第15話

夜の谷端川南緑道。

透が琳を見つけ、静かに声をかけようとしたそのとき。


琳が、かすかに身じろぐ。


その瞬間、低い笑い声が聞こえた。

「ねえ、こんな夜に女の子がひとりって、危ないんじゃない?」


視線の先、街灯の明かりの下に、酔っ払った男がひとり。

琳のすぐそばに立ち、ニヤついた笑みを浮かべている。


琳は、微笑んだまま、そっと首を傾げた。

「……危ない?」


「ほら、そうやって油断してるとさ……」

男の手が、琳の肩に伸びる。


その手が触れるより早く。


「……やめろよ」


透の声が、夜の静寂を破った。


男が驚いて振り向く。

透は、自然に琳の前に立っていた。


琳が、すぐ後ろで微かに息をのむ気配がする。


男は、酔いで足元をふらつかせながら、透を見上げる。

「……なんだ、お前?」


「彼女が迷惑そうだから」


透は静かに言った。


男は、つまらなそうに肩をすくめる。

「ちぇっ、つまんねぇの」


そう吐き捨てて、ふらふらと歩き去っていった。


透は、琳の方を振り返る。


琳は、彼をじっと見つめていた。

微かに見開かれた瞳が、街灯の光を映して揺れる。


「……あなた、私を助けたの?」


琳の声は、どこか不思議そうだった。


「当然だろ」


透は、何でもないことのように答えた。


琳は、少しの間、何も言わなかった。

やがて、静かに微笑んだ。


「あなたって、時々……」


風が吹く。

琳の髪が揺れ、透の目の前で、緑のカーネーションがふわりと揺れた。


「……本当に…」


言いかけたその言葉が、夜の空気に溶けていく。

透が小さく声を上げる。


「こんな場所で何を?」


琳は、透の方へ顔を向ける。


「あなたは?」


透は言葉に詰まり、琳の瞳を覗き込む。


琳はただ、いつものように楽しげな微笑を浮かべる。


「夜の住人になってほしいかも」


ふっと、そんな言葉をこぼした。


透の胸の奥で、小さく何かが揺らいだ。


琳はゆっくりと遊歩道のベンチに腰を下ろした。

その動作が妙にしなやかで、風の流れに溶け込むようだった。


「君が、それを望むならそれは厭わないよ」


透は隣に立ったまま、琳を見下ろす。


琳はベンチの背にもたれかかり、仰ぎ見るように透を見つめる。


夜風が静かに吹き抜ける。

街灯の下、琳の髪がかすかに揺れた。


「でも、あなたはまだ昼の人間みたいね」


透は琳の瞳をじっと見つめた。


「……違うかもしれない」


琳の指が、袖をつまんだままわずかに強くなる。


「違う?」


透はゆっくりと息を吐いた。


「夜を歩いてる。君と出会ってから……たぶん、前よりも。」


琳の声は、どこか寂しそうだった。


「そんな顔しないで」


透は無意識に言っていた。


琳が微かに目を見開き、すぐに柔らかく微笑む。


「あなたって、時々、鋭いことを言うのね」


透は、琳の言葉の意味を考えながら、彼女の隣に座った。


夜の静けさの中、二人の影が並んで長く伸びる。


琳はそっと手を伸ばし、透の袖の端を指先で軽くつまんだ。


「……もう少し、夜を歩きましょうか?」


その声は甘く、どこか誘うようだった。


―――


二人はゆっくりと緑道を歩き始めた。


夜の風が、静かに頬を撫でる。


琳は透の袖をつまんだまま、足元を確かめるように歩いている。


「夜の散歩って、不思議ね」


琳がふと呟いた。


「どうして?」


「昼間と同じ場所なのに、全然違う顔をしてる」


琳の声は静かで、風に溶けるようだった。


「昼の世界では見えないものが、夜になると浮かび上がるの」


透は彼女の横顔を盗み見る。


琳の目は、どこか遠くを見つめているようだった。


「……たとえば?」


琳は小さく微笑んだ。


「秘密よ」


透は、少しだけ息を呑んだ。


琳の言葉は、夜の闇に紛れてどこか曖昧に響く。


ふと、琳の足が止まる。


街灯の光が、彼女の輪郭を淡く照らし出していた。


「ねえ、」


琳が顔を上げ、まっすぐに透を見つめる。


「あなたは……夜が好き?」


問いかけは、ただの世間話のようにも聞こえた。

けれど、琳の目の奥には、何か試すような色が滲んでいる。


透は、夜の静けさの中で答えを探すように息を吐いた。


「……前より、好きになったかもしれない」


琳が微かに目を細める。


「でもね……私は消えてしまうのかもしれない」


透の胸が、僅かにざわめく。


「どういう意味?」


琳は何も答えず、ただ夜の空を見上げた。


「秘密よ」


それは、ふざけた調子のようでいて、どこか脆さを孕んでいた。


「……そっか」


彼女はそう呟きながら、そっと透の腕を離した。


「じゃあ、もう少し付き合ってくれる?」


琳は、まるで夜そのもののように、静かに微笑んだ。



―――



二人はゆっくりと緑道の階段に差し掛かった。


夜の静けさの中、段差に沿って並ぶ街灯が淡い光を落としている。


琳は足元を確かめながら、一歩ずつ降りていく。


透もその背を見つめながら、後ろをついていった。


風が吹いた。


琳の髪がふわりと揺れる。


その瞬間、彼女の足がわずかに滑った。


「……っ」


透は反射的に手を伸ばした。


琳の腕を掴む。


琳は驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。


「ありがとう、助かったわ」


彼女はそう言いながら、透の手に目を落とす。


透は琳の手の温もりを感じた。


夜の冷たい空気の中で、それは不思議なほど温かかった。


琳がふっと唇を緩める。


「……手を離してもいいのよ?」


冗談めかした言葉。


けれど、その頬はわずかに紅潮していた。


透はしばらく琳の顔を見つめ、それからそっと手を放した。


琳は何事もなかったように微笑み、階段を降りていく。


その先でふと立ち止まり、夜の空を見上げた。


「……もうすぐ夜が終わるわ」


透も立ち止まり、琳の横顔を見つめる。


「また会える?」


透の問いに、琳はわずかに笑った。


「さあ、どうかしら」


その言葉に、透はかすかな違和感を覚えた。


「君は、昼間はどこにいるの?」


琳は一瞬、目を伏せる。


「秘密よ」


それはいつもの調子に聞こえたが、どこか脆さを含んでいた。


透が次の言葉を探そうとしたとき、風が吹いた。


一瞬、視界が揺れる。


──琳の姿が、ふっと消えていた。


透は慌てて周囲を見回す。


しかし、琳の姿はどこにもない。


ただ、風に揺れる緑のカーネーションの香りだけが、微かに残っていた。


透はその背を追いながら、指先に残る琳の温度を意識していた。


琳は、確かにそこにいた。


ただの幻想なんかじゃない。


その思いが、透の胸の奥に静かに沁みていった。



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