第8話

街灯の明かりが途切れた先、闇の奥に提灯の灯りがぽつりと浮かんでいた。


稲荷神社の入口だった。


「ついてこないの?」


琳が振り返る。

街灯の明かりを背に、その輪郭が淡く滲んでいた。


透は、わずかに息をのむ。

けれど、ためらいは長く続かなかった。


静かに足を踏み出す。


二人は並んで、鳥居をくぐる。


提灯の灯りが、風に揺れた。

朱色の灯が、琳の長い髪に溶けていく。


「ここ、好きなの?」


透が問うと、琳は微かに目を細める。


「そうね……嫌いじゃないわ」


「……願い事でもする?」


透が、何気なく言った。


琳は一瞬だけ目を見開き、そして、くすりと笑う。


「面白いことを言うのね」


「そうか?」


「だって、前にも言ったじゃない」


琳は、提灯を見上げた。


「私は、願い事があるの」


透は、それを聞いて小さく息を呑んだ。


琳が前にも同じ言葉を口にしたことを、思い出す。


「それは……どんな願い?」


琳は、そっと目を伏せる。

指先が、緑のカーネーションをそっとなぞる。


「秘密よ」


提灯の炎が揺れる。

琳の瞳も、どこか遠くを見つめるように揺れていた。


透は、その横顔をじっと見つめる。


琳の微笑みは、いつもどこか儚い。

冗談のようで、本当のようで。

まるで、どこか別の世界にいる人のような、そんな表情をする。


「……そんな顔をするとき」


透は、ふっと言葉をこぼす。


「君は、少しだけ寂しそうに見える」


琳の指が、一瞬だけ止まった。


風が吹く。


提灯の灯りが、ふわりと揺れる。


琳は何かを言いかけたようだった。

けれど、言葉にはならなかった。


代わりに、そっと目を伏せる。


そして、微笑んだ。


「そんなこと、ないわ」


静かな声だった。


けれど、その微笑みは、どこかぎこちなかった。


透は何も言わなかった。


琳が、何を考えているのか。

何を隠しているのか。


彼にはまだ、分からなかった。


ただ、今までとは違う琳の表情を見た気がして、胸の奥が少しだけざわついた。


―――


透は、ふと問いかけた。


「このあたり、昔から住んでるの?」


琳は、ゆるく首を傾げる。


「さあ、どうかしら?」


「答えになってない」


「そう?」


琳は、からかうように微笑んだ。


「あなたよりも、ずっと長く歩いているかもしれないわ」


透は眉をひそめる。


「長くって……どれくらい?」


「秘密」


琳は、提灯の灯りを見上げる。

火が風に揺れ、朱色の影が夜気に滲んだ。


「でも、あなたよりもずっと長く、この街を知ってるわ」


透は、琳の横顔を見つめる。


「……この街、夜になると雰囲気が変わるよな」


琳はふっと目を細めた。


「そうね。昼の街と夜の街は、全然違う」


「違う?」


「ええ」


琳は歩きながら、指先で緑のカーネーションをなぞった。


「昼の街は、あまりにも眩しい。でも、夜は違う。夜には、隠れていたものが浮かび上がるのよ」


透は琳の言葉を反芻する。

隠れていたものが浮かび上がる——それは、琳自身のことでもあるのだろうか。


「じゃあ、君は……昼間はどこにいるの?」


琳の足が、一瞬だけ止まる。


けれど、すぐに彼女は微笑んだ。


「秘密」


透は、ゆっくり息を吐く。


琳は、どこまでが本当で、どこまでが嘘なのか分からない。

けれど、その笑顔の奥に、確かに何かが隠されている。


夜風が吹いた。


琳の髪が、ふわりと揺れる。

緑のカーネーションが、かすかに震えた。


「ねえ」


琳が立ち止まり、透を振り返る。


「あなたは、夜の住人になれるかしら?」


透は、一瞬だけ息をのんだ。


「……それって」


「そのままの意味よ」


琳は、微笑んでいた。

けれど、その瞳の奥には、揺れるものがあった。


夜の住人。


琳が「私は夜の住人」と言ったのは、最初に会った夜だった。

それは、彼女自身のことを指していたはずなのに——今度は、透に向けられた言葉だった。


「俺が、夜の住人になる?」


琳はそっと目を細める。


「そう。……もし、あなたがそうなら」


「そうなら?」


「私たちは、もっと一緒にいられるのかしら」


透は、何かを言おうとして、言葉を探した。

けれど、すぐには見つからなかった。


琳は、その沈黙を楽しむように微笑んだ。


「……また会えるかしら?」


そう言って、琳は歩き出す。

透が何かを言う前に、彼女は夜の闇の中へと足を進めた。


「琳——」


透が名前を呼ぶ。


けれど、その声が届く前に、琳の姿は、ぼんやりと暗闇に溶けていった。


透は、その場に立ち尽くす。


夜の静寂が、すべてを包み込んでいた。

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