花堤

飴。

帰り道



 春の嵐で雨が絶え間なく降り注ぎ、そらの荒れ狂う夜遅くの事である。酔った三十代の男がビニール傘を片手に、玉川上水のつつみを、焦点の定まらない様子で彷徨さまよい歩いた。彼は道端みちばたで照り輝く夜桜に悪態をつきながらも、その端麗たんれいな美しさに手招きされ、足を止める。降りしきる雨に顔を打たれながらも、花弁にしたたる宝石に目を刺され、滲むように心を惹かれていった。


 夜桜を見て酔いがめたのか、あるいは身体が冷えたのか、彼は平静を取り戻して、波乱の夜を振り返る。その夜は恍惚感こうこつかんに浸り、口約束などうに忘れていた。横には酔った女がいて、その人物と共に、彼は酒に溺れた。その時、女は彼の背後の何かに驚いた様子で、腰を抜かした。その後、彼は家を追い出され、宛もなく途方に暮れて、玉川堤たまがわつつみを歩いた。


***


 ある日、妻に、今日は泊まり込みで仕事があるからと伝えて、玄関の扉を押そうと手を伸ばす。彼女は、彼を引き止めて、ある約束を申し出た。要約すれば、午後十時頃に一度連絡をしてほしいというものだった。彼はそんなことで良いのかと安心して、颯爽さっそうと家を出てく。


 気がつくと、彼は父親に手を引かれて遊技場を訪れていた。店内に充満した煙草たばこの霧が肺の気管支にまで浸透して、異物を吐き出そうと咳をする。飴玉あめだまほどの鋼球こうきゅうは木箱の中を飛び交って、吸い込まれて消えていった。そして、大きなうなり声とともに、父親はその場から立ち上がった。


「チェンジだ。チェンジ」


 彼は怒鳴るように叫んだ。そして、今にもこぼれそうな焼酎しょうちゅうが入ったグラスを片手に、横に座る女を睨みつけた。彼女は呆れた様子で、彼の背中をさすった。そして、魔性のささやきが彼の心を温めた。甘い話にそそのかされたのか、彼は理性を失って散財を始める。


 目が覚めると、頬に痛みが走った。横には父親がいて、握り拳を目一杯に振り上げて、早く起きろと言わばかりに威圧した。彼はその脅威きょういから逃れるため、自分よりもいくつか若い女を置いて、後ろを振り向くこともなく、家を出た。


 彼は珍しく地元の街を徘徊した。そらの天気は快晴で、冬の名残なごりさらされて、なぜか心地好ここちよい。首筋の冷えを感じて、襟巻きを着直していると、昨晩の事を思い出して唐突に頬が緩む。丁度ちょうどその時、晩の女が茶封筒を持って遊技場へ入るところを目撃した。彼はいぶかしんで、店の窓硝子まどガラスを覗き込むようにして見てみるのだが、そこに彼女はいなかった。彼は白昼夢でも見ていたのだろうと考え、再びフラフラと歩き始める。


 その日、彼は会社で自身の作業机の前に座り、スマホの画面を見つめて、ニヤニヤとほくそ笑んでいた。すると後輩の女が、呆れた様子で彼の元へ来て、彼の机に山ほどの資料を置いた。そして、「今夜はダメですよ」と、一言添える。その内容もそうだが、初めて話すのに、どこか馴染みを感じて背筋が凍る。途端、何かに気づいた彼は、隠せない動揺に筋肉が強張こわばり、高まり続ける心臓の音で、周囲の雑音が消える。それから、彼は女から逃れるように、夜桜へ染まりく。


***


 彼は懐古に身を任せて、平たく積もった夜桜の絨毯じゅうたんの上で、仰向けになっていた。雲はその質量を増して、雨は相変わらず眼球に突き刺さり、そらは雨雲と闇に覆い隠された。しかし、彼はその先の夜空にまで目をり、桜木とそらを並べて、人形劇を見たときと同じ感動を覚えた。


「……いちにいさん、どうして」


 突然、彼の耳に、甲高く震えた声が入り込んだ。彼は周囲を見渡そうとしたが、まだ酔いが醒めていないのか、或いはねずみ色のそらに釘付けにされているのか、筋肉の使い方を忘れている。


「……にいさん、いちばんあ」


 やはりよく聞き取れず、蘇る回想に紛れて幻聴が聞こえているのだろうと、彼は推測した。しかし、これを最期に、再び幻聴が耳に入ることは無かった。


 気づけば、雨雲は春嵐はるあらしに乗って過ぎ去り、そらに輝く星々が水面みなもに反射していた。横には女が一人。そして、彼らの行方を知る者は、星々のみである。

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花堤 飴。 @Candy_3

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