災害記録9

 事実上、雪白硝子は留置状態にあった。

 商業ビルの近くにあるホテルに部屋を用意してもらった。ただ隣室には女性の警官が泊まっており、世話役と称しながら自分を監視していることは明白だった。他にも人員が詰めているに違いない。

 勿論、携帯電話は取り戻せないままだ。

 ホテルのベッドに腰かけながら、硝子はため息をついた。どうしてこうなったのだろう。自殺者を弔っていたら奇妙な清掃員が現われ、荒唐無稽な話を聞かされた。連れていかれた先で陸上自衛隊の隊員や警視庁の刑事、防災省の職員が真剣に呪いや祟りについて話し合っていた。気づけば、自分が無差別テロの容疑者に挙げられていた。

 悪い夢でも見ている心地だった。何もかも目まぐるしくて、訳がわからない。

 あの怖い刑事たちはどこかへ出向いていった。硝子を取り調べても大した成果は得られないと判断したのだろう。刑事ドラマの定番なら、自分の身辺を捜査しているのかもしれない。

 両親にも現状は伝わるだろうか。我が娘のことを案じるか、あるいは嘆くかもしれない。

 あの日以降、母の態度がぎこちなくなっているのはわかっていた。娘の奇行を受け入れられなかったのだろう。己の嗜好しこうが世間の常識とは遠くかけ離れていることを初めて知った。

 再度ため息が漏れた。ベッドから立ち上がり、窓のそばに近寄る。夜景の中に人々の生活の営みが灯っていた。穏やかで、恐ろしい祟りが蔓延はびこっているとはとても思えない。

 窓ガラスに手を当てた。その中に、半透明な顔が閉じこめられていた。白雪姫の絵本が好きだった。硝子がらすの棺で眠る白雪姫の死体を、白馬の王子さまがでてくれる。

 やはり自分は倒錯とうさくしているのだろう。

 駅からそう離れていない場所に、例の商業ビルがあった。七階に光が点いている。彼らの仕事は、いつ終わるのだろう。



 雪白硝子が見上げた階の会議室では、こういったやり取りがなされていた。

「羽座間さん、空を飛ぶのはどういう気分ですか?」

 別の隊員に代わり、蒲陸士は駅の監視という任務から交代した。とくに何をするでもなく壁にもたれていた丸眼鏡の男に近寄り、愛嬌のある顔で尋ねた。

 彼は片眉を跳ねた。

「なぜそんなことを聞く」

「だって、羽座間さん翼があるじゃないですか。自由に空を飛ぶのは気持ち良いのかなって」

 厳しい訓練を経てきた自衛隊員にも関わらず、顎が角ばった顔に幼い笑みを浮かべている。瞳を輝かせる蒲に対して、羽座間は質問の意図を図りかねている様子だった。

「人の姿で歩くよりは速いな」

「いいなあ。僕、本当は航空科を志望していたんですよ」

 素っ気ない態度も気にせず、蒲は語り出した。

「でも、適性がないと言われちゃって。パラシュートの降下訓練があるんですけど、そのときに見た空の景色が忘れられなくてですね。パラシュートが風を受けて膨らむ感触が伝わってきて、装備が体を強く締めつけて」

「……そうか」

 清掃員は首をかしいで、それだけ言った。

「蒲、無駄話をしていないでさっさと仮眠に行け」

 雪白硝子の件に関して、大隈班長と議論を交わしていた嶋子三等陸尉が叱責しっせきした。蒲陸士は背筋を伸ばし、威勢の良い返事とともに慌てて会議室の外へと出ていった。幅の広い背中を見送り、羽座間は小さく息を吐いた。痩せた背を浮かせる。

「待て、羽座間。どこへ行く」

「煙草を吸いに行くんだよ。誰かさんがうるさいからな」

 肩越しに振り返る。

「それともお前は俺の上官か」

 皮肉めいた物言いに、嶋子は舌打ちをする。枯草色の背中に向けて、鷹揚おうように構えていた大隈班長が言った。

「必ず戻ってこい。彼女を連れてきたのは他ならぬお前だ。事態が動くまで、ここから離れるな」

 その言葉に彼は軽く手を振って、外に出る。向かう先はこの階にある屋内喫煙所だった。ガラスで仕切られ、灰皿スタンドが用意されているだけの簡素な造りだ。どうしてそこまで隔離するのか、羽座間にはどうにも理解できない。いつまで経っても人のことわりは不可解である。

 ドアが連なる通路を曲がると、夜更けにも関わらず先客がいた。化繊のコートを羽織った、角刈りの中年の男性だった。ポケットに片手を突っこみ、透明な仕切りに背をもたれている。その煤けた印象がよく似合っていた。

「よお、羽座間さん。来ると思ってたよ」

 足を踏み入れると、飯豊警部補が指に挟んだ煙草を上げる。喫煙所は既に煙で満たされていた。白い灰にまみれた灰皿には、何本かの吸い殻が差しこまれていた。

 自然と彼らは狭い喫煙所内で灰皿スタンドを囲う形となる。

「あんた、雪白硝子の身辺捜査とやらはいいのか」

 丸眼鏡の男は胸ポケットから煙草の箱を取り出し、一本を抜き取って口に咥える。その顔の前に、ライターの火が差し出された。

「悪いね」

 こういうときは礼を口にしなければならないのだろう。人間の社会で学んだ、最低限の常識だった。煙を吸い、吐く。煙草を下ろして、飯豊が言った。

「続きの捜査は部下に任せてある。俺は別件があってな」

 そのまま目を合わせず、彼は煙が充満する喫煙所で語り出す。

「彼女は死体愛好家だった」

 丸眼鏡の奥底で、羽座間は目を細める。

「何だ、それは」

「死体が大好きってことだよ。性的な興奮を覚えたり、蒐集しゅうしゅうしたりしてな」

「食うのか」

 清掃員のどこか間の抜けた問いに、警部補は肩を揺らした。

「あんたらしいな。食人とはまた違うが、世間から見れば異常には違いない」

「収穫はそれだけか」

 大した感想はないらしい。飯豊は肩で大きく息をし、捜査の状況を淡々と伝えた。

「雪白硝子の自宅にパソコンはなかった。インターネットカフェといった、通信環境がある場所に立ち入った足跡そくせきもない。後は、その携帯電話を調べたいんだがね」

 横目で視線を投げた。清掃員は雪白硝子の携帯電話を取り出し、林檎のストラップを振った。

「止めておけ。この中にいる分霊は気が立っている。持ち主でなくとも、理を曲げて殺しにかかるぞ」

 飯豊は鼻を鳴らした。かすみがかった喫煙所の中で、少しのあいだ沈黙が下りた。やがて彼は呟く。

「……俺は長年刑事をやっていてな。呪いだの祟りだのに関わったのは初めてだ。そんなものは信じるのも馬鹿馬鹿しかった――あんたが人間じゃないのは、この目で嫌というほど見せられたがね」

「言葉で伝えるよりもわかりやすかっただろ」

 丸眼鏡の男は笑う。口の端から紫煙が漏れた。その彼に対して、刑事畑の男は率直そっちょくな疑問を投げかける。

「言っちゃ悪いが、もっと悲惨な事件ならいくらでもあった。いじめを理由に自殺して人を祟るなら、この世はどこもかしこも呪いで溢れている」

「あんたは災いが起きるたびに理由を探すのか」

 答えは端的だった。

「ないんだよ、そんなものは。まえれもなく降りかかるのが厄災だ」

 飯豊警部補は低くうなり、また口を閉ざす。その彼に向かって、今度は羽座間の方から問いかけた。

「それで、わざわざこんなところで俺を待っていた理由は何だ。聞きたいことがあるんじゃないのか」

 彼の問いかけに、飯豊は目を伏せた。抑えた声音で言う。

「さっきも言った通り、呪いや祟りなんざ信じていなかった。だから、こんな簡単なことも見過ごしちまってた。全く、刑事失格だな」

 自虐的に言って、彼は続けた。

「あんたは呪われた人間が見えるんだってな」

「ああ」

「俺の思い過ごしなら良い。だから教えてくれねえか」

 ガラスに閉じられた喫煙所の中で、中年の男たちが二言ふたこと三言みことを交わす。痩せた男は簡単に頷いてみせた。

「ああ、そうだ」

 直後、そのこめかみに硬く冷たい感触が突きつけられた。丸い穴の形をしている。丸眼鏡の男は動揺することもなく、煙草を吹かしていた。

「おいおい、何のつもりだ」

 彼の側頭部に押しつけられていたのは拳銃の銃口だった。

「そんな玩具おもちゃじゃあ俺は殺せないぞ」

「てめえ、どうして黙っていた」

 衝動的にコートの中のホルスターから拳銃を抜き、飯豊は低く押し殺した声で言った。り減った革靴の近くに落ちた煙草の先端が、白い煙を立ち昇らせている。

「そのせいで、どれだけの犠牲者が出たと思っている」

「俺の目的は、あの死にぞこないの小娘を引きずり出すことだ」

 怒りで奥歯を噛み締める飯豊に対し、あくまで清掃員の男は淡々としていた。仕切られたガラスに丸い眼光が映っている。

ぬしが釣れるかと思ったが、どうやら泳がされていただけらしい」

 歯軋りの音とともに、指が引きがねにかかる。その手から不意に力が抜け、拳銃を下ろした。喫煙所で立ち尽くし、飯豊は言った。

「なまじ言葉が通じるから勘違いしていたよ。あんたは、やっぱり化け物なんだな」

 何を今さら、と言わんばかりに彼は煙草を咥えたまま片頬を歪める。飯豊は拳銃を収め、喫煙所を出た。顎でうながす。

「ついてこい」

「どこへだ」

 刑事は吐き捨てた。

「捜査だよ」

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