この手の質問にも一切の嫌味を感じさせないあたり、やはり純血なのだと再認識した。差別意識が最も強いのは多数派のハーフたちがほとんどで、純血は穏やかで争いごとを好まない。

 

「じゃあ清貴ってなんなんだろうね?」


「あいつんちはそういうの関係ないだろ、理事長の孫だし。」


「あー、たしかに。」


話変わるけどさ、と藤井さんは前置きして、ニヤリと笑った。


「清貴って、由孝のこと絶対好きだよね。」


小動物が縮こまるかのように僕は肩を揺らした。

木戸はというと、おそらく面白おかしく揶揄う話題を振られたにも関わらず、憮然とした顔でいる。

 

「だからなんだよ。」


「えー、なんか萌えるなぁって。」


「女ってそういうの好きだよな。」


「だから女じゃなくてレナなんですけど。」


「そ、れはないよ。」


笑って流れるであろう会話に、僕は必死で声を絞り出した。


「俺が周りから浮いてるのを、清貴が気遣ってくれてるだけだから。」


「まあそれもあるよね〜。由孝って全然言い返さないし、ちょっと卑屈すぎだもん。」


至極真っ当なコメントに胸の痛みを感じながらも、僕は息継ぎをして懸命に続けた。


「そう。そうなんだ。俺がこんなだから…。でも俺としてはありがたいというか…。清貴のおかげで木戸ともまた話せるようになったし、河合さんと藤井さんとも…。」


「それはちょっと違うんじゃない?」


遠くに聳える山に目を細めながら、藤井さんが凛とした声色で言った。


「清貴は話すキッカケになっただけで、レナは由孝がどんな人なのか気になってたよ。恵里菜も自分から連絡先渡してたくらいだし、そうじゃないかな。木戸は知らんけど。」


知らんけど、と水を向けられた木戸は面白くなさそうに眉を顰めた。


「清貴のおかげなんて言うの、やめなよ。広時先輩の弟なわりに大人しいから、茶化してくる人もいるだろうけど、由孝に興味がある人はいっぱいいるよ。」


レナもそうだし、と続けながら、藤井さんは俺の顔を覗き込みながら笑った。


清貴との出会いは、自分の人生にとって夏の雷のようだった。

とんでもない衝撃と共に現れ、猛烈な勢いで乾いた大地を潤したかと思えば、嘘のように暗い雲を押し除けて晴れ渡る。清貴が僕の世界に彩りを与えたことは事実だ。


クラスの行事など、ひたすらに時間が過ぎるのを待つばかりの苦行でしかなかった僕が、山々の風景を眼前にしながら、なんの目的も義務もない会話を同級生としている。

それが清貴のおかげであることは、やはり否めない。否めないが、一つ分かったことがある。


「ありがとう。」


僕を弟ではなく、名前で呼んでくれる友達が、すぐそばにいるということ。

これから僕たちは上手く行くかもわからない昼食作りに参加して、出来上がったカレーやポテトサラダを分け合って食べると言うこと。きっと兄は当たり前のようにしてきたであろうことが、僕にとっては一つ一つが奇跡の瞬間の連続だった。

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【BL】の、弟。 ハムニバル @hamnival

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