災害記録12

 会議室は騒然とした。

 悲鳴と怒号が飛び交い、中央で高く噴き上がる血飛沫を硝子と飯豊警部補はまともに浴びた。長年刑事をしてきたという男は、赤い断面図を覗かせる首のない死体を呆然と見下ろしていた。革靴の底が鮮血に浸されていく。

 天井まで舞い上がった頭部を、血塗れの硝子はずっと目で追っていた。放物線を描き、離れた長机の上に重い音を立てて落下する。どうしてか生首は垂直に立っており、無残な死に顔を晒していた。整髪料を撫でつけた髪は見る影もなく乱れ、眼鏡は外れて白目を剥いている。半開きになった口から赤黒い舌が垂れていた。

 衆目しゅうもくに晒された薊洋司の生首は、まぶたを小刻みに痙攣させていた。裏返っていた眼球が不意に真正面を向く。不揃いな動きで会議室にいる面々を血走った瞳の中に収めた。目が合った蒲陸士は双眼鏡を手放し、悲鳴を上げて腰を抜かした。

 舌がのたうち、その口腔こうこうから聞くにえない声が発せられた。

「【詳細は伏す】、【詳細は伏す】、【詳細は伏す】――」

 喉から切り離されたにも関わらず、薊の首は血反吐とともに呪詛じゅそを撒き散らした。机上に血痕を広げながら、その中心で髪の毛をざわめかせていた。

 誰もが硬直する中で、特殊激甚災害対策班の班長が言った。

「羽座間」

「ああ、変化へんげしかけているな」

 痩せた丸眼鏡の男はおもむろに歩き出し、凶行に及んだ髪の毛を収めたノートパソコンを無造作に踏み砕く。その長靴の下で短い断末魔の声が響き、壊れた機器の内部から赤い血が流れ出てきた。

 耳まで裂けた口が笑みをかたどり、その隙間から夥しい牙が覗く。

「成りかけとは言え、人を食うのはひさしい」

 清掃員の変貌へんぼうを目の当たりにした嶋子三等陸尉は戦慄した。その視界を黒い長髪が掠め、遅れて目で追う。雪白硝子だった。その背中は迷うことなく、わめき散らす生首の元へと駆け寄った。その次に彼女が取った、信じがたい行動に驚愕することになる。

 硝子は躊躇ちゅうちょなく薊洋司の生首を抱き締めた。皆が絶句する中で、涙ながらに叫んだ。

「ごめんなさい、私のせいで。あの子の自殺をちゃんと止められていれば、こんなことには」

 鮮血に濡れた頬を、とめどなく伝う涙が洗い流していく。抱き竦められた薊の頭部は、彼女にあらん限りの罵声を浴びせた。赤い歯茎を剥き出しにし、その細腕に噛みつく。硝子は痛みにうめいた。

「雪白さん」

 咄嗟とっさに嶋子が駆け寄ろうとすると、軍手を嵌めた手が制した。片腕を上げた痩身の男は、丸眼鏡の奥底でどこか期待を秘めた視線をその光景に注いでいた。

 突き立てられた歯が皮膚を食い破り、出血する。それでも彼女は頭部を手放さなかった。何度も謝罪を繰り返す。次第に薊洋司の生首から憎悪が薄れて、泣きそうな表情に歪んでいった。

「お前は――」

 噛みついていた歯を離し、人の言葉で言った。

「どうして僕を、憎まない……」

 硝子の長い黒髪に包まれて、薊洋司の顔は再び白目を剥く。舌が力なく垂れ下がり、表情が弛緩しかんした。微動だにしなくなったその頭部は、もはや死体の一部に過ぎなかった。

 その様子を観察していた大隈班長が眉を顰めた。

「変化が、止んだ?」

 目まぐるしい状況に理解が追いつかず、会議室は静まり返っていた。淡い陽光の中で、生首とともにしゃがみこんだ硝子のすすり泣きだけが聞こえている。嶋子が呆然としていると、羽座間の横顔が目に入った。

 笑っていた。



「――君は、和良波夜美の自殺した現場に居合わせていた。それは間違いないか」

 惨劇が繰り広げられた会議室から移動し、同じ階のラウンジに集まっていた。硝子と飯豊は血を洗い流し、別の服に着替えていた。薊洋司に噛まれた腕には包帯が巻かれている。

 目を泣き腫らした硝子はラウンジチェアに座り、大隈班長の問いかけに「はい」と小さく頷く。

「どうして今までそのことを?」

 特殊激甚災害対策班の班長は座らず、眼鏡のカラーレンズに長い黒髪を垂らした彼女を映し出す。着替える前と大差のない地味な服を着た硝子は、両手で顔を覆う。

「私、間に合わなかったんです。もっと早くあの子に手を差し伸べられていれば、こんなことにはならなかった。真っ先に呪い殺されないといけないのは私のはずなんです」

「それで自責じせきの念に駆られていたと。自殺現場に花を供えて回っていたのも、その償いのために?」

 うなだれた彼女は首肯しゅこうする。コートを脱いだシャツ姿の飯豊警部補が椅子の下に影を落としながら、両膝を広げて両手を垂れていた。刑事としての風格も、今や見る影もない。

「どいつもこいつも、肝心なことを言いやがらねえ」

 力なくぼやく角刈りの男は、十歳ほど老けて見えた。部下の裏切りもさることながら、その末路まつろを見届けた衝撃が大きかったのだろう。

 悲嘆に暮れる彼女から顔を上げ、一同に告げた。

「我々には時間がない。薊洋司が仕掛けたというメールが本当なら、自動送信されるまでにこの災害を終息させなければ、より多くの犠牲者が出る」

 オレンジ色のキャップを被った壮年の男は、特殊激甚災害対策班の面々を見渡す。ジャケットにタンクトップの嶋子三等陸尉は拳を固め、迷彩服を着た蒲は太い眉尻を下げた。飯豊警部補は座ったまま、おもてを上げる気力もない様子だった。

 最後に痩せた清掃員を見る。彼は窓際で影になっていた。丸い眼光だけが爛々らんらんと輝いている。

「一つ提案がある」

 重苦しい雰囲気の中で、彼は言った。

「この女を、一人で駅に向かわせろ」

 大隈班長の表情がわずかに揺れた。飯豊がようやく首を上げ、蒲陸士は驚きに目を見開く。色めき立ったのは嶋子だった。

「貴様、何を言っているのかわかっているのか」

 ラウンジにブーツの硬質な音を鳴らして彼に迫る。いきり立つ上官を背後から蒲が必死に押さえた。

「陸尉、落ち着いてください」

「あの場所は震源地だ。迂闊うかつに足を踏みこめば、たちまち呪い殺される」

 腰に両腕を回した部下を引きずる形で、目前に迫った青年を無機的な眼差しが迎える。

「ならどうする。また無闇むやみに部隊を突入させて犬死にさせるのか。それとも高名な霊能者とやらにでも頼む気か」

「貴様が行けば良い。同じ化け物だろう」

「言わなかったか。あの小賢こざかしい小娘は俺を警戒している。穴蔵あなぐらから引きずり出すことはできんだろうよ」

 当人を置き去りにして言い争う二人に、鼻をすする硝子が目を丸くしていた。

「彼女ならそれができるというのか」

「その女には得体の知れない力がある。少なくとも、あの死にぞこないの小娘が手をくださない理由がな。此方こちらから出向いてやれば、姿を現わす可能性がある」

 二枚のドックタグを激しく揺らしながら、彼は叫んだ。

「だから彼女に死ねというのか。そんなものは作戦とは呼べない」

 後方で「あの」とか細い声がした。ラウンジに響き渡る大声にかき消される。

「大隈さん、こんな馬鹿げた提案を採用するんですか」

「時間がないんだろう。あんたが決めてくれ、班長殿」

 両人から難しい判断を委ねられ、オレンジ色のベストを着た男は眉間に皺を寄せた。息が詰まる沈黙を、精一杯に張り上げた女性の声が破った。

「あの」

 小さく手を上げた雪白硝子に、その場にいる全員の視線が集まる。大いに彼女は委縮いしゅくしながらも、はっきりと言った。

「私からもお願いします。あの子が亡くなった駅のホームに行かせてもらえませんか」

 嶋子が目を見張る。無精髭を生やした大隈班長は彼女に告げた。

「あの駅の構内は極めて危険だ。和良波夜美を排除しようとして、防衛省が極秘ごくひに部隊を突入させたがあえなく全滅した。命の保証はなく、成果を挙げられるかもわからない」

「でも、このままじゃもっと多くの人が死ぬかもしれないんでしょう。それに私、あの子に謝りたいんです。もっと早く気づいていれば、死んでまで社会を呪う存在にはならなかった。だから」

 蒲の拘束を振りほどき、嶋子が言った。

「それは違う、雪白さん。あなたの責任じゃない。一般人が犠牲になるのは間違っている」

 必死に説得をこころみる。その青年に向かって微笑みかけた。

「それにやり残したことがあるんです」

「やり残したこと?」

「あの子にも、ちゃんと花を供えてあげないと」

 嶋子は愕然とする。飯豊が硝子を横目にした。そのはにかんだ微笑を、狂人でも目の当たりにした表情で見ていた。

 清掃員が片手で口元を押さえ、笑いを噛み殺していた。その独特な抑揚は、鳥類のえずきによく似ていた。

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