約束
はろ
約束
あの人と、約束をしたと思っている。
「うわー、楠見さん、今日もお弁当きれいですねぇ!」
弾けるように若い声が頭上から聞こえる。
ここ何十年も昼食時の定位置である、屋上のベンチに腰掛けていた私は、煮物のレンコンを掴もうとしていた箸を止め顔を上げた。そこには、光り輝くように明るい笑顔を浮かべた女性が立っている。入社3年目の、吉岡さんというお嬢さんだ。
「いやあ毎度ながら……恥ずかしいですね。男のくせに、こんな弁当」
私は年甲斐もなくはにかんで答える。
65歳で定年を迎えてからも、委託契約という形で勤務し続けてはいるが、以前よりはずいぶんと暇ができた。そのせいか、ただ健康を維持するための手段として続けてきた料理が、このところは趣味と呼べるようなものになりつつある。
レンコンや金時ニンジンを花の形に飾り切りにすることを覚えると、これまであるものをただ詰め込んでいた弁当も、いつの間にか彩りや見た目を気にして作るようになった。
今日の弁当は、小さく俵に握ってごま塩をかけた塩むすび三つ、飾り切りした根菜の煮物、鮭のみりん焼きに、こんにゃくの白和え、それから自家製のナスのぬか漬け。それをわっぱの弁当箱に、それなりのこだわりを持って詰めている。人に褒められたくてやっていることではないが、こうして誰かに気付いてもらえると、やはり張り合いにはなった。
「恥ずかしいなんて。今の時代、むしろ長所ですよ。見せびらかすくらいでいいと思います。こんなきれいなお弁当作れるなんて、本当にすごいです!」
隣に腰掛け、同じように膝の上に弁当を開きつつ、吉岡さんは声を弾ませて言った。同僚や後輩というよりは、親戚の子どものような距離感で懐いてくるこのお嬢さんは、私にとってはとても眩しい存在だ。私が人生において通ることのなかった明るい道の全てを、彼女は知っているように思える。
吉岡さんの弁当箱の中には、冷凍食品のから揚げとミニトマトと白飯だけがシンプルに収められていた。私がそれに視線をやっているのに気付くと、彼女は今度はバツの悪そうな顔をして笑う。
「ふふ。朝から料理作る時間、どうしても作れなくて。それに作り置きもする時間なくて、これでいいやって。結婚したら、彼のお弁当も作ることになるから……もうちょっとちゃんとしなくちゃって、思ってはいるんですけどね」
「ご結婚、来月でしたか」
「はい、来月です。式は挙げないんですけど。……あーあ、私か彼、どっちかだけでも、楠見さんくらい料理が出来れば良かったんですけどねえ。楠見さんって、昔からお料理上手だったんですか?」
「いやあ、私も若い時分は、ずいぶんと適当にやっていましたよ。ですが、まあ……年を取って、少し健康に気を付けて丁寧にやってみようと、そう思うようになっただけで」
そう答えながら、自分が料理をするようになったきっかけについて、私は自然と遠い記憶を掘り下げていた。
そもそもは、あの人と暮らすようになったことが始まりだった。あの頃、日々大学の研究室に入り浸っていた彼は、しばしば食をおろそかにした。没頭していると、食べることも寝ることも忘れてしまうような人だったから、私が何かを食べさせてやらなければならないと思っていたのだ。だから、私は料理をするようになった。
「えー、そうなんですか?適当な楠見さんなんて、なんか信じられないな。楠見さんなら、若い頃から身の回りのことも完璧にしてらしたんだろうなって思ってました。健康に気を付けるっていうのは…健診の結果が悪かったとか、そういう感じですか?」
から揚げを頬張りながら聞く彼女は、どこか無邪気で愛らしく見える。私は密やかに箸の先でレンコンを転がしながら――彼とした約束について思い出す。
『勝手だと思う。でも、ずっと元気でいて欲しい。それだけ、願っている。お願いだから』
こちらのほうが申し訳なくなってしまうほどに号泣しながら、最後にそう言った彼の震える声を、何十年も経った今も私は鮮やかに覚えている。くすぐったいような胸の震えと一緒に。
初めて出来た恋人に、自分が彼女の求めること何一つしてやれない男なのだとやっと自覚して、呆然としていた時に出会った人だった。彼は生まれながらの学者肌で、どうにも浮世離れしたところがあるくせに、初めから私の欲望を一つも余さず正確に把握し、私に教え、そしてそれを完璧に満たしてくれた。私は彼によって私になり、もう元には戻れなくなった。
「昔、私の身体を案じてくれる人がいました……いや、案じるというよりは、健康でいることを約束して欲しいと、そんな意味のことを言われて、」
吉岡さんの無邪気さに引き摺られるようにして、呆れるほど素直な答えが漏れた。吉岡さんは不思議そうに数度目を瞬たかせてから、続きを促すように私を見つめる。
「つまり……約束を守るために、健康に気を付けようと思うようになったのです。あれから、ずっと」
彼とともに暮らしたのは十七年。彼は結局、両親に孫の顔を見せたいからと私の元を去って行った。ぼろぼろと泣いて、謝罪の言葉を繰り返しながら。ずいぶん身勝手な話だし、恨んでも許されたのかもしれないが、私は当時も今もまったく彼を恨むような気持ちにはなれなかった。
私たちの関係性が、私たちの意志とは無関係な理由で、あらかじめその当たり前の願望すら叶えられないように出来上がっていることについては、ある程度恨んだような気はするが。
あれを、約束と呼べるのかはわからない。しかし、私はそれを約束にしたいと思った。だから、『元気でいる』ために、とりあえず彼の口に食物を詰め込むための間に合わせの料理でなく、健康に気を遣った料理をするようになった。
「ふうん……。そっか……なんか、素敵。ロマンチックですね」
まだなおどこか不可解そうな様子ながら、吉岡さんはしんみりと呟く。目を眇めて微笑む、結婚を控えたうら若きお嬢さんは、ただただ光り輝くように見えて、愛おしく思えた。
私がいま、彼女のことを心から祝福できる人間であれたことを、嬉しく思う。そしてそれは、多分あの約束のお陰ではないかと思うのだ。あれから一度も顔を合わせてはいない、今どうしているかも分からない、彼が与えてくれた約束の。
だから多分私は明日も、彼との約束を守るだろう。
約束 はろ @Halo_0303
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