災害記録14
裏側を見せていた白い眼球が回る。真正面を凝視し、濁った瞳に黒い女性を映した。距離を隔ててホームに佇む彼女は、小さな白い花を差し出した。
「今日は、あなたに謝りたくて」
一歩を踏み出す。パンプスの踵が鳴った。その反響と同時に、少女の生首を中心にして漆黒が広がった。ホーム全体を這いずる大量の髪の毛が目前に迫り、四肢を拘束する。首にも黒髪が強く締めつけて、苦しさに呻いた。そのまま足が地面から離れる。
宙吊りになった硝子は、髪を通じて生前の和良波夜美の記憶が流れこんでくるのを感じた。大人しい性格が災いして教室で孤立し、いつしかいじめの対象となった。机の上に酷い落書きをされて、授業中にノートの紙屑をぶつけられた。何も言い出せず、何度も靴を捨てられては母親から呆れ果てた顔を向けられた。
女子トイレに逃げ出し、洗面台の鏡に己の顔を映す。他人の視線から逃れるために前髪を伸ばし、下膨れをした容貌。いつも俯き加減で、陰気が移ると罵られた。自分の顔が嫌いで仕方なかった。
昔から自分の存在が周囲に悪い影響を与えている気がしてならなかった。いつしか家庭の空気がよそよそしくなったのは何がきっかけだっただろうか。家族と過ごす時間が苦痛だった。文化祭の準備で、私が所属した班だけがことごとく上手く行かず、直接の原因ではないにも関わらず責められた。この疫病神、と吐き捨てられた。
記憶が飛躍する。視界が宙を舞っていた。体が四散し、首だけが駅のホームに落下する。まだ意識があることに困惑し、携帯電話のシャッター音が連続した。今わの
彼女は涙を流していた。醜悪な死に顔から目を逸らすこともなく、赤の他人の末路を
「ご、めん、なさい」
両者の記憶が
「あなたにもっと早く、手を差し伸べていれば……私が、周りの人たちを止めていれば、こんなことには、ならなかった。だから、ごめんなさい」
喉を締めつけられ、喉の奥で喘ぎながら謝罪の言葉を述べる。命乞いではない。無力な人間が、醜い化け物と化した自分に心底から同情している。
純度の高い善意に触れて
不意に何かが頭の中を突き抜け、少女の側頭部が弾けた。煤けた地面に
「目標に命中」
封鎖された駅から一キロほども離れた商業ビルの屋上で、観測手となった蒲陸士が叫んだ。そのM24と呼ばれる狙撃銃を三脚で固定し、オレンジ色のキャップを被った壮年の男が、眼鏡を外してスコープを覗きこんでいた。霞んだ片目を開き、膝をついた姿勢で呟く。
「存外、錆びつかぬものだな」
大隈班長の落ち着き払った態度に、蒲は驚きを隠せなかった。元自衛官で、現役時代は外国で開かれた射撃競技会で好成績を収めたことは聞かされていた。実際に目の当たりにすると、その狙撃の腕前に舌を巻いた。
硝子は喉に
「私は、あなたに花を供えるために来たの」
鋭い切れ味を残した毛髪が押し寄せて、頬や腕、ブラウスの至るところが裂かれた。その渦の中心へと向かう。やがて一点に少女の死に顔が見えた。かろうじて瞼を開きながら、黒い渦の中を突き進んだ。
とても長い時間に感じられた。体中から血を流しながら、力尽きそうになって両膝を折る。その場に一輪の白い百合を供えて、両腕を伸ばした。
少女の頬に触れて、彼女は呟く。今度は――。
「届いた」
「捉えた」
遮られているにも関わらずその光景を丸眼鏡に映し、枯草色の制服を着た男は言った。駅の上空二千メートルの高度で待機していた陸上自衛隊所有のCH-47から身を乗り出し、
階級章を肩につけた迷彩服姿の嶋子三等陸尉が、開け放たれたカーゴドアから
「良いなあ」
厳しい顔でその変貌を見届けた嶋子は、作戦会議のやり取りを思い出していた。
「――和良波夜美とその
雪白硝子が着替えて準備をしているあいだ、大隈班長が面々に言った。
「薊洋司はその復讐心を見抜かれ、利用された」
カラーレンズの眼鏡の下で、目を細める。
「雪白硝子――彼女には死体に対する嫌悪感が一切ない。和良波夜美にもまるで悪意を抱いていないのだろう。底抜けの善人と言っていい。
椅子に深く腰かけた飯豊警部補が彼を見上げる。
「ホシを情で落とすと?」
刑事らしい物言いだった。
「相手は、散々利用した薊を口封じする化け物ですよ」
「元は人だ」
大隈班長はその意見を受け止めた。
「自殺の現場に居合わせた雪白硝子と和良波夜美とのあいだには
「だから彼女を犠牲にするんですか」
嶋子が訴える。
「大隈さん。あなたは現役時代、勇敢に俺を救助してくれた。だから自衛官になったんだ。我々の本分は、国民の命を救うことではないのですか」
色の濃い眼鏡に彼の表情を映し、冷徹に告げた。
「我々が挑むのは理外の
私では、あなたたちを救えない。かつて聞いた少女の声が耳の奥で
「責任は全て俺が取る」
唇を噛み締める嶋子三等陸尉を一瞥し、痩せた清掃員に目を向ける。
「和良波夜美の本体が姿を現わしたら、お前が仕留めろ。それで良いな」
「いや、それだけでは意味がない」
丸眼鏡の男は言った。
「小娘の本霊だけを始末しても、
「ならばどうする」
「今が絶好の機会なんだよ。本霊は現在位置から移動することもなく、分霊と繋がったままだからな」
彼は笑う。
「あるだろう。特殊激甚災害の性質を塗り替えた、最初の事例が」
初めて特殊激甚災害対策班の班長が動揺を見せた。
「お前、まさか――」
「ああ、あんたもよく知っている場所だよ」
清掃員は顔の前で人差し指を立てた。
「ここは一つ、神頼みと行こう」
雪白硝子の腕に抱かれた和良波夜美の首が回転し、駅の上空を凝視する。彼女たちの周囲を覆っていた全ての毛髪が
視界が閉ざされ、束の間の静寂があった。その向こう側からけたたましい奇声がした。漆黒の闇を切り裂き、丸い眼光を宿らせた異形が出現した。とっさに少女の生首を懐に庇い、硝子は背を丸める。
黒い怪鳥は一本足に具えた鉤爪で、彼女の体ごと和良波夜美の生首を掴んだ。そのまま羽ばたいて駅のホームを飛び立つ。駅全体に張り巡らされた髪の毛が柱といった構造体や線路に巻きつき、必死の抵抗を試みる。
空中で黒い髪の毛が無数に伸びた。異形はものともしない。駅の柱が崩れ、天井が落ちる。吊り下げられていた隊員たちの遺体が瓦礫の下敷きになった。線路のレールが歪に剥がれていき、段階的に崩落音が鳴り響く。周辺に
瓦礫の隙間から生えた一輪の百合が、白い花を咲かせていた。
空高く飛翔する黒い怪鳥の姿を、多くの人々が目撃した。彼らはその異形に驚き、携帯電話のレンズを向けて撮影する。一斉に片手を上げる人間たちを丸い眼光に映し、目を細めた。
「いつまで、いつまで――」
その声を天高く響かせた。
――いつまで、お前たちは変わらないつもりだ。
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