災害記録1
「――いつまで、しがみついているつもりだ」
「あんたは死にぞこないだ。いくら
丸眼鏡をかけた中年の男は煙草を口の端で咥え、独り言を続けている。
ふと手の動きが止まる。丸眼鏡の中にある視野の端が黒く滲んだ。
清掃員の男が顔を向ける。そこに佇んでいたのは、黒い女だった。まだ二十代前半だろうか。黒いブラウスにタイトスカート。パンプスまで黒いとあっては、
腰まで届く長い髪の毛を揺らし、清掃員の男が立っている雑居ビルの手前まで歩いてきた。日差しを遮る屋上を見上げ、痛ましい表情を浮かべた。デッキブラシを立てて両手を乗せる男の目前でしゃがみ、白百合を横たえて合掌した。
「なあ」
その女性を観察していた清掃員が声をかけた。彼女はハンドバッグを揺らして立ち上がった。
「すみません。お仕事の邪魔をして」
「あんた、ここで飛び降りた人間の知り合いか」
丸眼鏡の男は煙草を指で挟み、尋ねる。女性は首を振った。
「いえ、会ったこともありません」
男は
「なら、なぜ花を供える」
「だって可哀そうだから」
よくよく見れば、目が少し赤い。今にも泣き出しそうだ。黒い服装をした女性は慌てて頭を下げ、
「
清掃員は呟く。
「もう生きて会うこともないだろうがな」
彼の丸眼鏡には、女性のハンドバッグの中から黒い髪の毛が
「どうにもわからんな。死んだ人間に、こんなものが何の役に立つ」
なあ。虚空に向かって笑いかけた。まるで誰かがそこにいるかにも見える振る舞いだった。頬を歪めていた男は、ふと耳を澄ませた。
「――声が消えた?」
その呟きは煙草の煙とともにビルの屋上へ立ち昇って消えた。
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