災害記録15

 自分が暮らしていた街を、遥か上空から見下ろしていた。

 懐に抱きかかえた和良波夜美の生首ごと、雪白硝子の細い体は大きく湾曲した鉤爪によって捕らえられていた。少女の死に顔から伸びた髪が黒いブラウスに巻きついて、その鋭い切れ味が肉体に届くことはなかった。

 駅のホームで目の当たりにした丸い眼光が、皮肉屋の清掃員と重なった。

「すごい」

 長髪をなびかせながら、満身まんしん創痍そういの硝子は怪鳥を見上げた。

「本当に人でなしだったんだ」

 その間の抜けた感想に反応するものはいなかった。頭上の黒い怪鳥は大きな翼で空を打ち、両腕の中の生首は無残に千切れた髪を棚引かせて、開いた瞳孔どうこうをしきりに巡らせていた。体に巻きついた黒髪から怯えていることがわかった。

 少女の頭を優しく撫でた。

「大丈夫、怖くないよ」

 なだめてから、異形を見上げる。

「羽座間さん、ですよね。どこへ行くんですか」

 作戦の性質上、硝子に詳細は明かされなかった。ただ「からすが迎えに行く」と嶋子三等陸尉から伝えられたのみである。自らを運ぶ黒い怪鳥は、何も答えなかった。羽ばたきの音が聞こえてくるだけだ。

 高空で風が吹きすさんでいた。あっという間に街は遠ざかり、山々の峰がつらなっていた。陸地さえ途切れ、青い海の上に出る。陽光できらめいていた。

 硝子は少し困った。腕に収まった和良波夜美はまばたきを繰り返している。その恐怖を紛らわせるために、沈黙を切った。

「そのままで良いから、聞いてくれませんか。夜美さんも」

 今、この場にいるのは人外じんがいばかりだ。ましてや高い空の上である。だから勝手に吐き出してしまおうと思った。

 多分、これが最後になるから。

「私は、死体しか愛せませんでした」

 その告白に、腕の中の生首が見上げる気配がする。先を続けた。

「それがおかしいことだとは思いませんでした。動きを止めた生き物の死体は、硝子がらすの中の芸術品みたいで、私にとっては宝物でした」

 二体の人外が耳を傾ける。

「世間の常識とかけ離れていることを知ったのは子供の頃です。轢かれた猫の死体をいとおしく思いました。その亡骸なきがらを連れて帰ったときの、お母さんの得体が知れないものを見る表情が忘れられません」

 その独白が風に溶けていく。

「生きている人を愛するというのはどういう感覚なんでしょう。学生の頃、同じクラスの男の子から告白されて、少しだけ付き合いました。他人への愛情を知ることができるかもしれないと思ったからです。でも、デートをしていても彼には何の魅力も感じませんでした」

 自嘲で傷ついた頬が歪む。

「死体になってくれれば愛せるかもと、高い階段の上で彼の背中を押そうとしている自分に気がつきました。人を殺してしまう前に、慌てて別れました」

 自分を見上げる少女の頭部を、愛おしげに撫でる。

「私も人でなしなんです。よく優しいなんて言われますが、実のところ生きた人間にに対して何の愛情もいだけませんでした。そうしなければ社会の中で生きていけなかったから、笑って人の皮を被っていただけなんです」

「結局葬儀社もくびになりましたしね」と彼女は苦笑いをする。静聴せいちょうしていた怪鳥が一声ひとこえ鳴いた。和良波夜美の髪の毛を通じて、黒い鳥が「馬鹿馬鹿しい」と言っている気がした。

「ああ、本当に馬鹿馬鹿しいですね。生まれついたさがは変えられないのに」

 口をつぐむ。しばらく風と羽ばたく翼の音だけが聞こえていた。

 やがて前方の空で奇妙な雲が大きく広がっているのが見えた。陰影を帯びて、一見雨雲にも思えた。ただところどころで数多くの稲妻が走っている。その動きは直線的ではなく、雲の輪郭をなぞっては身を沈める。どこか生物的だった。

 一本足の怪鳥は勢いを殺すことなく、その仄暗い雲の中に飛びこんだ。内部は豪雨で、落雷の音が轟いていた。あっという間に全身がずぶ濡れになる。薄目で周囲をうかがうと、けぶった視界に不可思議な影が見えた。黒い風切羽で雲を裂く異形でさえ小鳥に見えるほどの、大きな魚影の瞳が無機的にこちらを追っていた。色鮮やかなにじ螺旋らせんを描き、その中心を突っ切る。月に似た銀色の球体が脈絡もなく浮いていた。角を生やした長躯ちょうくの生き物は、おとぎ話の龍を連想させた。

 不思議な夢にも似た時間と空間を越えて、雲を抜ける。先刻まで日中だったはずなのに、日が暮れて夜空に塗り替えられている。星々のない暗黒の下で、果てしない湖が広がっていた。磨き抜かれた鏡にも似た湖面を、浮島を思わせる山の峰々みねみねが突き出ている。髪を濡らしたまま、眼下の光景に見入っていた。

 腕に抱えた和良波夜美の生首が身じろぎをした。見開かれた目の先を追うと、硝子は思わず息を止めた。暗いかげに覆われた山のふもとさえ跨いで、尋常でない大きさの瞳が湖水に映し出されていた。透明な水より透き通った目の色をしており、どこか少女的な長い睫毛が上下した。まばたきさえして、こちらの姿を中心に捉えている。

 黒鳥こくちょうはその瞳を見据える。見ているな、水底みなそこの神め。

 異形の鳥は翼を傾けて高度を落とす。何となくその意図を察した。懐の少女を見下ろす。必死にしがみついた髪の毛から畏怖いふが伝わってきた。とても離れそうにない。覚悟を決めて、硝子は言った。

「羽座間さん、私ごとで構いません」

 泣き笑いに近い表情を浮かべた。

「最後までこの子に付き添います」

 一本足の怪鳥は鷲掴わしづかみにした人間を、丸い眼差しで見た。不安と恐怖が入り混じった顔に目を細め、を描く軌道で飛翔する。風圧が湖面を切った。一度舞い上がって急降下をする。下半身をねじって絡みついた毛髪を引き千切り、その勢いで硝子を和良波夜美の生首ごと湖の瞳の中心へと投げ入れた。

 着水の衝撃に備えていた彼女は、少女の頭部を抱えたまま湖水の中へと沈む。水底は見通せず、ただくらい闇があった。雪白硝子と和良波夜美の首は泡を吐きながら、そのまま深く奥底へと落ちていく。不思議と息苦しくはない。もしかしたら、とうに死んでいるのかもしれない。そう思うと、気分が落ち着いた。

「馬鹿な子たち」

 湖中こちゅうにも関わらず、声が聞こえた。幼くも落ち着いた少女の声音だった。

「行き場所がなくてここへ来たのね」

 水底から真っ白な群れが浮かび上がってきた。硝子たちの周囲を取り巻く。霞んだ視界に入ったのは、白い紙人形だった。数え切れないほどの形代かたしろが輪郭を成す。死人の色をした、細い腕が伸びてきた。

 少女の腕に抱かれ、そのおごそかな声を聞いた。

「神の御許へ還りましょう」

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