災害記録16
蒼白な月明かりが磨かれた湖面を照らし出す。その上には揺るぎのない
眼鏡のレンズに映っていたのは、見覚えのない電話番号だった。倒木に腰かけたまま、痩せた男は電話に出る。
「誰だ」
「――まさか、本当に繋がるとはな」
生真面目な声色には聞き覚えがあった。短く刈り上げた髪に精悍な面持ちが脳裏に浮かぶ。
「嶋子か。何の用だ」
「今、どこにいる。雪白さんはどうなった」
丸眼鏡の男は答えた。
「さてな」
「貴様、ふざけていないで答えろ」
煙草を咥えたまま、彼は言った。
「つまらん問答なら切るぞ。そちらこそどうなった」
歯軋りとともに怒りを呑みこむ気配が伝わってきた。押し殺した声が電話口から聞こえてくる。
「……インターネット上に氾濫していた和良波夜美の呪いの画像は、現時点ではその存在を一切確認できていない。まるで初めからなかったように
電話の向こうで深呼吸をする。
「呪いの画像が添付されたメールを受け取った者も報告されていない。日に起こる自殺の件数も以前の水準に戻っている。このまま呪いの画像の存在が認められなければ、政府及び防災省はケース:毛羽毛現の終息を宣言するだろう」
重々しく告げた。
「和良波夜美の祟りは、終わったらしい」
清掃員は猫背を小さく揺らす。
「良かったじゃあないか」
「何が良いものか」
怒声が響き、夜の
「三日前の同じ時刻、全国で【詳細は伏す】名もの人々が行方不明になった。
声を
「
電話の相手は厳しく追及してきた。
「貴様はこうなることがわかっていたのか」
「わかるはずがない」
携帯電話を耳に当てた男は冷静に返す。
「神仏は人の生き死になど
電話機を強く握り締めたのか、何かが軋む音がした。長い沈黙があり、木の
「なぜ我々の
「お前の物差しで測るな、人間」
煙草を指に挟み、丸眼鏡の男は言った。
「俺は、俺の理に従っているだけだ」
震える息が吐き出された。幾分か落ち着きを取り戻した声が指摘する。
「貴様は、あの湖にいるんじゃないのか」
殆ど直感だった。痩せた男の沈黙を肯定と捉えて、矢継ぎ早に言った。
「なぜそこで待つ。雪白さんを見殺しにしたんじゃないのか。もう三日目だ。無事に戻ってくるとでも言うつもりか」
「お前がそれを言うのか。水底に沈んだ町の、唯一の生存者であるお前が」
その反論に言葉を詰まらせる。煙草を吹かして、男は続けた。
「妙に突っかかってくるのはそのせいだろう。わからんな、俺はあの災害を引き起こした相手じゃないぞ」
「ああ、その通りだとも」
図星を突かれ、電話口で叫ぶ。
「人ではない貴様にはわからないだろう。俺たち人間の心など、いつまで経っても理解できやしない」
その叫び声が耳障りな雑音に呑まれる。代わりに聞こえてきたのは、少女のけたたましい笑い声だった。携帯電話の画面の中で、血に浸された生首が男を
丸眼鏡の男は雪白硝子の携帯電話を握り潰した。絶叫が鳴り響く。電話機の破片とともに林檎のストラップが地面に落ち、その上に鮮血が滴った。
この瞬間、本体と繋がりを断っていた和良波夜美の分霊が消滅し、数多くの被災者を出したケース:毛羽毛現は事実上終息した。
軍手を赤く染め、男は無表情で言った。
「黙れ」
その呟きが夜風に溶ける。
広大な湖の
濡れそぼった長髪を垂らし、肺の中に入った水を吐き出している。その彼女の後頭部を、丸い眼光が見下ろしていた。
「――いつまでそうしているつもりだ」
唐突に投げかけられた言葉に、女性は前髪を額に張りつかせて見上げた。清掃員が煙草を手に問う。
「聞かせろ。なぜあんたはまだ生きている?」
雪白硝子は、まるで状況を理解できない様子だった。弱々しく首を振り、冷え切った体を小刻みに震わせて唇を開く。
「もっと、優しく落としてください。夜美さんは、どうなったんですか」
丸眼鏡の男は片眉を跳ねる。どうやら彼女の認識では湖に落下した直後らしい。口から煙を吐き出して告げた。
「さあな。少なくとも、もう人を呪うことはないだろうよ」
その言葉を
「そう、ですか。良かった……」
地面に突っ伏したままの彼女を観察していると、土を掴んだ指の隙間から白い何かがはみ出ていた。
「あんた、何を握っている」
問われて初めて気づいたらしく、怪訝そうな表情を浮かべて自身の右手を開く。その手のひらの中には、簡略化された人間の形をした紙人形があった。役目を終えたヒトガタは
その現象を不思議そうに見送った硝子は、急に響き渡った笑い声に驚いた。痩せた体をくの字に曲げて、清掃員がこれ以上ないほど愉快そうに笑っていた。
「随分とまあ、お優しいことじゃないか。巫女殿は」
腹を抱える人影に、彼女は呆れていた。ひとしきり下品な大笑いをした後、彼は膝を曲げてしゃがむ。硝子に目線を合わせ、煙草を鼻先に突きつけた。
「あんた、今無職なんだろ」
顔を逸らす硝子に構わず、清掃員は言った。
「普段、俺は特殊清掃員……孤独死や自殺した人間の死体を始末している。また、いつ死にぞこないが騒動を起こすとも限らんのでな」
目を丸くする硝子に提案を持ちかけた。
「どうだ、この仕事をしてみるつもりはないか。死体が好きなんだろ?」
彼女は目をしばたたかせた。月明かりに照らされた顔に笑みが広がり、頷く。
「はい」
その屈託のない笑顔に、丸眼鏡の男は肩を揺らす。立ち上がり、青白い月を仰いだ。確かにあの青年の言う通りだ。いつまでも、人の心は理解できそうにない。
「いつまで、いつまで――」
夜空にそう口ずさんだ。
ケース:毛羽毛現 二ノ前はじめ@ninomaehajime @ninomaehajime
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