災害記録8

 夕食の支度をしていた。庭へと通じた勝手口のドアから斜陽が落ち、陰影を濃くしている。蛇口から流れ出る流水で皮を剥いたじゃがいもを洗い、人参とともにボウルに重ねる。皮の切れ端がシンクの三角コーナーに積み重なっていた。

 玄関のドアが開く音がした。きっと学校が終わって、娘の硝子が帰ってきたのだろう。水道の元栓を締め、水を止める。その雫がシンクを打つ。布巾で手を拭い、エプロン姿のまま戸口の玉すだれをくぐり、顔を出す。西日に染まった廊下の向こうに玄関があり、そこには見慣れた背格好の人影が佇んでいた。

 漂ってくる異臭が鼻腔びこうを刺激した。魚の腹を裂いた、臓物の生臭さを想起させる。顔をしかめながら、そのみなもとを辿る。ランドセルを背負った娘の姿は影に塗り潰されていた。ただ、その両手に何かを抱えていた。

「お母さん、この子飼ってもいい?」

 無邪気な娘の声。その幼い手に掲げられた輪郭に目を凝らす。両脇を持ち上げられたそれは小動物に見えた。ただ不自然に首の角度が折れ曲がり、頭部が陥没している。

 その正体に気づいて、悲鳴を上げた。我が子が抱きかかえていたのは、車に轢かれたとおぼしき猫の死骸だった。不吉な輪郭の上で、笑う娘の頬が黒く汚れていた。

「その日から、娘のことがわからなくなりました」

 リビングのソファーで膝を揃える母親は、血の繋がりを強く感じさせた。どこか生白く、薄手の生地のブラウスから鎖骨が浮いている。膝の上で両手を重ねる姿は小さかった。

 飯豊警部補と薊刑事は雪白硝子の実家を訪れていた。彼女にはテロの容疑がかかっており、例の画像に呪われながら生存している理由も不明だった。本人にいくら問いただしてもらちが明かず、聞き取り調査を行なうことにした。

 応対した母親は刑事の来訪に、幾度もまばたきを繰り返した。我が娘のことを問われ、困惑と不安を同時に抱いている様子だった。ここまでなら家族として当然の反応だろう。ただ、何度も繰り返される発言に飯豊は引っかかりを覚えた。

「あの子は何をしたんでしょうか」

 自分の娘の無実を訴えるならともかく、しきりに彼女の罪状を知りたがった。心当たりがあると確信した彼は、口が重い母親と辛抱強く対話を重ねて、その後ろめたさを引きずり出すことに成功した。

 あるいは彼女も、肩の荷を下ろしたかったのかもしれない。

「最初は虫の死骸でした。何度も止めるように言いましたが、昆虫の標本を集めるようなものだと思い、放っておくことにしました。だけど……」

「その『趣味』の対象が広がった?」

 飯豊警部補の問いかけに、母親は力なく頷く。隣に座る薊刑事は、薄い眼鏡の下でずっと硬い表情をしていた。

「あの子を強く叱り、主人が帰ってくる前に猫の死体は庭に埋めました。硝子は、頬をぶたれてもずっと不思議そうな顔をしていました。何が悪かったのか、多分わかっていなかったんだと思います」

 話し終えた母親は肩を落とし、深く息を吐く。ソファーに座ったその姿は小さく見えた。刑事二人に向かって、同じ質問を投げかけた。

「あの子は何かしたんでしょうか」

 その悄然しょうぜんとした面差しに、飯豊は穏やかに告げた。

「いえ。捜査中のため詳しくお話することはできませんが、とある事件に娘さんが何らかの形で関わっている可能性がありまして」

 娘の秘密を暴露した罪悪感からか、彼女は精一杯訴えた。

「硝子はとても優しい子なんです。ただ、少しだけ……」

 雪白家を後にして、車の運転席に乗りこんだ薊が吐き捨てた。

「いかれてる」

 忌々しそうな横顔を、シートに背を預けた飯豊警部補が横目で一瞥いちべつした。

 次に向かったのは雪白硝子が勤めていた葬儀社だった。暮れなずんだ空に、火葬場の煙突がそびえていた。訪問を告げると、彼女の上司だったという支店長が出迎えた。応接室で初老に入った男性は、顔に刻まれた皺を深くした。

「雪白さん、ですか。彼女はとてもこの仕事に熱心なスタッフでした」

 そう評価しながら、視線は彷徨う。含みのある態度に、飯豊はかすかに息を吐いた。

「ご本人から自身の素行に問題があったと聞いています。勤務していた職場に迷惑をかけるわけにはいかないと、詳しく明かしてはくれませんでしたが」

 雪白硝子は気弱で、少し強く出ればすぐ泣き出しそうな顔をした。ただ、妙に頑固な一面もあった。自他ともに閻魔えんま顔と評する飯豊警部補が凄んでも、簡単に口を割らなかった。元々正規の手順を踏んでおらず、法にのっとれば彼女は無辜むこの市民なのだ。

 彼の言葉を聞いて、支店長の表情は和らいだ。

「そうですか、雪白さんは変わりませんね」

 目を細めて、当時の思い出を振り返っているかに見えた。少し気が引けた様子で、刑事二人を窺う。

「当人が辞職したとは言え、我が社としてもあまり公にはしたくないのですが……」

「ご心配はいりません。ここで伺ったことは捜査上の機密として、外部に漏れることはありませんので」

 飯豊の言葉に、少しだけ安心したらしい。唇を湿らせて、口を開く。

「さっきも言った通り、雪白さんはとても意欲的に仕事に取り組みました。葬儀の段取りは勿論、ご遺体をとても大切にしていた。刑事さんは、エンゼルケアというものをご存知でしょうか」

「亡くなったご遺体を生前の姿に近づけることですね」

 彼は頷く。

「ええ、彼女はどんな状態で亡くなった方に対しても、真心をこめて処置を施した。ただ」

「ただ?」

 支店長はため息をつく。

「その情熱が行き過ぎたと言いますか。綺麗に整えたご遺体に抱き着いているところを、ご遺族の方に目撃されました。葬儀社の方にクレームが入り、彼女に対して厳重注意を行ないました」

「行為は止まなかった?」

「ええ。類似の問題行動が見られたため、我々としても見過ごすことはできず、仕方なく彼女を解雇するに至った次第です」

 最後に付け加えた。

「彼女は、とても心優しい女性なのですが……」

 刑事二人は顔を見合わせた。

 夕空に伸びる煙突の影を見上げて、薊は結論を下した。

「間違いありません。雪白硝子は、死体愛好家ネクロフィリアだ」

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