災害記録16

 蒼白な月明かりが磨かれた湖面を照らし出す。その上には揺るぎのない山影やまかげが映っている。

 かすかな月光の下、山の麓で倒木とうぼくに腰かけている人影があった。枯草色の制服を着ており、制帽を被っている。丸眼鏡を白く輝かせ、口に咥えた煙草から紫煙を立ち昇らせている。長靴の傍らには、曲がった煙草の吸い殻が積み重なっていた。

 静謐せいひつが破られた。人の手が及んでいない自然にはそぐわない、どこか滑稽こっけいに聞こえる着信音だった。ポケットから取り出し、飾り気のないカバーケースが施された携帯電話を見下ろす。軍手の指の股から、赤い林檎のストラップが垂れ下がっていた。

 眼鏡のレンズに映っていたのは、見覚えのない電話番号だった。倒木に腰かけたまま、痩せた男は電話に出る。

「誰だ」

「――まさか、本当に繋がるとはな」

 生真面目な声色には聞き覚えがあった。短く刈り上げた髪に精悍な面持ちが脳裏に浮かぶ。

「嶋子か。何の用だ」

「今、どこにいる。雪白さんはどうなった」

 丸眼鏡の男は答えた。

「さてな」

「貴様、ふざけていないで答えろ」

 煙草を咥えたまま、彼は言った。

「つまらん問答なら切るぞ。そちらこそどうなった」

 歯軋りとともに怒りを呑みこむ気配が伝わってきた。押し殺した声が電話口から聞こえてくる。

「……インターネット上に氾濫していた和良波夜美の呪いの画像は、現時点ではその存在を一切確認できていない。まるで初めからなかったように消失しょうしつしている」

 電話の向こうで深呼吸をする。

「呪いの画像が添付されたメールを受け取った者も報告されていない。日に起こる自殺の件数も以前の水準に戻っている。このまま呪いの画像の存在が認められなければ、政府及び防災省はケース:毛羽毛現の終息を宣言するだろう」

 重々しく告げた。

「和良波夜美の祟りは、終わったらしい」

 清掃員は猫背を小さく揺らす。

「良かったじゃあないか」

「何が良いものか」

 怒声が響き、夜の静寂しじまを破る。目を光らせていた野生動物がくさむらを揺らして逃げ出した。携帯電話が耳元で叫ぶ。

「三日前の同じ時刻、全国で【詳細は伏す】名もの人々が行方不明になった。忽然こつぜんと、濡れた携帯電話だけを残してだ。付着した水の成分を分析した結果、例の湖の水質と一致している」

 声をあらげたまま現状を語る。

今日こんにちに至るまで誰一人として発見されていない。メディアを通じて情報操作を行なっているが、この大規模な集団失踪事件は現代の神隠しとして国民たちのあいだにも広まっている」

 電話の相手は厳しく追及してきた。

「貴様はこうなることがわかっていたのか」

「わかるはずがない」

 携帯電話を耳に当てた男は冷静に返す。

「神仏は人の生き死になど頓着とんちゃくしない。ただ理を塗り替えたに過ぎん。その程度の被害で終わったのなら、僥倖ぎょうこうとさえ言える」

 電話機を強く握り締めたのか、何かが軋む音がした。長い沈黙があり、木のうろの中でふくろうが静かに鳴いていた。やがて乾いた声が問うた。

「なぜ我々のがわに立つ、化け物」

「お前の物差しで測るな、人間」

 煙草を指に挟み、丸眼鏡の男は言った。

「俺は、俺の理に従っているだけだ」

 震える息が吐き出された。幾分か落ち着きを取り戻した声が指摘する。

「貴様は、あの湖にいるんじゃないのか」

 殆ど直感だった。痩せた男の沈黙を肯定と捉えて、矢継ぎ早に言った。

「なぜそこで待つ。雪白さんを見殺しにしたんじゃないのか。もう三日目だ。無事に戻ってくるとでも言うつもりか」

「お前がそれを言うのか。水底に沈んだ町の、唯一の生存者であるお前が」

 その反論に言葉を詰まらせる。煙草を吹かして、男は続けた。

「妙に突っかかってくるのはそのせいだろう。わからんな、俺はあの災害を引き起こした相手じゃないぞ」

「ああ、その通りだとも」

 図星を突かれ、電話口で叫ぶ。

「人ではない貴様にはわからないだろう。俺たち人間の心など、いつまで経っても理解できやしない」

 その叫び声が耳障りな雑音に呑まれる。代わりに聞こえてきたのは、少女のけたたましい笑い声だった。携帯電話の画面の中で、血に浸された生首が男を嘲笑あざわらっている。

 丸眼鏡の男は雪白硝子の携帯電話を握り潰した。絶叫が鳴り響く。電話機の破片とともに林檎のストラップが地面に落ち、その上に鮮血が滴った。

 この瞬間、本体と繋がりを断っていた和良波夜美の分霊が消滅し、数多くの被災者を出したケース:毛羽毛現は事実上終息した。

 軍手を赤く染め、男は無表情で言った。

「黙れ」

 その呟きが夜風に溶ける。さざなみを立てる葉擦れに紛れて、かすかな水の音を鋭い聴覚が捉えた。男は倒木から即座に立ち上がり、その痩身が夜暗やあんに溶けた。樹上じゅじょうから大きな黒い羽根が舞い降りてきて、血塗られた林檎をそっと覆い隠した。

 広大な湖のふちから陸地に這い上がってくる人影があった。わずかな月明かりに照らされて、喪服を連想させる黒いブラウスにタイトスカートという出で立ちの女性が、全身を濡らして地面に這いつくばっていた。パンプスが脱げて素足となっている。

 濡れそぼった長髪を垂らし、肺の中に入った水を吐き出している。その彼女の後頭部を、丸い眼光が見下ろしていた。

「――いつまでそうしているつもりだ」

 唐突に投げかけられた言葉に、女性は前髪を額に張りつかせて見上げた。清掃員が煙草を手に問う。

「聞かせろ。なぜあんたはまだ生きている?」

 雪白硝子は、まるで状況を理解できない様子だった。弱々しく首を振り、冷え切った体を小刻みに震わせて唇を開く。

「もっと、優しく落としてください。夜美さんは、どうなったんですか」

 丸眼鏡の男は片眉を跳ねる。どうやら彼女の認識では湖に落下した直後らしい。口から煙を吐き出して告げた。

「さあな。少なくとも、もう人を呪うことはないだろうよ」

 その言葉を額面がくめん通り受け取り、硝子は胸を撫で下ろしたようだ。青ざめた唇を綻ばせた。

「そう、ですか。良かった……」

 地面に突っ伏したままの彼女を観察していると、土を掴んだ指の隙間から白い何かがはみ出ていた。

「あんた、何を握っている」

 問われて初めて気づいたらしく、怪訝そうな表情を浮かべて自身の右手を開く。その手のひらの中には、簡略化された人間の形をした紙人形があった。役目を終えたヒトガタはまたたく間に黒く染まり、夜空にちりが舞い上がる。

 その現象を不思議そうに見送った硝子は、急に響き渡った笑い声に驚いた。痩せた体をくの字に曲げて、清掃員がこれ以上ないほど愉快そうに笑っていた。

「随分とまあ、お優しいことじゃないか。巫女殿は」

 腹を抱える人影に、彼女は呆れていた。ひとしきり下品な大笑いをした後、彼は膝を曲げてしゃがむ。硝子に目線を合わせ、煙草を鼻先に突きつけた。

「あんた、今無職なんだろ」

 顔を逸らす硝子に構わず、清掃員は言った。

「普段、俺は特殊清掃員……孤独死や自殺した人間の死体を始末している。また、いつ死にぞこないが騒動を起こすとも限らんのでな」

 目を丸くする硝子に提案を持ちかけた。

「どうだ、この仕事をしてみるつもりはないか。死体が好きなんだろ?」

 彼女は目をしばたたかせた。月明かりに照らされた顔に笑みが広がり、頷く。

「はい」

 その屈託のない笑顔に、丸眼鏡の男は肩を揺らす。立ち上がり、青白い月を仰いだ。確かにあの青年の言う通りだ。いつまでも、人の心は理解できそうにない。

「いつまで、いつまで――」

 夜空にそう口ずさんだ。

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ケース:毛羽毛現 二ノ前はじめ@ninomaehajime @ninomaehajime

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