ケース:毛羽毛現

『間もなく電車が通過致します。黄色い線の内側まで――』

 アナウンスが響き渡る。快速のため、この駅では停車しない。それでもホームには目的の電車を待つ人々が集まり出している。色褪せたピンクのベンチに座り、若者が携帯電話に夢中になっている。

 黄色い点字ブロックの感触を革靴の底で踏み締め、線路を見下ろしていた。さび色をしたレールが敷かれ、等間隔に枕木が並んでいる。その隙間を茶褐色の砂利が埋めていた。

 見慣れた線路が、今は奈落の底に感じる。

 目でなぞると、その遠くから電車の先頭車両が迫ってくる。快速列車だから減速はしない。あの勢いなら人体などひとたまりもないだろう。きっと、苦しむことはない。

 再び目線を下ろす。ホームが途切れた端には茶色い革靴のつま先が並んでいる。何度もなくなったため、新品のつややかさを帯びていた。母の呆れ果てた顔を思い返し、みじめさを噛み締めた。

 たったの一歩だ。踏み出すだけで、全部が終わる。黄色い線を踏み越え、真新しい靴の先端がはみ出た。列車が迫ってくる。運転士はもう異変を感じているだろうか。どの道ブレーキをかけたところで間に合わないだろう。

 奈落へ足を踏み出す直前で、声がかかった。

「ねえ、あなた」

 多分、若い女性だ。様子がおかしい女子高生の存在に気づいたのだろう。もう体が傾いており、唯一大切にしていた長い黒髪が乱れる。甲高いブレーキの音が鳴り響いた。だめ。制止の声が耳朶じだに触れて、誰かの指先が肩を掠めた。

 引きった顔の運転士と、窓越しに目が合った。大きな質量が速度を伴って激突し、五体が吹き飛んだ。激痛を感じる時間さえない。視界が宙を舞い、ホームの上空まで跳ね上がる。そのまま群衆の中に落下し、人の輪が悲鳴とともに大きく広がった。

 赤々とした視界は低く、すすけたコンクリートの地面がすぐ間近にあった。鮮血が広がり、髪の毛が浸される。多くの人々が驚愕と恐怖が入り混じった表情でこちらを見下ろしており、自分はおそらく首から下を失っているのだろうと思った。

 生首だけになっても、人は意識が残っているものなのか。できることと言えば、痙攣に似たまばたきと口をわずかに開閉することしかできない。周りの目からは死後の反射としか思われないだろう。

 自分自身の状況に困惑していると、シャッター音が響いた。

 眼球を巡らせ、上目遣いに音の源を辿る。一人の若者が、携帯電話のカメラをこちらに向けていた。その撮影を皮切りに、次々とレンズを向けた。人垣の後ろから複数の腕が伸び、シャッターを押した。

 止めて、撮らないで。

 懇願こんがんすることさえ許されない。頬をひくつかせて、前列の若者が半笑いで撮影を続ける。今まで感じたことのない憎悪が湧き起こった。生きているあいだも散々馬鹿にされて、最期の瞬間まではずかしめられるのか。

 許さない。

 呪ってやる。お前らも、私をいじめた奴らも全部。

 この世でのうのうと生きる人間を、皆殺しにしてやる。

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