災害記録1

 喧噪けんそうに満ちた繁華街も表の通りを外れると、活気さは鳴りを潜める。窮屈きゅうくつな裏路地にはマッサージ店を謳う地下への階段があったり、寂れたバーの看板が立っている。電柱には違法な金融業者の広告が張られ、路上駐車も多く散見される。

「――いつまで、しがみついているつもりだ」

 猥雑わいざつな景色の中に、痩身の男が立っていた。枯草色の制服を着て制帽を被り、長靴を履いている。軍手を嵌めた手でデッキブラシの柄を握ってアスファルトの道路を擦っていた。

「あんたは死にぞこないだ。いくらわめいても、もうただの肉片なんだよ」

 丸眼鏡をかけた中年の男は煙草を口の端で咥え、独り言を続けている。毛羽けば立ったデッキブラシの先端を、アスファルトに何度も擦りつけている。この奇妙な清掃員を嫌い、少ない通行人は道の端に寄って通り過ぎていく。

 ふと手の動きが止まる。丸眼鏡の中にある視野の端が黒く滲んだ。

 清掃員の男が顔を向ける。そこに佇んでいたのは、黒い女だった。まだ二十代前半だろうか。黒いブラウスにタイトスカート。パンプスまで黒いとあっては、弔問ちょうもんの帰りかと見紛みまごう。腕にはハンドバッグを提げ、その胸には一輪の白い百合の花が包装紙に包まれていた。

 腰まで届く長い髪の毛を揺らし、清掃員の男が立っている雑居ビルの手前まで歩いてきた。日差しを遮る屋上を見上げ、痛ましい表情を浮かべた。デッキブラシを立てて両手を乗せる男の目前でしゃがみ、白百合を横たえて合掌した。瞑目めいもくしていたのは、一分ほどだろうか。

「なあ」

 その女性を観察していた清掃員が声をかけた。彼女はハンドバッグを揺らして立ち上がった。

「すみません。お仕事の邪魔をして」

「あんた、ここで飛び降りた人間の知り合いか」

 丸眼鏡の男は煙草を指で挟み、尋ねる。女性は首を振った。

「いえ、会ったこともありません」

 男は怪訝けげんそうに片眉を跳ねる。

「なら、なぜ花を供える」

「だって可哀そうだから」

 よくよく見れば、目が少し赤い。今にも泣き出しそうだ。黒い服装をした女性は慌てて頭を下げ、きびすを返してパンプスの足音が遠ざかっていく。

随分ずいぶんとまあ、奇妙な女だ」

 清掃員は呟く。

「もう生きて会うこともないだろうがな」

 彼の丸眼鏡には、女性のハンドバッグの中から黒い髪の毛がうごめいているのが映っていた。道路に置かれた一輪の白百合を見下ろし、躊躇ちゅうちょなく長靴の底で踏みつけた。

「どうにもわからんな。死んだ人間に、こんなものが何の役に立つ」

 なあ。虚空に向かって笑いかけた。まるで誰かがそこにいるかにも見える振る舞いだった。頬を歪めていた男は、ふと耳を澄ませた。

「――声が消えた?」

 その呟きは煙草の煙とともにビルの屋上へ立ち昇って消えた。

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