伝えたいこと

宵埜白猫

伝えたいこと

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。

 彼女はいつもと変わらぬ笑顔で台所に立ち、私の前に食事が並ぶ。机の上、部屋は常に綺麗に整頓されていて、彼女と会話しながら食事をすると胸の奥から温かなものが込み上げてくる。

 それと同時に、なぜか酷く泣きたくなるのだ。

 私のその表情に気付いたのか、彼女が机の上にあった私の左手にそっと触れる。彼女の手は冷え切っていたが、それに心底安心して、私は目を開けるのだ。


 目を開けて感じるのはベッドの広さ。結婚してから40年、使い続けたクイーンサイズのベッドが、今の私には大きすぎる。

 億劫になりながら布団から這い出し、歯を磨いて髭を剃り、冷水で顔を洗う。

 これまでなら、これでしゃっきり目が覚めていたのだが、ここ数日はどうにも夢の中にいるような感覚が消えない。つい数カ月前に定年退職を迎えたせいで、朝から向かう場所もない。

 そうなると、着替えるのすら億劫である。

 それでも40年の生活の中で染み付いた癖は抜けない。パジャマのまま一日を過ごそうものなら、きっとまた彼女に笑われるだろう。

 新婚時代は、お互いの生活文化の違いでぶつかることもあったが、今ではそれすらできはしない。

 その上、この家に詰まった彼女の思い出が私を前に進ませてくれない。

 冷蔵庫にあった食パンをトースターにいれるのも面倒で、そのまま口に放り込む。

 買い置きしていた大量の野菜ジュースで喉を潤してリビングに向かうと、彼女の机に置いた一枚の写真が否応無しに現実を突きつけてくる。

 そこに写った彼女の笑顔は、夢の中と同じように穏やかで、私が最も愛した顔だった。

 仕事を終えて、疲れた私をいつも癒してくれていた。私たち2人の間に子どもはいなかったけれど、彼女と生涯を共にすると決めて後悔したことはない。

 それに、今後もしないだろう。

 ただ一つ、悔むことがあるとしたら、それは仕事よりも彼女との時間をもっと大切にしてあげればよかったということだけである。

 夢を見るたびに、その夢から覚めて写真を見るたびに、そう思う。

 私は彼女に、愛していると伝えられていただろうか。

 言葉以上に、行動で示せていただろうか。

 頬を伝うこの熱を、拭ってくれる彼女の冷たい手は、もう伸びてこない。

「愛しているわ」

 まだ間に合うのなら、これからは何度でも伝えよう。

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伝えたいこと 宵埜白猫 @shironeko98

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