災害記録6

 従業員用エレベーターに乗って、商業ビルの七階へと上がった。

 ビルの裏側に回り、防災センターと書かれた看板に従って従業員用入口に入った。守衛室にいた初老の警備員に対して、丸眼鏡の男が軽く手を上げる。守衛はわずかに顔をしかめただけで、出入管理すら行わなかった。不愛想に顎で通路の先へとうながした。

 胡乱うろんな男にも関わらず、このビルの関係者なのは本当らしい。硝子の携帯電話を奪ったままの清掃員は、煙草を咥えたまま守衛室の前を通り過ぎる。その際、警備員の腫れぼったい目が自分に注がれるのを感じる。思わず黒いパンプスのつま先を見下ろした。

 飾り気のない通路に二人分の靴音が反響する。未だに己の置かれた状況を呑みこめずにいた。同時に、不条理に抗えない気の弱さに嫌気が差した。

 煩悶はんもんする硝子を何らおもんばかることなく、元凶の男はエレベーターのボタンを押した。扉が開閉し、彼が乗りこむ。携帯電話は諦めてこのまま逃げてしまおうか。一瞬そう考えて、痩せた手の中で揺れる赤い林檎のストラップに目が行った。

 ああ、だめだ。あの子の遺影を取り戻さなければ。

 一歩踏み出してエレベーター内に足を踏み入れる。扉が閉まり、わずかな浮遊感に見舞われる。もう後戻りできない気がした。

 目的の階に着くと、音が鳴って扉が開いた。リノリウムの通路が一直線に伸びている。煙草を咥えた男が歩き出した。少し遅れてついていく。この階は賃貸スペースだろうか。殆どが空室らしく、白い壁に沿って名前のないドアが連なる。人気がなく、沈黙が気まずかった。自分はどこへ連れていかれるのだろう。

 通路の奥に人影が現われた。他の人間がいることに少し安心がする。その男性は遠目からでも逞しい体つきをしていて、こちらを認識すると一瞬足を緩め、またすぐに足早になった。

 髪を短く刈り上げ、精悍な面差しをした青年だった。タンクトップの上にジャケットを羽織り、迷彩柄のワークパンツを履いている。その胸元には、二枚のドックタグを模した銀色のアクセサリーが揺れていた。

 硬質なブーツの靴底が鳴る。男は煙草を咥えたまま声をかけた。

「よお、嶋子しまこ――」

 近づくやいなや、痩せた清掃員の体は持ち上げられた。盛り上がった腕によって胸元を締め上げられ、そのまま壁に叩きつけられた。制帽が床に落ちる。目の前で繰り広げられる光景に、硝子は両手で口を覆った。

「おいおい、これが自衛隊流の挨拶か。随分としつけが行き届いているな」

座間ざま、貴様どこをほっつき歩いていた」

 屈強な青年に凄まれても、彼は臆した様子がなかった。首を傾け、口の端を歪めている。

「えらく機嫌が悪いじゃないか。また人が死んだか?」

「今この瞬間も犠牲者は増え続けている。連絡も取れないまま、どこぞで貴様が遊んでいるあいだにもだ」

 険しい面持ちを寄せる彼に、清掃員は煙草を指で挟んで煙を浴びせかけた。その挑発的な行為に、傍らにいる硝子の方が青ざめた。

「自分の無力さを俺のせいにするなよ。お前たちも有効な手立てを講じられてはいないだろう」

「貴様……」

 より空気が張り詰める。立ち尽くす硝子に、嶋子と呼ばれた青年が視線を向ける。前に向き直り、清掃員に問いただした。

「彼女は何だ。このフロアは一般人の立ち入りを禁止している」

「重要参考人だよ。公安の連中に搔っさらわれる前に連れてきた」

 痩身の男性を持ち上げたまま、彼は不審を露わにする。

「貴様、何の話を――」

「この女は、例の画像を所持しながら今も生きている」

 腕の力が抜けた。そのあいだに彼の手をすり抜け、床に落ちた制帽を拾って被り直す。襟元の乱れを直し、煙草を咥えたまま頬を歪めた。

「なあ、重要参考人だろ?」

 清掃員のことを無視し、黒一色の格好をした硝子に注目する。彼女が身を固くしていると、嶋子は姿勢を正して踵を鳴らした。敬礼をする。

「大変失礼しました。陸上自衛隊所属、嶋子三等陸尉です。お名前を伺っても?」

「あ、ご丁寧にどうも……雪白硝子と申します」

 呆気に取られていた硝子は慌てて自己紹介をし、何度も頭を下げる。嶋子は右手を下ろし、慇懃いんぎんな口調で言った。

「雪白さん。緊急を要する事態のため、ご同行を願えますでしょうか」

 生来より気弱な硝子に、首を振る選択肢はなかった。「こちらへ」と彼の招きに応じて、通路を歩き出す。その後に続こうとした丸眼鏡の男の口元から煙草が消えた。その目の前に、強く固められた握り拳があった。

「ここは禁煙だ」

 彼に対する風当たりは変わらなかった。嶋子に煙草を握り潰されて、羽座間という男は両肩を竦めた。

 嶋子という陸上自衛官に連れられて、二人は通路を歩く。硝子は頭の整理に必死だった。どうして陸上自衛隊が関わってくるのだろう。自分を騙すために芝居をしているとも思えず、一気に話が大きくなった気がした。

 やがて警官が立つ大扉が見えてきた。背筋を伸ばして見張りに立っていた男性と嶋子が敬礼を交わす。彼が身を退けると、青年が扉を開いた。戸口をくぐる際、制帽の下からいぶかしそうな視線を向けられた。

 そこは会議室だった。広々とした室内に、長机が規則正しく並べられていた。奥にある大きなホワイトボードは何度も書かれては消されて汚れている。その近くにはオレンジ色のキャップを被り、同色のベストを着た壮年の男性が座っていた。カラーレンズの眼鏡をかけ、机に積み上げられた書類に目を通している。

 嶋子が会議室を横切る。その途中で、濃紺の背広を着た若い男性がノートパソコンと睨み合っていた。細いフレームの眼鏡に画面の光が映っている。傍らで化繊かせんのコートを着た中年男性が覗きこんでいた。角刈りをしており、眉間に刻まれた皺が近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。

 その強面こわもてがこちらに向けられ、硝子は緊張した。

「随分と早いお帰りだな、羽座間さんよ」

 低い声音だった。彼も羽座間に好印象を抱いていないらしい。胡乱な目が硝子に移る。こちらを値踏みしている気配が伝わってきて、その顔を直視できなかった。

「彼女は?」

「何、ちょっとした有名人だよ。おいあざみ、調子はどうだ」

 相変わらず清掃員は飄々としており、ノートパソコンと睨み合ってキーボードを叩いていた若い男に声をかける。整髪料で頭を撫でつけた彼はパイプ椅子を軋ませて、お手上げという風に手のひらを上に向ける。

「全然ですよ。あの画像はダークウェブにまで浸透してる。AIで作成したディープフェイク画像をばら撒いて被害を抑えようとしても、気づけば本物の画像に乗っ取られちまう。どういうウィルスですか、こりゃ」

「そりゃ呪いだからじゃないか」

「薊、無駄口を叩くな」

 どすの利いた声で叱責され、慌てて「すみません、飯豊いいで警部補」とノートパソコンと向かい合う。この二人はまさか刑事なのだろうか。もはや硝子は驚く気力もなかった。

 カーテンで仕切られた窓際では、迷彩服を着た自衛官が双眼鏡で外を覗きこんでいた。

がま、駅に何か動きはあったか」

「現在目標地点に変化はありません」

 嶋子は上官なのか、生真面目な態度で答える。顎が角ばっており、やや低い身長に対して腕や足の筋肉が太い。骨太な印象ながら、太い眉の顔つきは不思議と愛嬌があった。

「――羽座間、何か収穫はあったのか」

 会議室の奥から声がした。あのオレンジのベストを着た男性が書類から顔を上げ、色が濃い眼鏡の下から視線を投げかけている。無精髭を生やし、頬がこけている。ただ泰然としており、風格があった。

大隈おおくま班長、どうやらお疲れのご様子で」

「心にもないことを。いいから答えろ」

 軽薄に笑いかけた清掃員の言葉を容赦なく切り捨てる。羽座間はおどけた様子で両手を上げた。

「陸上自衛隊に警視庁から派遣された刑事たちが雁首がんくび揃えて役に立たないのでね。こちらで手がかりを探してきたんですよ」

 敬語を使っていても、皮肉な調子は隠さなかった。彼の発言に嶋子と飯豊と呼ばれた男が同時に睨んだ。そばにいる硝子が委縮してしまう。

「その女性がそうだと?」

 班長ということは、羽座間の言う特殊激甚災害対策班とやらを指揮する立場の人間だろうか。大隈は静かな態度を崩さなかった。

「ええ、この女は呪いの画像の影響を受けていない」

 先に知らされていた嶋子を除いて、会議室にいる面々が硝子に注目した。蒲は双眼鏡を下ろし、目を丸くする。飯豊警部補は鬼瓦にも似た表情を浮かべる。班長はゆっくりと腕組みをした。その眼鏡の奥の眼差しは読み取れない。

 椅子を蹴る音が響いた。

 長机に両手をついて立ち上がり、薊という名の刑事が目を見開いていた。

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