災害記録4

 血だまりにひたされた少女の死に顔と向き合い、硝子は言葉をなくしていた。携帯電話を突きつけた男は丸眼鏡越しに目を細め、背中を向ける。立ち尽くしていた彼女は我に返り、地面に投げ出されたハンドバッグに目を落とした。急いで化粧水やリップクリームなどをかき集め、パンプスを鳴らして枯草色の後ろ姿を追いかける。

 踏切の傍らでうなだれたエノコログサが、添えられた白百合の花を静かに見下ろしている。



 痩身そうしんの男に追いついた硝子は精一杯訴えた。

「携帯電話を返してください。人を呼びますよ」

「呼べばいい。あんたが公安に連れていかれるだけだ」

 指の股から赤い林檎のストラップを垂らしたまま、制服姿の男は飄々ひょうひょうと答える。テレビの中でしか聞いたことのない名称に戸惑っていると、彼は告げた。

「雪白硝子。あんたはこの国で発生した大規模災害への関与が疑われている」

 その一言に内包された情報量の多さに混乱した。どうして自分の名前を知っているのだろう。世間の出来事に疎くとも、直近ちょっきんで大災害が起きたのなら大きく報道されているはずだ。第一、個人が左右できる事象ではないだろう。

 煙草を咥えた男はおかしそうに肩を揺らす。

「あんた都市伝説になっているよ。人が死んだ場所に現われる、不吉な黒い女ってな」

 寝耳に水だった。自分はただ自殺者を弔っているだけなのに、どうして都市伝説などに発展するのだろう。

「どういうつもりか俺には理解できんがね、ここひと月ほどで自殺者が急増しているのは知っているだろう。その理由を教えてやるよ」

 煙草を指で挟み、大きく煙を吐き出す。硝子は顔をしかめ、ハンカチで口と鼻を押さえた。

 どれも似た形をした住宅が並ぶ通りは人通りが少なかった。喪服を連想させる装いの女と禁煙が叫ばれる昨今さっこんで白昼堂々喫煙をする清掃員の姿を、ベランダで洗濯物を干していた主婦が怪訝そうに目で追う。

 わからないことだらけだ。奇妙な現象を目の当たりにし、今は得体の知れない男の言動に振り回されている。何より携帯電話の中身を知られた後ろめたさが、硝子を伏し目がちにしていた。

 やがて男が口を開く。

「――全ての発端ほったんは、この街にある駅で起きた自殺だ」

 硝子は顔を上げ、彼の横顔を見つめた。

「若い娘が電車に飛びこんだ。本来ならただの自殺事件として終わるはずだった。だが、自殺直後の轢死れきし体が撮影され、インターネット上に拡散された……この携帯電話にも入っている画像のことだよ」

 硝子の携帯電話を軽く振る。彼女は思わず目を逸らした。丸眼鏡の奥の眼差しが、自分を責めている気がした。

「この画像には、自殺した娘の怨念がこめられていた。祟りは際限なく蔓延まんえんし、ダウンロードした者に自殺を強いる呪いの画像となった」

 そこで言葉を切った。にわかには信じがたい話だった。ダウンロードしただけで人を呪い殺す画像が実在するなど、妄想のたぐいとしか思えない。

 理解が追いつかない硝子に頓着とんちゃくせず、清掃員の男は言った。

「この国のお偉いさんがたは全国各地で膨れ上がる自殺者の数から、この祟りを特殊激甚災害に認定した」

 制帽の男が口にした言葉を繰り返す。

「特殊……激甚災害?」

 甚大な被害をもたらした自然災害などが政府によって激甚災害に認定されると、被災した地域に対する財政支援が手厚くなるのは知識として知っている。男が付け加えた。

「神仏や魑魅魍魎、御霊などがもたらす大きな災いのことだ。この国の人間には秘匿され、対応に当たる防災省の職員からは『見えない災害』とも呼ばれている」

 ますます内容が突飛とっぴになっていく。防災省は、とある地方を見舞った大災害を受けて設立されたばかりの省庁のはずだ。この突拍子もない妄想に、どう関わっているというのだろう。

 携帯電話を取り戻したら、すぐにでも逃げ出したかった。だがこの男性は自分の名前を知っており、あの画像データの存在も把握している。誰かに助けを求めるにも気が差した。

 途方に暮れて、遠くに目線を投げた。住宅地を抜け、街の中心に近づくにつれて高層ビルが目立ってくる。あのオフィスビルはグラスウォールだったはずだ。今は養生ようじょうシートで全体が覆い隠されている。最近は目張りされたビルが増えた気がした。

「金魚が映るからな」

 煙草を吹かしながら彼は呟く。相変わらず言葉の意味はわからなかった。

「この国は、薄氷はくひょうの上にある」

 紫煙が棚引く。多くの人々とすれ違う。

「本来、人が怪奇現象と呼ぶ事象は個人や少数の体験でしかなかった。だが数百年前、人間や鳥獣ちょうじゅうが泥と化す奇病が当時の政府機関によって観測された。これは川の神に捧げられた娘の祟りとされ、村々が寄り集まっていたその一帯は人が住めない土地となった」

 丸眼鏡の奥で目を細める。

「のちにこの祟りの主は来訪神によってたいらげられ、泥に覆われた死の地は湖底へと沈んだ。この湖は現存し、政府によって存在を秘匿されている」

 二人は高架の下を歩いていた。その橋脚には、若者がスプレーで描いたらしい落書きがある。その幼稚な絵を眼鏡のレンズに映した。

「鬼門を開く鳥居の絵、溶けない雪、見てはならない迷ひ家――いつ人の世に破滅をもたらしてもおかしくはない」

 立ち昇った紫煙が虚空へと消える。硝子は何と答えればいいかわからなかった。雑踏ざっとうに紛れて歩いていると、見覚えのある駅が見えてきた。周辺はバリケードで厳重に封鎖され、何人もの警察官が人の出入りを見張っている。

 ひと月ほど前、この駅で化学テロが起きたという。大きく報道され、騒然としたのを覚えている。除染という名目で封鎖されたまま、ずっとこの状態が続いていた。

 ふと胸に痛みを覚えた。

「さて、ここが我らが特殊激甚災害対策班の本部だ」

 丸眼鏡の男が両手を広げておどけた。流されるままに辿り着いたのは、駅前にある商業ビルだった。

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