ここのつのたましい

じゅげむ

本編

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。

 私は驚いた。8回目ならまだ平静でいられたが、9回目はなんの冗談だと、本気で血の気が引いたのだった。

 フーッと、何度も呼吸する。

 私の小さな心臓がトクトクと走っていた。

「どうしたのー」

 私の少し尋常ならざる呼吸の様子を悟ったのか、大きな召し使いがやってきた。

 いつもは鬱陶しいぐらい構ってくるので敬遠していたが、今は違う。嫌な夢を、しかも9回も見てしまったのだ。

 寝るのが少し怖くなって、私の悪夢の影がまだ近くにいるような気がした。

「夢を見た。同じ夢を9回も」

「呼吸が荒いねえ」

 大きな召し使いはやけに高い声で私に話しかけてくる。彼としばらくの間暮らしているが、いまだに何を言っているのか判別がつかない。しかし、私に気を遣っていることだけは分かった。

 上下する腹に手を置かれ、奇妙な温もりがじんわりと広がる。

「言っても君には分からないだろう。ああ、私が死ぬ夢だ。8回までなら良いのだが、9回目はダメだ。私の友人も9回目は縁起が悪いと言うだろう」

「ひーひー、ふー。だよ」

「ああ、やはり君とは理解し合えないようだね」

 私は大きな召し使いの手を嗅いだ。すると、大きな召し使いのその手が私の鼻腔をくすぐる。なので、私はひとつ噛んでみたのだ。

「いてっ」

 大きな召し使いは嫌がるでもなく、喜ぶでもなく、もぞもぞと微かに蠢いた。目であろう部分で私を観察し、すると怒ることなく私の傍をゆっくりと離れていく。

 床に寝転ぶ私は、昼の陽光を浴びて体を伸ばした。

 仰向けになり、やはり寝るのが少し怖くなって目を閉じれずにいる。

 もんもんとしていると、床を渡った一角で大きな召し使いがおかしなポーズをとっているのに気づく。手に何か持っていた。

 咄嗟に、嫌だなと体を起こして大きな召し使いからの視線から外れた。

 大きな召し使いの不満そうな声が聞こえたが、私は構わない。

 日の当たる素晴らしい床の道も、私にはいまは煩わしい。兎に角、あの悪夢を忘れたくて道を進んだ。

 固い木の床を歩き、私はこの大きな召し使いと空間を共有しているもう一人の友人に会いに行こうと思った。

「ご婦人」

 声をかけると、部屋の寝室スペースでもう一人の友人が寝そべっていた。

 顔に覇気がなく、起きているのか寝ているのか分からないほど目は閉じて開かない。それでも、彼女は私にとってのかけがえの無い時間を共有する友人であった。

「あら、ごきげんよう」 

 丁寧な言葉遣いも彼女から習った。名前など必要もない。この世界には私と彼女と大きな召し使いしかいないのだから、「敬称」だけで良いのだ。

 鼻をつけ、挨拶をした。そうしないと、ご婦人は聴覚と触覚しかないので私を判断することができない。

「ご婦人。私、嫌な夢を見たんです」

「あらあら」

「私が、死ぬ夢です」

「よくあることよ」

 私はグッと堪えて、続きを言った。

「9回も、なんですよ」

 ご婦人は黙った。言葉を失ったようではない。私の唯一の友人は思慮深く、とても優しい。

かつて私がここに来る前に、ご婦人には旦那様がいらしたそうだ。しかし、訳あって身籠ってから子育てまではお一人、そしてお節介焼きの大きな召し使いの力を借りて9人の子供を育てられた。

「9、ああ、子供たちを思い出す」

 懐かしそうにご婦人が呟き、私はあっと鳴いた。

「すいません。思い出させてしまいました」

 今は私しか話し合いがいない。察するに、大きな召し使いが取り上げてしまったのだろう。ご婦人はさぞ悲しいことに違いない。年老いた今でも、その事は忘れられないはずだ。

 自身の浅慮を恥じていると、ご婦人は私に微笑んだ。

「いいのよ。素敵な思い出よ」

「本当に優しいのですね。ご婦人。私、自分勝手にお休みをお邪魔してしまいました。上の部屋に戻りますね」

 すごすごと帰ろうとした時、ご婦人は私の手に触れた。

 動けなくなってしまった。だって、彼女は老体で体を動かすことすら一苦労なんですもの。しかし、さっきの動きあまりにも滑らかで私と同じぐらいの年の方がするような華麗さがあった。

「怖かったのでしょう」

「へ、ええ」

「自分が、死ぬのかと思って」

「はい。恥ずかしながら」

 ご婦人は私の拙い言葉をひとつひとう噛み締めるように聞いていた。

「恥ずかしがることはないわ。誰だって怖いもの」

「ご婦人もですか」

 おずおずと滅相もないことを口走るが、ご婦人は嫌な顔ひとつ見せなかった。

「当たり前よ。未知ですからね。アタクシも死ぬなんて体験は、したことないから」

 茶目っ気たっぷりに言われ、私は少し気が楽になった。本当に、あまりにも同じ夢を9回も見たのだから。 

 私にはかけがえの無い友人がいてくれて良かった、と肩の荷を下ろした。

「ありがとうございます。素敵な友人」

「貴女の夢の代わりにアタクシが死んで差し上げましょう」

「な、な、なにを。ひどい冗談ですわ」

「ホホ。だから心配しないで」

「そんな、そんな。私、貴女にそんなこと言わせるためにこの夢のことを話したんじゃありません。死ぬ、なんて、絶対に言って欲しくなかった」

「あら、ごめんなさいね」

「ひどいです」

「でもね、そんなに怖がることもないんじゃないかしら」

 ご婦人の目は、遠くを見ている。そんな気がした。遠くとは、1度も私が出たことのない壁の外を指すのか、それともここではないどこかを指すのか。私は多くを経験したことがないので、確かなことは何一つ言えない。しかし、ご婦人にはしかと見えていたのだろう。

 翌日、ご婦人は動かなくなっていた。

 見つけたのは私だ。

 生きている者から感じられる気配が、ひとつ消えている。私は目が覚めてそのことを、大事な友人から学んだ。

 胸に広がる空虚と、冷静な頭脳と、靄がかかったような体だった。私はご婦人の体に寄り添い、大きな召し使いが抱き上げるまでじっと離れなかった。

 大きな召し使いが震えて呻いて、言葉など通じ合えない筈なのに、私たちは少しの間だけ友人であった。

 私から友人を取り上げる姿に、怒りはない。命の亡くなった者はあるべき所に行くのだと、私は分かっていた。姉弟を一人亡くしていたからかもしれない。

「ご婦人。今日は素敵な朝ですよ」

 いつもの床の道で、私はご婦人が亡くなるまでしなかったことを始めた。いない友人に、話しかけることだった。

 いないのに、いる。

 不思議な感覚ではあったが、私はご婦人の思い出を抱き締めて忘れることはないので、せめて話しかけてみようと思ったのだ。返事はない。それはそう。でも、やめはしないだろう。

「そこが好きだねー」

 大きな召し使いが私の傍に来る。

「大きな召し使いよ、ご婦人に代わって礼を言おう。私の友人を、君は手厚く葬ってくれたのだろう」

 淡々と私は礼を言った。

「おしゃべりが好きねー」

「君は本当に話が通じないな」

「まるでマリーみたいだ。マリーも、歳をとる前はよく僕に話しかけてくれた」

 私は、床の道に広がる透明な壁を見た。外の世界が見えるが、出ることは叶わない。

 ふと、私はあり得ないことを思った。

 言葉の通じぬ大きな召し使いと、今少しだけ心が通じた気がしてしまった。首を撫でられ、嫌になって私は身を捩る。

 ご婦人、今すぐにでも貴方に会いたい。ですが、まだのようです。

 私の代わりではなく、貴方は自身の状態をよくお知りの上で、私が怖がらないように気を遣って話して下さったのでしょう。

 臆病な私が、孤独に怯えないよう。

 草葉を覗けば、お茶目な貴女が出てきそうです。

 私の友人。素晴らしい思い出よ。

「サリー、今日は大人しいね」

 鬱陶しい大きな召し使いの指を噛んで、私はゆっくりと眠りについた。

 1人と1匹の猫は、縁側で一緒に寝転ぶだけ。

 只それだけ。

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ここのつのたましい じゅげむ @juGAME

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