緑の花は夜に咲く

第2話

「彼女と出会ったのは、静かな夜だった。

細く入り組んだ“蛇道”――その先に、

緑のカーネーションをつけた、誰かが立っていた。」



夜、細く複雑に入り組んだ住宅街の道――「蛇道(へびみち)」を歩くのが、いつから習慣になったのか。

透は、自分でもはっきりとは思い出せなかった。


ただ、最初はたぶん、偶然だった。


暑さの残る夏の夜、気まぐれに遠回りをした。

坂道を上るうちに、気づけば蛇道に迷い込んでいた。


夜風が頬を撫でる。遠くで車の音が響く。

静かな住宅街の向こうに、コンビニの明かりがぽつんと灯っていた。

人の気配はなく、街灯の光がぼんやりと敷石を照らしている。


その時だった。


ふと、視界の端で何かが揺れた。


街灯の下、長い髪がそっと靡いていた。

細い指先が、髪飾りに触れる。

緑のカーネーションが、かすかに光を帯びるように見えた。


あの時、何を思ったのかは覚えていない。

ただ、その姿が妙に心に焼きついて離れなかった。


── だから、翌日も、またその道を歩いた。


理由なんて、特になかった。

ただ、なんとなく。

ゆっくりと蛇道を抜け、坂を降りていく。


そして、再び角を曲がる。


……そこに、彼女はいなかった。


透(とおる)は静かに息を吐いた。

本当は、期待していたのかもしれない。

でも、それが何に対する期待なのか、自分でも分からなかった。


夜の街は、何事もなかったかのように静まり返っている。

坂道を下る足音だけが、淡く響いた。


── それでも、また歩くだろう。

たぶん、明日も。


―――


その夜、月がよく見えた。


まるで夜空にぽっかりと穴が開いたように、白い光が降り注ぐ。

雲一つない空の下、蛇道の石畳は青白く光り、道の先がどこへ続くのかさえ分からなくなる。


透は、いつものように歩いていた。

もう理由を考えることはやめた。

ただ、足が自然とこの道を選ぶ。


角を曲がる。


── そこに、彼女がいた。


月光の下で、ゆっくりと髪が揺れる。

緑のカーネーションが、静かに夜気を孕む。


夜風がふわりと吹き抜ける。

ワンピースの上に羽織った着物風のカーディガンが、淡く揺れた。

星と花の模様が月光に照らされ、静かな波紋のように浮かび上がる。


揺れる髪の下、首元には細いリボンのチョーカー。

控えめな装飾が、月の光を淡く反射していた。


まるで、この夜に生まれた存在のように。

静かに、穏やかに、けれど確かにそこにいた。


「ねえ」


透は息をのんだ。


彼女の方から、声をかけてきた。


「あなた、どうしてそんな顔をしてるの?」


彼女は楽しそうに笑う。


まるで、最初からここにいることが決まっていたような顔で。


透は答えられずにいた。


驚きや喜びよりも先に、ひとつの考えが脳裏をかすめた。


── これは夢だろうか。


あまりにも、出来すぎている。


この場所で、満月の下で、再び出会うなんて。



「……驚いた?」


「いや……」


「嘘」


彼女はまた笑う。

けれど、その笑顔の奥に、微かな翳りがあった。


透が言葉を探していると、彼女がふと夜空を仰ぐ。


「綺麗ね」


満月を見つめる彼女の横顔は、どこか遠くにいる人のようだった。


「満月の夜は、死んだ女のように綺麗」


彼女が呟く。

それは、まるで誰かの言葉をなぞるように。


透は彼女の横顔をじっと見つめた。

それを察したのか、彼女は目を細める。


「どうしたの?」


「……いや」


「また嘘」


彼女は小さく笑うと、ふわりと前髪をかき上げる。

その仕草が、妙に艶めかしく見えた。


透の心臓が、ひどく静かに鳴った。


夜風が吹く。

彼女の髪が、ほんの少しだけ揺れる。


「ねえ、今日はついてこないの?」


彼女の声が、ほんの少し、挑発するように響いた。

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